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第19話 彼女には産まないという選択肢などなかった


夜も更け、人々が静かに眠りにつく頃。

眠気が波のように押し寄せてきた。


黒川綾乃はなんとか意識を保ちながら数字を数えていたが、気づけば頭がコクリと下がる。


……


黒川真太は目を伏せ、床に座り込んだ綾乃を見下ろした。

彼女はベッドの縁にもたれかかり、静かに眠り込んでいる。

黒髪の数本が彼の手の甲に垂れかかり、まるで静かな親しみを込めて絡みついていた。


その穏やかな寝顔を見ていると、真太の心にほんの僅かなほころびが生まれる。

結局、彼は彼女を起こすことはしなかった。


彼は一人、部屋の眩しい灯りの中で横になったまま、目を閉じることなく夜明けまで過ごした。




冷たい床の上で一晩を過ごし、綾乃が目を覚ましたとき、全身の骨がバラバラになって組み直されたような痛みが襲ってきた。


腕も脚も腰も、どこもかしこも痛みと痺れで動かしづらい。


痺れた腕を揉みながら身を起こすと、不意に目の前でこちらを見つめる視線にぶつかった。


その目は血走っており、一瞬たりとも逸らさずに彼女を見つめている。

まるで暗い森で獲物を狙う狼のようだった。


……


彼はとっくに目を覚ましていたのか。

それとも、一晩中眠らずにいたのか?

どれだけ長く自分を見ていたのだろう?


綾乃の心に緊張が走る。


もし彼がずっとここに住み続けるなら、自分の神経は持たないかもしれない。


気を取り直し、綾乃は静かに立ち上がった。

手探りで彼の布団を直し、壁伝いに歩いて杖を取り出し、ゆっくりと浴室へ向かった。




コンコン。


ノックの音が響く。


「若様、奥様」


外から小泉久美子の声がした。


「お婆様が朝食にいらしてくださいとのことです」




高い梧桐の木々に囲まれた二階建ての洋館は、黒川本邸の隣にひっそりと佇んでいた。

朝の光の中で、その静けさがより一層際立っている。


本館の豪華さとは違い、「梧桐の庭」はどこまでも清楚で落ち着いた雰囲気だ。


綾乃は二人の年配者に丁寧にお茶を差し出してから、真太の左隣の席につき、静かにうつむいて食事を始めた。


真太は、テーブルに並ぶあっさりとした朝食にあまり興味がなさそうで、椅子の背にもたれている。




「毎日何をそんなに忙しくしてるんだい」


お婆様、黒川玉子はやや咎めるように真太を一瞥し、その後柔らかな声に変わった。


「今は体にもうひとつ命が宿っているんだから、もっと栄養を取らなきゃいけないよ」


「ありがとうございます、お婆様」


綾乃は穏やかに微笑みながら頭を下げたが、心は静まり返っていた。


黒川家の他の人々が露骨または密かに敵意を向けてくる中で、お婆様は確かに自分に優しくしてくれている。

だが、その優しさはお腹の中の子どもに向けられたものであって、黒川綾乃個人へのものではない──

それが綾乃には痛いほど分かっていた。


本当の「尊重」とは、今の自分のような状況を指すはずがない。




「本当にしっかりした子だね」


玉子はにっこりと微笑みながら、ふと話題を変えた。


「そうそう、証拠を集めてるって聞いたよ。鈴木悠太と鈴木成美を訴えるつもりなんだろう?」


さすが黒川家、どこにでも目を光らせている。


「はい」


綾乃は正直に答えた。


「もう証拠は全部回収させて処分したよ」


玉子は落ち着いた声で、まるで庭の木の成長でも語るように言った。


「この件は、まだ訴訟にする段階じゃないと思わないかい?」




綾乃は思わず箸を強く握りしめた。

手のひらの傷が圧迫され、鋭い痛みが一気に広がる。

顔色がわずかに青ざめ、ひっくり返したくなる衝動を必死に抑え込んだ。


しばらく黙った後、指を緩めて従順に答える。


「分かりました、お婆様」


復讐の道さえも、こんなにも簡単に断ち切られてしまうのか。




真太が隣で冷ややかに口を開いた。


「何が分かったって?お婆様が騒ぎにならないようにって心配してるってこと?お前と俺のことが黒川家の新たな恥になったって?」


「真太!」


玉子の顔が険しくなり、声も冷たくなる。


「私はあなたたちのこと、そして子どものことを思って言ってるのよ!今は誰もが、あなたたちができちゃった結婚だと思ってる。でも、もし薬で仕組まれたって知られたら…この子は黒川家でどう立場を築ける?どうして家業を継げるの?」


薬の力で誕生した後継者など、一生笑いものにされるだけだ。




……


綾乃の心に衝撃が走った。


てっきり、真太が放蕩息子だから適当に嫁をあてがっただけかと思っていたが、お婆様の考えは違うようだ。


世間では、真太は評判も悪く、弟や妹に比べて後継者争いでは不利とされている。

だが、玉子の言葉の端々からは、長男がダメなら曾孫に期待するという意志が透けて見える。


だが……本当に長男を大事に思うなら、なぜ釣り合いの取れる相手を探さなかったのか?


