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第3話 あの従兄

電話の向こうから、まず鋭いブレーキ音が響き、次いで「ドンッ」と天地がひっくり返るような衝撃音がした。


その音が電流を伝って突き刺さり、森川結衣の心臓が大きく跳ね上がった。頭の中は一瞬で真っ白になり、ただただ不安と恐怖だけが渦巻いていた。


「修平さん、絶対死なないで。」


かすれた声をなんとか絞り出したが、言い終わらぬうちに通話は途切れた。


暗闇の中、森川結衣の耳には自分の心臓の激しい鼓動だけが響いていた。やがて、スマートフォンにニュース速報が表示された。


――【速報:名神高速道路の一部区間で陥没、負傷者なし】


その文字を見て、張り詰めていた神経が一気に緩み、極度の緊張から解放された途端に、強烈な眠気が押し寄せてきた。


眠気と闘いながらも、森川結衣は修平の携帯を握ったまま、すぐに連絡しようとはせず、彼からの返事をただ静かに待っていた。


意外にも、先に鳴ったのは自分の携帯だった。


受話器から低く冷たい男の声が聞こえてきた。まるで北海道の冷たい風のように、ひとことひとことが氷の刃のように突き刺さる。


「俺だ、修平だ。」


その瞬間、森川結衣は一気に目が覚めた。


こんな威圧感のある人に、あんな非常識なお願いをするつもりなのかと、自分でも思い直す。


少し間をおいて、おずおずと呼びかけた。


「修平さん……」


修平は彼女がどうして予知したのかを問うこともなく、淡々と告げた。


「命を救ってくれた。望みがあるなら言ってみろ。」


「なんでも?」


「ああ。」


冷え切った声が返ってくる。


結衣は一瞬ためらい、寝息を立てる夫を横目で見ながら、力いっぱい携帯を握りしめた指先が赤く染まる。


「――子どもが欲しいんです。修平さん、くれますか?」


翌朝。


目覚ましを止めて、結衣はいつものようにスマホをチェックした。十数件のメッセージは、通信会社の誕生日メッセージを除けば、すべて小野陽太からのものだった。


――どこにいるのか、どうしてまだ来ないのか、なぜ配達で「スープ」を送ってきたのか、と質問が続く。


メッセージやボイスメッセージから伝わる焦った様子に、結衣は無表情で返信した。


【昨夜、夫が酔いすぎて動けませんでした。体調は大丈夫?】


送信後、返信はなかった。たぶんまだ寝ているのだろう。結衣はスマホを脇に置き、昨夜の修平の返事を思い返した。


「木曜日に戻る」とだけ言い、またしても通話が切れ、その後は何度かけても出なかった。


やっぱり断られたのだろう。


でも、それでいい。もともと結衣は彼が承諾するとは思っていなかった。最初にとんでもないお願いをして断らせてから、本命の二つ目の頼み――


「修平さんに、健一郎に自分が妊娠していないことを正直に話してもらう」


これが狙いだった。


心理学で言う「ドア・イン・ザ・フェイス」だ。修平なら、二つ目の頼みまで断ることはないだろう。そう思うと少し安心し、急いで身支度を整えて出社した。


9時半、結衣は時間通りに出勤した。


彼女が勤めるファッション誌の編集部は、京都の赤レンガ造りの洋館に入っている。入るとすぐ、小林陽菜がコーヒーを持って笑顔で近づいてきた。


「森川さん、編集長が会議を始めるって。みんな集まってるから、あとはあなたを待つだけよ。」


すぐそばで高橋鈴夏がからかう。


「ねえ森川結衣、どうせ副編集長は無理だって分かってるからって、サボって遅刻?やる気なさすぎじゃない?」


結衣は腕時計をちらりと見て、ふっと笑った。


