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第5話 身を挺して守る

「あなたは森川……」


店員は言いかけて、ふと言葉を切った。喉まで出かかった名字の二文字目がどうしても思い出せないらしく、気まずそうに頭をかいた。「お名前に“さんずい”が付いていますよね。奥さまが万年筆に刻んだのも、そのお名前でした。」


森川悠介の瞳がわずかに揺れる。


――あのペンは、自分への贈り物だったのか。


心の奥底に、得体の知れない感情がじわじわと広がる。ふとレジ横のカレンダーに目をやると、今日は七月七日。森川結衣の誕生日だと思い出し、目を伏せて余計なことは考えず、店員が監視カメラの映像を提案したときは静かに首を振った。「大丈夫、指輪をどこに置いたか思い出しました。」


そう言って、ショーケース中央の万年筆を指差す。「これを、ラッピングしてください。」


ライトの下で、ローズゴールドの万年筆が繊細な彫刻にきらめき、まるで森川結衣のためにあるような気品を放っている。


店員は一瞬きょとんとした。「こちらはアーティストシリーズの限定品で、『接吻』からインスピレーションを得たものです。世界でたった160本しかなく、お値段は400万円ですが、本当にこちらでよろしいでしょうか?」


「はい。」


カードを差し出し、署名まで一連の動作に迷いはない。


男性の署名を目にした瞬間、店員の動きが一瞬止まる――しまった!


「奥さまのお名前を刻印なさいますか?本体に刻むとデザインが損なわれるかもしれませんが……。キャップの内側なら目立たず上品に仕上がります。ただ、キャップは繊細なのでお時間をいただきます。ご連絡先をいただければ、明日お届けします。」


森川悠介は静かにうなずく。「お願いします。」


大口のお客さまを見送ると、店員はほっと息をついた。よかった、監視カメラの映像を見たいなんて言われなくて。もし見られていたら、最初は水島健一、その後は森川修平と、どちらも森川悠介とは関係ない名前が刻まれそうになっていたことがバレるところだった。


翌朝、編集部はいつになく賑やかで、皆が小林陽菜を取り囲んでいた。


「陽菜さん、すごいよね!水島健一を呼べるなんて!」


「彼は私の憧れなの!」


「え、撮影に来るの?!」


「クッションファンデ貸して、化粧直したい!」


森川結衣が部屋に入った瞬間、騒がしさが一気に静まる。


高橋鈴夏は腕を組み、得意げに言った。「陽菜さんは藤原家のお嬢様よ。水島さんを呼ぶくらい、朝飯前でしょ?見た目が良くても、ファッション業界は人脈が全てよ。」


微妙な緊張感が漂う中、森川結衣は落ち着いた様子で自分の席に着き、さらりと言った。「藤原商事なんて、もうすぐ倒産するのに、どこが名家なの?」


一瞬で空気が凍りつき、皆の視線が小林陽菜に集まった。


小林陽菜の目元にはすぐに涙が浮かび、今にも泣き出しそうだ。「森川さん、ひどい……。」


森川結衣は真顔で応じる。「事実を言っただけよ。」


藤原商事なんて、藤原健次が会社の資産を食い潰してもうすぐ倒産寸前なのだ。


「ひどい!」小林陽菜は泣きそうな声で、顔を手で覆い編集部を飛び出した。


森川結衣はそれを見て思わず笑みがこぼれる。演技が上手いのは知っていたが、涙まで自在とは、女優にならないのがもったいないと感心しつつ、何事もなかったかのように仕事に戻った。


「バン!」


突然、資料の束が彼女の目の前に叩きつけられ、鋭い紙の端が頬をかすめそうになる。


「森川結衣、藤原商事が倒産だなんて、なんの根拠があって言ったの?陽菜さんが千金で、水島さんを呼べたのがそんなに羨ましいの?今すぐ謝りなさい!」


高橋鈴夏が怒りで目を見開く。


森川結衣は彼女を見上げ、わざと驚いたふりをした。「ここにいるの?陽菜さんのこと慰めてあげなくていいの?犬って主人が落ち込んでいるとき、そばにいるものでしょ?」


高橋鈴夏はカッとなり、「どういう意味よ!」と叫ぶ。


森川結衣は真顔で言う。「人間の親友ってことよ。」


高橋鈴夏「……!」


その場での応酬に、同僚たちは興奮気味に見守っている。森川結衣は相手にせず、立ち上がって給湯室へ向かった。


今日は外で取材があるため、ナチュラルメイクにオレンジがかったシャツ、ベージュのロングスカート、足元はアイボリーのヒールと、洗練されたコーディネートだった。


彼女が細身の背中を見せて歩くのを、高橋鈴夏は怒りで顔を紅潮させ、手にした熱いコーヒーを森川結衣めがけて投げつけた。


「森川さん、危ない!」


同僚の叫び声の中、一人の男性が突然、森川結衣の前に立ちはだかった。熱いエスプレッソは男性の背中にかかり、黒いシャツが一気に濡れて湯気を立てる。


高橋鈴夏は冷笑しながら、「さすが森川さん、既婚者なのにヒーロー気取りで守ってくれる人がいるなんて。どこの新人なのかしら?間違った相手に取り入っても、正社員にはなれないわよ……」


男はゆっくりと向き直り、切れ長の目で森川結衣を見つめる。その眼差しは冷たく、危険な光を湛えていた。


高橋鈴夏の声は途切れ、喉を詰まらせながら、やっとの思いで言葉を絞り出した。「み、水島さん……?」

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