水島健一——!
まさか、彼女が水島家の御曹司に熱いコーヒーをかけてしまうなんて。
高橋鈴夏は顔面蒼白になり、慌てて救急箱を持ってきて、必死に謝った。「水島さん、本当にごめんなさい!わ、私、あなたとは気づかなくて……」
彼女は健一の服を脱がせようと手を伸ばしたが、彼は眉をひそめてその手を払いのけた。そして、森川結衣をじっと見つめ、「結衣、君がやって」と低く言った。
「はい。」結衣は素直にうなずいた。
シャツをめくった瞬間、周囲から小さな息を呑む音が漏れる——
火傷がひどかったわけではない。むしろインナーを着ていたので、全くと言っていいほど火傷はなかった。皆が驚いたのは、健一のしなやかで鍛えられた背筋。まるで俊敏な豹のようだった。
結衣は綿棒で、コーヒーがかかった部分に薬を塗った。
健一は目を伏せ、ふわりとした香りを感じた。泣きそうな結衣の瞳を見つめ、唇の端をわずかに上げて、誰にも聞こえない声でそっと言う。「心配してくれてるの?」
結衣は首を横に振る。
「じゃあ、なんで目が赤いの?」と健一はからかうように眉を上げた。
「……?」
もしかして、今日のアイメイクがオレンジ系だっただけかもしれない。まあ、誤解されても別に困ることはない。
一方、高橋鈴夏は倉庫から新しいブランドのサンプルシャツを持ってきた。健一が怒っていない様子を見て、ほっとした表情で結衣を押しのけながら愛想笑いを浮かべた。「水島さん、こちらのシャツに着替えてください。お洋服は私がクリーニングに出します。」
健一は何も言わず、押しのけられた結衣に視線を落とし、不機嫌そうに顔を曇らせた。
鈴夏は気づかずに続ける。「今日は陽菜さんに会いに来られたんですよね?今すぐ呼んできます。ずっとお待ちしてましたので。ただ……」
彼女は結衣を冷たく一瞥し、「うちの同僚が生意気なこと言いまして、あなたに表紙をお願いできるって。自分の立場もわきまえずに、失敗してからはごまかしてばかり。さっきも藤原家のお嬢様を泣かせてしまって。私も腹が立ってコーヒーをかけたんですが、まさかあなたにかかるとは……」
健一は目を細めた。「藤原家のお嬢様?誰のこと?」
鈴夏は不思議そうに言う。「ご存じないんですか?陽菜さんですよ、藤原家のお嬢様は。」
「そうなのか?」健一は笑みを浮かべ、結衣を横目で見た。
結衣は黙ったまま、うつむき加減で日差しを浴びていた。長いまつげが頬にオレンジ色の影を落としている。
健一は怒るどころか、むしろ面白そうに結衣を見つめた。「確かに俺は藤原家のお嬢様の取材を引き受けた。じゃあ、彼女はどこ?」
鈴夏はにこやかに答える。「会議室です。ご案内します。」
「うん。」
健一は結衣から目を離し、そのまま会議室へ向かった。
健一が去ると、オフィスは水を打ったように静まり返った。
隣の田中綾乃がそっと結衣に声をかける。「結衣、大丈夫?」
「全然平気だよ。」
綾乃はため息をついた。「高橋さんが権力をかさに着るのは、今に始まったことじゃないし、みんな分かってるから、気にしないで。陽菜さんはお嬢様だから、水島さんを呼べるのも当然よね。結局、私たちが何年も頑張っても、家柄には敵わないってやつよ。」
その言葉には自嘲気味ながらも、どこか切なさがにじんでいた。
「でも、安心して。今回陽菜さんが表紙を取って、副編集長になっても、どうせ遊びみたいなものだから。いなくなったら、その席はまたあなたのものよ。」
結衣は静かに微笑んだ。「そうはならないよ。今号の表紙は私がもらうから。」
綾乃は目を輝かせた。「まさか、水島さんを奪い取るつもり?」
結衣は思わず笑った。「彼とは関係ないよ。別の人を当ててるから。」
彼女はバッグを持って立ち上がる。「じゃあ、取材先に行ってくるね。帰りに古い町並みを通るから、和菓子買ってこようか?」
綾乃は目を輝かせて、「欲しい!三つ……いや、五つ!」
結衣が出ていった後、綾乃はふと「あっ、誰を取材するのか聞くの忘れた!」と頭を抱えた。
——
一時間後、健一の取材が終わった。
決してスムーズとは言えない内容で、小林陽菜は今にも泣き出しそうだった。健一はとても厳しく、特に「こんなくだらない質問ばかり」と眉をひそめて言った時は、彼女の立場を全く考慮しなかった。幸い、その場には二人だけだった。
取材室を出て、陽菜は無理に笑顔を作って健一に声をかけた。
鈴夏がコーヒーを持って駆け寄る。「水島さん、もう終わったんですね?このカフェは人気で、並んで買ってきたんです——」
健一はうんざりした様子で鈴夏を振り払い、結衣の空いたデスクを指差した。「彼女は?」
鈴夏は一瞬きょとんとし、すぐに言った。「あぁ、森川さん、帰っちゃったんですよ。あなたにコーヒーをかけて謝りもせず、ほんと失礼な人で……」
綾乃は思わず小声でつぶやいた。「コーヒーかけたのは高橋さんなのに、なんで結衣のせいにするの?」
鈴夏は睨み返した。
「まあまあ、みんな同僚なんだし、仲良くやりましょうよ。」
陽菜が間に入り、にこやかに言う。「水島さん、レストランの個室を予約してあります。今後の撮影や取材について、ゆっくりお話しできればと思って——」
「結構です。」健一は不機嫌そうに遮った。「林編集長の取材内容は正直がっかりです。『和風スタイル』がこのレベルなら、これ以上関わる必要はありませんね。」
陽菜はその場で固まり、周囲の誰もが息を飲んだ。皆の前で「プロ意識が足りない」と言い放つとは、あまりにも容赦がない。
健一はそのまま出口へ向かい、結衣のデスクの前でふと足を止めた。
机の上にはカピバラのキーホルダーがぽつんと置かれていた。どこか間が抜けていて愛嬌のあるそれを、健一は何気なく手に取り、上着のポケットにしまい込んだ。そして帰り際、綾乃に言った。「森川結衣が戻ったら、これを取りに来るよう伝えて。せっかく俺を呼んだのに、本人がいないとは大したもんだ。」
オフィスは静まり返り、健一が去るや否や、誰もが驚きの声を上げた。