彼は横になったまま、鋭い目つきで彼女を睨みつけていた。眠りから覚めたばかりの警戒心すら、凄まじい威圧感とともにまとっている。
黒川綾乃は、思わず布団を手放しそうになったが、指先でしっかりと縁を掴み、呼吸を止めたまま、平静を装って手を動かし続けた。
黒川真太は音も立てずに仰向けになり、鋭い視線で彼女をじっと見据えた。何も言わず、ゆっくりと手を持ち上げる。その大きな手は彼女の首元で宙に止まり、指を少し曲げる。あと少し力を入れれば、簡単に首を締められる距離だ。
黒川綾乃は落ち着いた呼吸で、布団を彼の胸元まで引き上げ、両脇を丁寧に整えた。その仕草には、目の見えない人独特の慎重さが滲んでいる。
彼女が夜中に起きてきた理由が、ただ彼に布団をかけるためだったとは思いもよらなかったのか、真太の体が一瞬こわばる。そして、彼女の顔をじっと見つめる。まるで、その穏やかな表情の奥から何かを探り出そうとしているようだった。けれど、結局その手は降りてこなかった。
綾乃は胸をなで下ろし、そっとソファへ戻った。クッションを抱きしめ、再び横になる。
怖すぎる……。
もし真太がずっと家にいるのなら、いずれ自分の正体を見破られるか、恐怖で倒れてしまうだろう。
彼女はソファの内側へ体を向け、目をぎゅっと閉じて、部屋中に灯る明かりを無視して眠ろうとした。
どれほど時間が経ったのか分からない。半分眠りかけていたその時だった。
背後から、低く冷たい声が突然響いた。
「眠れない。数を数えてくれ。」
――!
綾乃は驚きのあまり、ソファから跳ね起きた。
真太はまるで幽霊のように、無音で目の前のテーブルに座っていた。その漆黒の瞳は冷たく彼女を射抜いている。
元々聴覚には自信があったのに、彼が近づいた気配すら感じ取れなかった。
その怯えた表情が、どうやら彼を少し愉快にさせたらしい。
唇の端に、不気味な笑みが浮かんだ。
「……寝てなかったの?」
そう問いかける彼女の声は、かろうじて平静を保っていた。
「眠れないって言ってるだろ。分からないのか?」
真太の眉がわずかに吊り上がる。
(眠れないなら、睡眠薬でも飲めばいいのに……)
綾乃はクッションを抱きしめたまま、無理やり微笑んだ。
「じゃあ、ベッドに戻って横になって。私が数えてあげるから。」
「ここで数えろ。」
真太は彼女の腕をぐっと掴み、ソファから無理やり引きずり起こし、ベッドの横へと連れて行った。
綾乃が考える暇もなく、肩を強く押され、そのまま冷たいカーペットの上に座らされた。
……。
まさに鬼畜。
人間として最低だ。
真太は満足そうにベッドへ戻り、布団をかけ直して寝転んだ。
だるそうに命じる。
「始めて。」
綾乃はベッドにもたれ、少し深呼吸してから従うように声を出した。
「一匹の羊、二匹の羊……」
ベッドの上の男が、鋭い目で彼女をにらんだ。
「羊なんて数えろって言ったか?」
……。
綾乃は小泉久美子の言葉を思い出した――彼は幼い頃、屠殺場に閉じ込められていた。ホストだけでなく、羊にも強いトラウマがある。
彼女は唇を噛み、すぐに言い直した。
「一、二、三……」
柔らかな声は、まるで何も望むことなく、ただ静かに寄り添うようだった。
……。
真太は黙って彼女を見つめている。その瞳の底にある感情は読み取れない。
「二十三、二十四……」
……。
「四十五、四十六……」
「お前、俺から何が欲しい?」
突然、真太が彼女の言葉を遮り、上半身を起こすと、彼女の顎をぐっと掴んだ。
「権力か?金か?今のうちに正直に言え。そうすれば、まだ生きられるかもしれない。」
「後になってバレたら、生き地獄を味わわせてやる。」
その息遣いが彼女の唇をかすめた。
強く掴まれた顎には、はっきりと指の跡が残る。
一言一言が刃のように鋭く、容赦ない威嚇だった。
彼は猜疑心が強く、たった一つの告白でこれほどまでに疑念を膨らませる。
綾乃はもう後戻りできないことを悟り、静かに答え続けた。
「私は何も望んでいません。ただ……あなたが幼い頃、絵に描いていたように――」
「その純粋な幸せを、ずっと持ち続けてほしいだけです。」
「硫酸を浴びる痛みが分かるか?」
真太は冷たく言い放つ。
「どうして私を信じてくれないの?」
「本当の廃人を見たことがあるか?」
その低く冷たい声が、心の奥にまで突き刺さる。
「排泄もできず、動くこともできず、死ぬことすら許されない。」
「頭だけは冴えたまま。」
「それが、毎日続く。」
綾乃はそっと手を伸ばし、自分の顎を掴む彼の手に重ね、真剣な声で言った。
「真太、私はあなたの契約書にサインしました。自分がいつ身を引くべきか、ちゃんと分かっています。」
真太は鼻で笑った。
「人間の本性は、欲深いものだろう?」
契約なんて、彼女の心を縛ることはできない――そう言いたげだった。
「俺の目の前で、何ができるっていうんだ?」
彼女は彼の視線をまっすぐ受け止める。
「私がここを去るまで、あと二年もありません。」
「もし本当に怪しいところがあれば、あなたの好きなようにすればいいでしょう?」
真太はじっと彼女を見つめ、黙り込む。
しばらくして視線を落とし、自分の手首に目をやる。白い包帯に覆われた手のひら、細かな傷がいくつも刻まれている。
……そうか。目の見えない女が、彼の前で何をできるというのか。
「黒川綾乃、今日の言葉を忘れるな。」
彼は手を離し、ベッドのヘッドボードにもたれて、再び気だるげな姿勢に戻る。
しかし、その声は氷のように冷たい。
「さもないと、お前の人生を廃人よりも惨めにしてやる。」
そして、面倒くさそうに言った。
「続けて。」
綾乃は痛む顎をそっと揉んだ。
「そんなに余韻に浸りたいのか?」
真太は横目で彼女を見て、まるでどうしようもない夢見る女を見るような視線を投げてきた。
……。
余韻なんて、あるわけない!
顎が痛くてたまらないだけなのに!
綾乃は何も言えず、仕方なく優しく数え続けた。
「四十七、四十八……」