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第9話 人情のやり取り

その言葉が落ちた瞬間、オフィスはしばし静まり返った。


森川悠介は改めて水島健一を見つめた。「彼女、だって?」


学生時代、水島健一は有名なプレイボーイだった。一週間で八人の彼女を替えた記録さえある。だが、早川理恵が現れてから彼の周りに他の女性の姿はなくなり、彼女が海外に行って以降も変わらなかった。


今、窓から差し込む陽射しが空中の埃を照らし、室内には静けさが満ちている。


水島健一はふと笑い、沈黙を破った。「彼女?まあ、そんなところかな。」


「どうして早く言わなかったんだ?どこのお嬢さんなんだ?」


「君も知ってる人だよ。」


森川悠介はさらに驚いた。「誰だ?いつから付き合ってるんだ?一度も連れてきたことないじゃないか。」


水島健一は意味ありげに言った。「彼女は人見知りで、まるで猫みたいに警戒心が強いんだ。俺がそばにいないと、いじめられても反撃できない。」


その説明は彼女というより、まるでペットのようだった。


森川悠介は確かめるように聞いた。「本気なんだろうな、それとも……」


「ただの遊びだよ。」

水島健一はぬいぐるみを無造作に放り投げて、「それより、用件は何?夜はデートがあるからさ。」


森川悠介は表情を引き締め、慎重に口を開いた。「理恵が帰国したんだ。」


「うん、知ってる。」


森川悠介は資料の束を取り出した。「国内の研究所は年功序列が厳しくて、理恵はまだ若いからずっと抑えられたままになりそうだ。彼女専用のラボを作って、思いきり研究に打ち込ませてあげたい。夢を叶えさせてやりたいんだ。」


「それで?」


「うちの親父は早川理恵をあまり良く思ってないし、ラボの投資にはかなりの資金が必要なんだ。まだ森川家を正式に継いでいないから、手元に十分な現金がない。君に助けてほしい。」


「あといくら足りない?」


「十億円。」


大した額ではないが、すぐに用意できる金額ではなかった。


水島健一は真顔で答えた。「何とかするよ。」


森川結衣が編集部に戻ると、同僚たちに取り囲まれた。


「森川さん、本当に水島さんを呼んだの?」


「それに、彼があなたのキーホルダーを持っていったって、会いに来いって言ってたよ。」


「え、それもう返してもらったんですか?」


――

次々と声が飛び交い、森川結衣は誰から答えればいいのかわからず、とりあえず手にしていた和菓子を差し出して、その場の雰囲気をそらした。


高橋鈴夏がわざとらしく近寄り、意味深に言った。「森川結衣、そのうち水島さんもあなたの本性に気づくわよ。」


森川結衣は和菓子をくわえたまま、顔も上げずに答えた。「そうね、私の本性は彼の親父よ。」


高橋鈴夏「……」


「ぷっ!」田中綾乃が思わず吹き出し、他の同僚たちも堪えきれずに笑い出した。


笑いが広がる中、高橋鈴夏は真っ赤になり、苛立ちを隠せずに森川結衣を指さして

「覚えてなさいよ」と捨て台詞を残し、勢いよくドアを閉めて出ていった。


退勤時、森川結衣は道路脇でタクシーにするか地下鉄にするか迷っていた。すると、澄んだ少年の声が響いた。「お姉ちゃん、こっち!」


振り向くと、黒いセダンの後部座席の窓が下り、淡い金髪の少年が手を振っていた。首に白いヘッドホンをかけ、グレーピンクのゆったりしたパーカー姿。夕陽を浴びた瞳は茶色に金色の光が差し、眩しく美しい。


「小野陽太?どうしてここに?」


少年は小犬のような目をして窓に顔を寄せ、しょんぼりとした声で言った。「お姉ちゃん、今日は車が使えないでしょ?だから僕が迎えに来たんだ。一緒にご飯食べようよ。」


一ヶ月前、森川結衣は運転中に小野陽太と「接触事故」を起こした。彼はその場で倒れ、森川結衣は慌てて救急車で病院へ。診察の結果、大した怪我はなく、食生活の乱れによる胃痛で気を失っただけだった。


