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第4話 行き違う運命

水島健一はまたちょっかいをかけてきた。


しばらく返事がなかったからか、さらにもう一通メッセージが届く。【焦らなくていいよ。貸しにしとく。僕たち、まだまだ時間はたっぷりあるからね。】


こういうやりとりにかけては、水島健一は本当に天才だ。一言で想像をかき立てる、絶妙な色気がある。


残念ながら、森川結衣には全く通用しない。彼女は何の迷いもなくパソコンを開き、インタビュー用の質問リストを作り始めた。


バイクのことなら、森川結衣に敵う者はいない。父親に命じられミラノで美術を学ぶはずが、実はドイツで機械工学を修め、数えきれないほどのレースに参加し、廃車修理の最速記録を塗り替えたこともある。恩師からは“天才メカ少女”と呼ばれた。もし父親が帰国と縁談を強要せず、楽な“まともな”仕事を押し付けなければ、今頃は有名チームから引く手あまただっただろう。


日が傾いた頃、森川結衣は作成した資料を水島健一に送り、パソコンを閉じて退社した。


隣の高橋鈴夏が皮肉を込めて声をかける。「森川さん、今日も定時上がり?デート?あっ、そうか、森川さんは既婚者だったね。急いで帰って旦那さんにご飯作るの?本当に理想的な奥さんだこと。」


森川結衣は振り返って微笑む。窓から差し込む夕陽の光がその横顔を照らし、美しさが際立つ。


「違うよ。浮気に行くの。一緒にどう?」


高橋鈴夏は一瞬絶句した。


……この人、やっぱり変わってる!


我に返った頃には、森川結衣の姿はもうオフィスになかった。周りの同僚たちがクスクス笑う中、高橋鈴夏は屈辱で顔をしかめ、イライラしながら机を蹴った。


ちょうどその拍子に机の上の水がパソコンの電源タップにこぼれ、パチッという音と共に画面が真っ暗に。


高橋鈴夏の顔は真っ青になった。――まだ保存してなかったのに!


水島健一が森川結衣の資料を受け取ったのは、すでに深夜だった。


夜の会員制バーの個室で、彼は煙草を咥え、長めの髪を頭の上でまとめていた。垂れた前髪が顔に影を落とし、目元が隠れている。


個室は賑やかで、男女が行き交っている。この店は基本的にスマホなどの持ち込みは禁止だが、水島健一だけは例外だ。冷たい色のスマホを手に、彼だけが一人、酒と喧騒の中で浮いていた。


近づこうとする新人もいたが、周囲が制した。「健一は一人が好きだから、やめときな。」


ひとりの若い女優が、色仕掛けで「健一さん」と甘えながら彼の膝に座ろうとした。その瞬間、水島健一は苛立ちを隠さずに彼女の手首を掴み、「バキッ」という音と悲鳴が響いた。


他の人たちは顔色を失い、それ以上近づく者はいなかった。


ようやく静けさを取り戻し、水島健一はスマホを指で弄ぶ。画面の光が彼の顔を照らす。森川結衣のインタビューリストを読み終え、思わず口元が緩んだ。「なかなか詳しいじゃん。」


隣の太った男が覗き込む。「健一、なんかいいことあった?そんなにニヤけて。」


「そうか?」


「そうだよ。口元、耳まで裂けてるぞ。進化でもすんのかと思った。」


「うるせえ。」


そのとき、またスマホが震えた。送り主は早川理恵。【健一、《和風スタイル》の編集やってる後輩がいて、君のインタビューと表紙をお願いしたいって。友達だから、ちょっとだけ付き合ってあげて~】


すぐに、「小林陽菜」と名乗る人から友達申請とインタビューリストが届いた。


森川結衣の資料と比べると、雲泥の差だった。


夜が更け、街の灯りがきらめく。


六本木ヒルズの三階で、森川結衣は水島健一へのお礼を選んでいた。16万円の万年筆に決めて、名入れを頼んでいると小林陽菜からメッセージが入る。【森川さん、ごめんね。水島健一、私のインタビュー引き受けてくれたみたい。ちょっと聞いてみただけなのに、まさかOKしてくれるとは思わなくて……】