「遅刻?してませんけど。今ちょうど9時半ですし、これが定時でしょう。あ、高橋さんは別のタイムゾーンで生きてるんですね。」


その一言で、高橋鈴夏の顔が真っ赤になった。


先月、高橋は「和風デザインの誤用」という初歩的なミスで炎上し、会社が謝罪文を出す騒ぎに。半年分の賞与もカットされている。結衣の言葉は、まさに痛いところを突いた。


離れた席のインターンたちが、こっそり親指を立てながら小声で囁く。


「さすが森川さん、容赦ない!」

「言い方が最高。好きだなー。」


高橋は苛立ちを隠せず、強い調子で言い返す。


「森川結衣、いい加減にしなさいよ!次号のテーマはバイク。陽菜が水島健一を呼ぶの。知ってる?水島家の長男だよ!」


「奇遇ね。」結衣はえくぼを浮かべて微笑んだ。「私も水島健一に依頼するつもり。」


陽菜は一瞬驚いた顔をしたが、高橋は大げさに笑い飛ばす。


「結衣、嘘も大概にしなよ!陽菜は藤原家のお嬢さまだから水島家とも親しいんだよ。あんたに何ができるの?」


結衣の笑みはさらに深まる。


「藤原家のお嬢さま?でも名字が小林なのはどうして?」


高橋は鼻で笑った。


「そんなことも知らないの?藤原商事は陽菜の母方の家系。名字は父親から。今の藤原商事の社長は藤原健次、ちゃんと藤原姓よ。」


結衣は思わず吹き出しそうになった。


本当の藤原家の娘は自分なのに、もう少しで信じるところだった。


10年前、母親に連れられてやってきた陽菜は、森川家の家政婦に雇われた。結衣と同い年だった。


母が二人を気にかけ、家に置いた。


父はいつも結衣にこう言っていた。


「結衣、陽菜は父親がいなくてかわいそうなんだ。譲ってあげなさい。」


そして――


「おじいちゃんが買ってくれた新しいワンピース、陽菜にあげなさい。」


「先に陽菜を車で送ってあげて。お前、最近太ったから歩きなさい。」


学校では、クラス中が小林陽菜を藤原家の本当の娘だと思い込み、結衣は家政婦の子と思われていた。


結衣が否定しようとすると、父はまたこう言う。


「陽菜は繊細だから、自分が家政婦の娘だと知ったら可哀想だろう?結衣は私の娘なんだから、そんなに心が狭いのか。」


後になって気づいた。陽菜の母――家政婦の渡辺美和は、父の初恋の人だった。


物語の結末はこうだ。海外で療養中だった母が亡くなり、父・藤原健次は藤原商事の資金を使い果たし佐藤ホールディングスを設立。渡辺美和とよりを戻し、結衣の実の兄までもが陽菜と結婚した――。


つまり、財閥の娘が陥れられ、実の息子までが愛人の娘を助けて成り上がる、なんとも救いようのない話だ。


結衣は静かに陽菜を見つめて、ゆっくり言いかけた。


「藤原家のお嬢さま?でも本当は、あなたは私の家の――」


「家政婦の娘」


そう言い切る前に、陽菜は慌てて鈴夏の手を取り、強い口調で言った。


「鈴夏さん、そこまでにしましょう。皆同僚ですし、実力で勝負です。家柄なんて関係ありません。」


鈴夏はため息をついた。


「陽菜は本当に優しいよ。貧乏人にも気遣うなんて。森川結衣に水島健一を呼べる資格なんてないわ。編集長が言ってたよ。表紙を取った人が副編集長に昇進。負けるのがオチでしょ!」


そう言い残し、鈴夏は陽菜の腕を取って会議室へ向かった。


他の人は気づかなかったかもしれないが、結衣は陽菜の顔に一瞬浮かんだ余裕の笑みを見逃さなかった。


結衣はスマホを手に取り、水島健一に撮影インタビューの依頼を送った。


返信はすぐに来た。


【水島健一】:いいよ。


【水島健一】:でも、どうやってお礼するの?身を捧げてくれる?

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