森川結衣「……」


家族と連絡が取れなかったこともあり、森川結衣はお詫びの気持ちから毎日滋養のスープを作って病院に通った。それ以来、小野家の坊ちゃんは彼女に懐くようになった。


「お姉ちゃん、僕を轢いたんだから責任取ってよ。少なくとも一ヶ月は後遺症が出ないか見ててくれないと。」


「でも安心して、お金はちゃんと払うから。」


「家族はみんな忙しいし、僕のこと誰も相手にしてくれないんだ。だから一緒にいてくれたら嬉しいな……」


少年はツンデレな猫のように、少しずつ心を開き、甘える姿を見せてくる。もし森川結衣が物語の展開を知らなければ、小野陽太が早川理恵のためにわざと事故を仕掛けて近づいたとは気づかず、その純粋な大学生の姿に騙されていただろう。


今、森川結衣は彼の誘いをやんわりと断った。「陽太、もう一ヶ月経ったし、後遺症もないみたいで私も安心したよ。今日は用事があるからごめんね。」


すると、小野陽太は落ち込んだ表情で言った。「でも……今日は僕の誕生日なんだよ。お姉ちゃん、まさか忘れてないよね?」


少年の寂しげな声に、森川結衣も思わず足を止めた。


「忘れるわけないでしょ。」

森川結衣は優しい目をして、水島健一が手作りしたカピバラを差し出した。「誕生日おめでとう、陽太。」


小野陽太は一瞬きょとんとした。フェルトで作られたその動物は、正直どこからどう見ても不格好で、どの動物なのか判別しづらかった。


「手作りなんだ、あまり上手じゃないけど……もし気に入らなかったら……」森川結衣がそう言いかけると、


小野陽太の目がぱっと輝いた。「これ、お姉ちゃんが作ったの?」


「違うよ。」森川結衣は真顔で答えた。


だが小野陽太には、森川結衣が下手すぎて自分の手作りだと認めたくないのだと映ったらしい。彼は笑顔でそのプレゼントを受け取った。「このネズミ、すごくかわいいよ。ずっと持ち歩くね。」


森川結衣は訂正する。「まず、それはカピバラだから。」


小野陽太「……」


彼はうまく話題を変えた。「お姉ちゃんもカピバラのキーホルダー持ってたよね。これ、おそろい?」


森川結衣は答えなかった。


心の中で思う。――確かにおそろいだけど、相手はあなたじゃなくて水島健一なのよ。


その沈黙を肯定だと受け取った小野陽太は上機嫌になり、自分もプレゼントを差し出した。「僕も、お姉ちゃんにあげたいものがあるんだ。」


箱を開けると、白いマフラーが入っていた。「この前お姉ちゃんの誕生日に間に合わなかったけど……これ、僕が編んだんだ。気に入ってくれるかな?」


マフラーは目が粗く、不揃いな部分もあった。


森川結衣は驚いたふりをして「ありがとう、嬉しいよ」と返した。


実際のところ、少し前に森川悠介にも全く同じマフラーを「手編み」と言って贈ったことがある。通販サイトで「手編み 初心者向け」と検索すれば、同じものが798円で送料無料で手に入るのだが。


やがて黒い車は東の隅邸に到着した。百年以上続く老舗で、建物の一つ一つに歴史と気品が漂い、とくに夕陽を受けて輝くステンドグラスはまるで中世ヨーロッパのようだった。


小野陽太が事前に連絡していたため、森川結衣はスムーズに厨房に案内された。その途中、水島健一の個室に立ち寄り、あの不格好な白い手編みマフラーを差し出した。


水島健一は眉を上げて「これは?」と聞く。


森川結衣は真剣な表情で答えた。「昼間、車に乗せてもらったお礼です。」

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