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第8話 餌としての鍵

水島健一には、どうして森川結衣がこんなにも人に振り回されやすいのか、まったく理解できない。


夫には冷たくされ、家政婦の娘に振り回され、挙句の果てにはタクシーを拾うときまで見知らぬ人に先を越される。


知れば知るほど、彼女は本当に弱くて守ってあげたくなる。まるで昔飼っていた猫にそっくりだ。あの猫も野良時代は近所の子どもたちにいじめられてばかりで、決して爪を立てたり威嚇したりしない。ただ、隅っこに逃げ込んで自分の傷を舐めるだけだった。家に引き取ってしばらくすると少しは気が強くなって、気に入らないことがあると僕の手をくわえて八つ当たりしていた。まるで小さな暴れん坊だった。でも、お客さんが来ると途端に怖がって頭を僕の胸にうずめ、白い毛を逆立てて震えていたものだ。


森川結衣は、まさにあの猫みたいだ。


「僕にだけは強気なんだな。」

水島健一は口元を緩め、車を降りて結衣の手から荷物を受け取り、助手席のドアを開けた。がっしりとした腕がドアにもたれかかる。「乗って。」


森川結衣は唇をきゅっと結び、水島の親切を無視して、自分で後部座席のドアを開けて乗り込んだ。


水島健一は一瞬手を止め、むしろ楽しそうに笑った。「本当に僕のことを運転手だと思ってるのか?」


結衣は黙ったまま、窓のそばに座る。淡いオレンジ色のシャツの襟はきっちりと閉じられ、首筋の白さが際立っている。


水島健一は喉がむずがゆくなった。どうやらタバコが吸いたくなったらしい。


車はエンジン音を響かせて走り出し、窓の外の街並みがあっという間に後ろへ流れていく。歩道を歩く人たちも、時折こちらに視線を向けてくる。鮮やかなオレンジ色のカリナンは、丸の内の一等地でもひときわ目立つ存在だった。


水島健一が知らなかったのは、結衣がタクシーに乗る前から、彼の車に気づいていたことだ。

あんな派手なカリナン、嫌でも目に入る。


エンジン音に包まれ、森川財閥のビル前。


森川悠介はふと振り返り、あのオレンジ色のカリナンが派手に走り去るのを目撃し、少し眉をひそめた。水島はどこへ行った?


「森川様、お戻りですね。」秘書が彼の腕からジャケットを受け取り、思考を遮った。


悠介は視線を戻す。「荷物は渡したのか?」


秘書はプロらしい笑顔で答える。「ご安心ください。小西が直接届けに行きましたので、間違いありません。」


「この交差点で止めて。」


雑誌社の近くまで来たところで、結衣が先に車を止めるように言った。


水島健一はバックミラー越しに結衣と目を合わせ、どこかおもしろそうに言う。「どうした、人目が気になるのか?まあ、人妻が僕と一緒に現れたら、噂になってもおかしくないもんな。」


結衣は無視してドアを開けようとしたが、どうもロックされていて出られない。


「開けて。」


男はゆっくりと体を回し、片腕をハンドルにかけたまま気だるそうに言った。「森川さん、使い捨てはよくないよ。感謝の言葉くらいないの?」


何に感謝すればいいのかわからなかったが、結衣はとりあえず「ありがとう」とだけ言った。


「ありがとうだけじゃ足りないな。」

水島はシートを倒してもたれ、細長い指を拳にして彼女の前に差し出した。


結衣は首を傾げる。すると、水島の薬指には大きめの銀色のリングが嵌まっており、その手を開くと見慣れたカピバラのキーホルダーが現れた。


「なんで私の鍵があなたのところに?」

結衣が手を伸ばすと、水島はそれをまた握り込んでしまい、にやりと笑った。「東の隅の家、今夜七時。ご飯おごってくれるなら返すよ。」


「断ったら、鍵は返してくれるの?」


「返さない。」


結衣は仕方なくうなずいた。


水島の目の奥がさらに楽しげに光り、鍵を彼女に投げ返した。


「ちょっと待って。」結衣はキーホルダーのカピバラを見て眉をひそめた。「なんか、前よりブサイクになってない?」


「それ、僕が作ったやつ。」

水島は悪びれずに笑い、今度は自分のキーケースを取り出す。そこにも同じようなフェルトのカピバラがぶら下がっていて、左右非対称の赤いほっぺが印象的だ。


「こっちが本物。」

わざと彼女の前でちらつかせ、手を伸ばすとまたひょいと高く掲げる。


「何がしたいの?」結衣は少し苛立って聞いた。


水島はいたずらっぽく微笑み、ゆっくりと言う。「このあと森川悠介に会うんだ。君が作ったキーホルダー、彼なら気づくかな?」


バカみたい。


「直接本人に聞いてみれば?」と結衣は答えた。


つまらなそうに水島は車のロックを解除した。


結衣は和菓子を持ってさっと車を降りる。車内にはまだ甘い香りが残っていた。


フロントガラス越しに遠ざかる細い背中を見つめながら、水島はハンドルをさすり、タバコをくわえて火をつけた。こんな明るい色の服を着ているのは珍しい。淡いオレンジが銀杏並木の緑と重なり、なんとも生き生きとして見える。


火が揺れる煙の中で、彼はカピバラの愛嬌ある顔を見つめる。持ち主が煙草の匂いを嫌うことを思い出しつつ、わざと煙をぬいぐるみに吹きかけ、赤い火をもみ消した。


きれいだったキーホルダーがタバコ臭くなるのを見て、水島は満足げに口元を上げ、車をUターンさせて森川財閥へ戻った。


森川悠介のオフィスに入ると、彼は革張りのソファに座り、長い脚を組んで、無造作に鍵をガラステーブルへ放った。金属がガラスに当たる音が響く。


「水島、遅いぞ。」

悠介はパソコン越しに半分だけ顔を見せ、不機嫌そうに彼を見やるが、すぐにテーブルのキーホルダーが目に入った。


どこかで見覚えがある。


しばらくして思い出す――

昨日、六本木ヒルズの地下駐車場で、結衣が自分は尾行していないと証明するために、買い物に行ったと言っていた。彼女の細い小指に引っかかっていたあのキーホルダー。左右非対称の赤いほっぺが印象的だった。


「それ、どこで手に入れた?」


「これ?小さな女の子からもらったんだよ。森川さんも興味あるの?」と水島はキーホルダーの首根っこをつまみ、軽い調子で返した。

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