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第7話 手放しで譲る

「この話しぶりだと、水島健一さんと森川さんって知り合いなの?」

「知り合いどころか、かなり親しそうだよね!」

「じゃあ本当に、水島健一さんは森川結衣が呼んだの?」

「ちょっと大胆だけど、森川さんの旦那さんって、水島家の御曹司なんじゃない?」

「やめてよ、それ本当にあり得るかも!森川結衣の旦那さん、今まで一度も顔を出したことないし!」

「やっぱりこの世の中は、現実のドラマよりよっぽどドロドロだね!」


……


「何を勝手なこと言ってるの!」 

鋭い声がみんなのおしゃべりを遮った。


高橋鈴夏だった。彼女は森川結衣のデスクを睨みつけ、歯ぎしりしながら言った。

「森川結衣なんて、どうして水島家の御曹司と知り合いになれるの?水島家の若様を呼んだのは陽菜さんでしょ!」

「ねえ、陽菜さん、そうでしょ?」


振り返ると、小林陽菜の顔が真っ青になっていた。


「陽菜……陽菜さん、大丈夫?」

小林陽菜は答えず、唇を固く引き結び、心配して寄ってきた高橋鈴夏を振り払うと、みんなの驚いた視線をよそにそのまま走り去ってしまった。


予想外の突き飛ばしに高橋鈴夏はバランスを崩し、少し恥ずかしそうな顔をしたが、「プロの側近」としての自制心が働き、怒りを抑え、代わりに森川結衣に矛先を向けた。


森川結衣の夫が水島健一なんて、あるはずがない。きっとこの女、顔を武器にして、薬を塗るときもわざと色目を使って水島健一を味方に引き込んだに違いない。結婚していながら、そんな恥知らずなことをするなんて、下品にもほどがある。


高橋鈴夏は心の中で思いつく限りの悪口を並べた。そういえば、森川結衣の夫を今まで一度も見たことがない。飲み会で酔っても、毎回自分でタクシーに乗って帰っていたし、誰かが迎えに来ることもなかった。本当に不思議だ――。


ふと、あり得ない思いが頭をよぎる。もしかして、水島健一が本当に……?


すぐさま、婚姻届の管理をしている親戚に電話して、森川結衣の夫の情報を調べてもらった。しかし、婚姻登録システムには森川結衣の名前が一切なかった!


その瞬間、高橋鈴夏はまるで推理小説の探偵になったかのように、あらゆる手がかりが頭の中で繋がっていく――


なぜ森川結衣の夫は絶対に姿を見せないのか?

なぜ森川結衣は夫のことをほとんど話さないのか?


それは、彼女が堂々とできない愛人だからだ――!


高橋鈴夏は興奮で手が震え、すぐに探偵事務所へ連絡し、森川結衣の浮気の証拠を押さえるよう依頼した。


【プロ探偵チーム】:600万円です。


【高橋鈴夏】:……何ですって?


【プロ探偵チーム】:私たちはプロです。三日以内に結果をお届けします。


高橋鈴夏は歯を食いしばって振込を済ませた。小林陽菜の悩みの種を取り除けるなら、財閥のお嬢様からもらえるお礼は600万円どころじゃない。それに、みんなに見せてやりたい。あの清廉潔白な森川課長が、裏ではどんな男を誘惑しているのか――!


その頃、森川結衣は桜空グループ本社のロビーにいた。


磨き上げられたエントランスには人が行き交い、多くの人が彼女に興味津々の視線を向ける。まるで芸能人か何かと勘違いしているようだった。その間も森川結衣のスマホは絶え間なく振動し続けていた。水島健一からのメッセージだ。


【水島健一】:怒ってる?

【水島健一】:俺にだけそんなに当たりが強いんだ。あの林って子、君の家の家政婦の娘だろ?君の名前を使って好き勝手やってるのによく我慢できるな?