メッセージにはチャット画面のスクショも添えられていた。


森川結衣「……」


彼女はレシートを持って店員に言った。「すみません、返品お願いします。」


店員は困った様子で答えた。「申し訳ございません、水の字のさんずいだけはすでに彫刻してしまいまして、返品はできません。」


「別の漢字に変えることはできますか?」


「はい、可能です。」


森川結衣は顎に手を当て、知り合いの名前を思い浮かべたが、さんずいがつく名前はなかった。そこに、見覚えのない番号から誕生日祝いのメッセージが届く。【お誕生日おめでとう。】


送信時刻は19時07分。


森川結衣はハッとした。それは森川修平の番号だった。


彼女は顔を上げて、店員に言った。「じゃあ、二文字でお願いします。」


「かしこまりました。どの漢字にいたしましょう?」


「森川修平で。」


二十分後、森川結衣は地下駐車場へ向かう途中、見覚えのある顔を見つけた。


森川悠介がきっちりとしたスーツ姿で、肩にはオレンジのケリー・バッグ。そばには清楚な雰囲気の女性――早川理恵がいた。


二人は楽しそうに会話していた。森川悠介が何か冗談を言ったのか、早川理恵は涙が出るほど笑い、危うく足を捻りそうになったのを、彼の手が支えた。


森川悠介が礼を言おうと顔を上げると、そこには森川結衣の静かな眼差しがあった。


彼の顔色が険しくなる。「森川結衣?なんで君が?まさか、つけてきたのか?」


森川結衣は首を振る。「違うよ、買い物に来ただけ。」


彼女は早川理恵をじっと見て、「悠介の携帯で見たことある」と言った。


次の瞬間、森川悠介に腕を掴まれ、人気のない角まで引きずられた。


「何が目的だ?」冷たい声だった。


頭上の監視カメラの赤いランプに彼は気づいていなかったが、森川結衣はしっかりと目に留めていた。彼女の声には少し寂しさが混じった。「悠介、今日が何の日か知ってる?」


森川悠介は眉をひそめる。「話をそらすな。」


森川結衣は苦笑し、早川理恵のほうを見やった。「彼女が好きなんでしょ?昨日酔ってたのも、彼女のせい?」


その言葉が彼の逆鱗に触れたのか、森川悠介は歯を食いしばって言った。「言っておくけど、理恵は研究者で、仕事一筋な人だ。君みたいな金や見栄に執着する女と違う。これ以上つきまとうなら、君の偽装妊娠のこと、すぐに祖父に言うからな!」


「違うよ、悠介、誤解だよ。」森川結衣は必死で説明した。「本当に尾行なんてしてない。買い物に来ただけ。」


そう言って、彼女は紙袋を掲げた。ロゴには高級万年筆のブランド名が記されている。


森川悠介は少しだけ眉をひそめた。そのブランドは、たいてい贈り物用だと知っている。


「誰にあげるんだ?」


「贈り物だよ。」森川結衣は正直に答えた。


森川悠介はそれ以上は何も言わず、祖父の前で余計なことを言うなと釘を刺し、早川理恵と一緒に屋上の話題のレストランへ向かった。


途中、トイレに行くふりをして商業施設の三階、万年筆専門店に立ち寄った。


「すみません、さっき妻がこちらで買い物をしたのですが、結婚指輪を落としたかもしれなくて。ちょっと探していただけますか?」そう言いながら、森川結衣の服装を説明し、さりげなく探りを入れた。


指輪は口実。本当は、森川結衣が何を買い、誰に贈ろうとしているのか知りたかった。


店員はすぐに思い出した。あんなに綺麗な人はなかなかいない。


「かしこまりました。監視カメラで確認してまいります。お客様のお名前を伺ってもよろしいですか?」


「森川です。」


店員は「あっ」と手を打った。「そうだ!奥様が万年筆に彫ったお名前、たしかに『森川』でした。お客様は――」

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