自分、黒川綾乃は、何も持たないただの孤児なのに。




綾乃が心の中で考えていると、黙々と食事をしていた義夫が急に顔を上げ、無邪気に笑いながら口を開いた。


「そうだそうだ!みんなにバレたら恥ずかしいぞ。初めてなのに薬が必要だなんて!」


「ごほっ、ごほっ……」


綾乃は思わず咳き込んだ。

あまりにも突拍子もない発言に、思わずむせてしまう。


つまり、真太には“人には言えない理由”があったから、お婆様は妥協した?




真太は普段なら義父母の話を無視しているが、この時ばかりは顔色がみるみる青ざめ、目に怒気を宿して義夫を睨みつける。

そして、歯の隙間から一言一言絞り出すように言った。


「俺は、できる」


「でも玉子が、今までお前の部屋に女が泊まったことないって言ってたぞ」


義夫はアルツハイマーを患い、かつての威厳はすっかり失われ、今や子供のように無邪気で遠慮がない。


「でもお前はすごいぞ!ガキのくせに一発で命中させるなんてな!昔だったら大将軍になれたぞ!」


……


綾乃は心の中で耳を洗いたい気分だった。

なんてことを平気で言うのか。


……


真太の顔はさらに暗くなり、黙って袖のカフスを外し始めた。

その様子はまるで周囲の空気まで凍らせるかのようだった。


玉子は慌てて使用人に目配せし、声をかけた。


「お爺様、もうお腹いっぱいですね。お庭を散歩しましょう」


これ以上ここにいれば、何が起きるか分からなかった。


「え?まだ食べ終わってないのに……」


義夫は不満そうに、半ば引きずられるようにして食堂を後にした。


「…トウモロコシが…玉子?玉子……」




真太は冷ややかにそれを見送り、片手をテーブルに置いたまま、むき出しになった腕の血管が浮き上がっている。


玉子は箸を置き、二人に向き直った。


「子どもが生まれたら、私が直接育てる」


「真太、黒川家は本来あなたのものよ。必ず私があなたに取り戻させてあげる」


「ふっ」


真太は鼻で笑った。


綾乃がそっと顔を上げると、玉子の顔が一瞬こわばった。


「何がおかしいの?」


真太は身を乗り出し、玉子に顔を近づける。

鋭い瞳で見据えながら、低く、どこか悪意を含んだ声で言った。


「取り戻す?それなら、本当に俺が欲しいものを手伝ってくれよ」


玉子は眉をひそめる。


「あなたが欲しいものって……」


「死にたいんだ。手伝ってくれる?」


真太は軽く眉を上げ、淡々と言い放った。


……


玉子は完全に固まり、顔が真っ青になる。


真太はそれ以上何も言わず、立ち上がって部屋を出て行った。




綾乃は静かにその様子を見守っていた。


玉子は空っぽになった出入口を見つめ、目に涙を浮かべている。

濃い後悔の色が顔に表れていた。


突然、玉子は綾乃の手をぎゅっと掴み、最後の希望にすがるように言った。


「綾乃、子どもを無事に産んでほしい」


「必ず、無事に産んで!」


……


綾乃は素直に頷いた。

それは、従うしかなかった。


もともと、産まないという選択肢など、彼女にはなかったのだから。






郊外にある「帰期亭」という茶館は、客もほとんどいない静かな場所だ。


この場所に来ると、綾乃はやっと心からくつろぐことができた。


静かに茶葉を選びながら、

鈴木洋平、小泉久美子と一緒にパッケージ作業をしていた。


「後ろめたさ?お婆様が若様に対して?」


久美子が首を傾げる。


「外で苦労したからってだけじゃないんですか?」


「それだけじゃない気がする」


綾乃は淡々と答えた。


「きっと、ほかにも理由がある」


「黒川家は、私が思っていたよりずっと複雑だわ」


お婆様は自分の腹の子を後継者にしようとしている。

美香や千鶴の家も激しく争っているし、それぞれの子どもたちもいる。


この子が生まれた瞬間から、権力争いの渦に飲み込まれることになるだろう。


そんな家に、どうして自分の子どもを残せるだろうか。


そう思うと、綾乃は無意識にお腹にそっと手を当てていた。


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