森川結衣は画面を消し、返信する気はなかった。


確かに、水島健一は頭が切れる。彼は人の感情を自在に操るのが得意で、時に冷たく、時に優しく、まるで気まぐれな雲のよう。いつ雨になりいつ晴れるのか予想できないのに、なぜかいつも気になってしまう。もしこれが恋愛ゲームなら、彼は間違いなく最強のプレイヤーだ。


「森川さん、申し訳ありませんが、本日はお引き取りください。社長は出張中で、今は日本にいません。」

受付の女性が内線を切り、丁寧に説明した。


森川結衣は気落ちすることなく、やわらかく微笑んだ。「ありがとうございます。それでは、また明日伺います。」


その笑顔は春風のように優しく、受付の女性も思わず目を瞬かせた。彼女は親切に「明日は来なくて大丈夫ですよ。社長が戻るのは木曜日ですから」と教えてくれた。


また木曜日。森川結衣は森川修平も木曜日に帰国すると言っていたことを思い出し、もしかして同じフライトかもしれないと思った。


彼女は目を細めて「ありがとう。あなた、本当に親切ね」とお礼を言う。


受付の頬が赤らんだ。こんな美しい人に褒められたら、誰だって嬉しくなる。彼女は「よかったらLINEを交換しませんか?社長が出社したらご連絡しますから、無駄足になりませんよ」と申し出てくれた。


思いがけない収穫だった。森川結衣は受付の吉田雅子とLINEを交換し、手を振って別れた。


桜空グループは主にドローンを扱っている。一見バイクとは関係なさそうだが、近々、体感操作でドローンを操縦できるヘルメット型デバイスを開発する予定だった。最初はバイク好きの間で話題になり、後には国にも採用されることになる。


取材先については、留学時代に知り合ったバイク愛好家たちに連絡した。彼らはみんな協力的で、国際的に有名なレーサーも複数いた。


森川結衣が腕時計を見ると、すでに昼近くなっていた。近くに手打ち麺で有名なラーメン店があり、京都で一番賑やかな丸の内に店を構えている。社員食堂に飽きたオフィスワーカーたちが、気分転換によく通っている人気店だ。


店内は満席で、相席は当たり前。森川結衣は看板の豚骨ラーメンを注文した。濃厚なスープに滑らかな麺がよく絡み、とても美味しかった。


数口食べたところで、隣に二人の若い女性が座った。


前髪ぱっつんの女性がため息をついた。「ねえ、今日、本当にやられたよ。社長の荷物受け取ったんだけど、すごいものだったの。」


「何だったの?」


「400万円の万年筆!」


「えっ、いくらですって?」


二人の会話が耳に入ってきて、森川結衣はふと彼女のネームプレートに目をやった――

森川財閥のロゴが見える。つまり、彼女が言う“社長”は森川悠介のことだ。


その400万円の万年筆、おそらく昨日店で見かけたローズゴールドの彫刻が施された高級品だろう。確かに綺麗だったけど、ペンにしては高すぎると思った。まさか買う人がいるとは思わなかったが、これで答えが出た。


昼食後、森川結衣は和菓子を買い、帰りにタクシーを拾おうとした。すると、さっきの前髪ぱっつんの女性と再び会った。


彼女は急いだ様子で、手に綺麗なギフトバッグを持ち、申し訳なさそうに「すみません、急いでて……上司に頼まれて荷物を届けなきゃいけないんです。タクシー、譲ってもらえませんか?お願いします!」と頭を下げた。


森川結衣は「いいですよ」と微笑んで答えた。


女性は目を輝かせて両手を合わせ、元気に「本当にありがとうございます!お姉さん、幸運が訪れますように!」と言ってタクシーに乗り込み、運転手に「京都先端科学研究所までお願いします!」とはっきり伝えた。


京都先端科学研究所――早川理恵の勤務先だ。


つまり、あの万年筆は森川悠介が早川理恵に贈ったものなのだろう。


全く、驚きはしなかった。


午後の日差しはやわらかく、イチョウの葉は鮮やかな緑に輝いている。でも今日はなかなかタクシーがつかまらず、アプリで呼んでも待っている人が多かった。


しばらくして、派手なオレンジ色のカリナンが目の前に停まった。助手席の窓がゆっくり下がり、水島健一が顔を覗かせる。彼は森川結衣のハイヒールを見て、からかうように言った。


「せっかくタクシー捕まえたのに、他の人に譲るなんて、君は聖女か?」

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