この一時間、藤原結衣は二つの部屋を行き来していた。小野陽太の誕生日を祝い、次に水島健一とディナーを共にし、その合間には夫・森川悠介からの電話にも応じていた。
ウェイターに扮した探偵はその様子に目を見張った——これは愛人どころではなく、まるでスパイだ!さらに驚いたのは、藤原結衣が二人の男性からもらった品々を「手作りのプレゼント」と偽って、それぞれに渡していたことだ。もしバレたら修羅場どころの騒ぎじゃない。スパイ映画顔負けのスリルで、まるで綱渡りでもしているようだった。
ディナーが終わると、藤原結衣は化粧室へ向かった。
東隅館の外、水島健一は一本の煙草を指に挟み、長い歴史を感じさせる柱にもたれている。全身からどこか気だるい雰囲気が漂っていた。
「なんだよ、こんな場所でタバコなんて、マナーくらい守れよ」小野陽太が文句を言いながら現れた。けれども、今夜の彼はご機嫌な様子で、口元には笑みを浮かべ、手にはカピバラのぬいぐるみを弄んでいた。
「俺だよ」隣から声がした。
小野は驚いて振り向き、水島と目が合う。京都の名家同士は複雑に繋がっていて、何度も縁組を重ねてきた。小野も急に態度を改め、ぬいぐるみをポケットにしまい、「健一」とだけ一言。
夜の暗がりの中、背後に煌々と輝く館の明かりが、水島の目に痛いほどだったが、小野の手の中で何かが一瞬光ったのは見逃した。しかし小野は、水島が首に巻いた白いマフラーに気付く。夏には不釣り合いなその姿に、思わず笑みがこぼれた。
「北極から帰ってきたばかりですか?」
水島は煙草をくわえたまま口元を上げる。「彼女がくれたんだ」
「彼女?」小野は興味津々だった。水島といえば浮名を流しても深く関わらず、友人の集まりにも女性を連れてこないことで有名だ。そのため、仲間内では「森川修平に次ぐ二人目」とさえ呼ばれている。
小野は探るように尋ねる。「どんな美女が健一を夢中にさせたんですか?」
水島は答えず、逆に聞き返した。「君は?誰かを待ってるのか?」
「うん」
今度は水島がからかう番だった。
二人はエントランスに立ち、それぞれ「待つ相手」を待っていた。暑さに耐えかねて、水島は重いマフラーを腕に掛ける。その様子を小野はじっと見つめる——おかしい、自分が藤原結衣に贈ったのとそっくりだ。まさか、ネットで買ったものなのか?
少し離れた茂みには、サービス係の制服を脱いだ探偵が緑のギリースーツで身を隠していた。カメラを構えながら、藤原の運命にハラハラしていた。「これはヤバい!修羅場の幕開けだ!」
突然、頭上から澄んだ女性の声が響いた。「そう?もっと面白いもの、見てみたい?」
探偵は反射的に応じる。「もちろん……」言いかけた瞬間、違和感に気付き、顔を上げると、藤原結衣がにっこりとこちらを見ていた。
「ふ、藤原結衣……!?」
「シッ」藤原は細い指を唇に当てて静かに制し、「あなたを捕まえに来たわけじゃないの。一緒に仕事をしない?話を聞く気はある、伊藤さん?」
数メートル離れた場所で、水島のスマホに藤原からメッセージが届いた。
【先に帰るね。もう連絡しないで】
冷たい文字が暗闇の中、彼の目に映り込む。指先の赤い煙草が地面に落ち、瞬く間に消えた。
小野が不思議そうに聞く。「健一、どうした?」
水島は気だるげに空中の灰を払いながら言う。「なんでもないよ、先に帰る」
「結衣さんは待たないの?」
「ああ、また機嫌を損ねたみたいだ。今度、君にも紹介するよ」
水島の姿が夜に消えると、小野は何事もなかったかのように肩をすくめ、無邪気な表情も消えた。暖かなライトがステンドグラスを通して彼の白い肌に降り注ぎ、あまりにも美しい。
携帯が震え、藤原からメッセージが届く。
【体調が大丈夫なら、もう連絡しなくていい。誕生日おめでとう】
夜風が木々を揺らし、小野の笑顔は徐々に消えていく。十分前まで手作りのうどんや羊毛フェルトの人形を贈ってくれた、あの温かな彼女が、どうして急にこんなに冷たくなったのか。まるで夢から覚めたあとの虚しさのようだった。
携帯を強く握りしめると、ちょうど藤原が道路脇でタクシーを拾おうとしているのが目に入った。オレンジ色のワンピースが灯りに浮かび上がり、小野は思わず駆け寄り、もう演技も忘れて低い声で言った。
「ぶつけてきて、もう責任取る気はないの?」
夜が深くなり、霧が立ち込める。
藤原は振り返り、いつもの柔和な顔とは違い、冷たい表情で言う。
「陽太、私をからかって楽しい?君がわざと私の車にぶつかってきたこと、知らないとでも思った?」
小野の目が見開かれる。どうしてそれを……。
そのとき、水島が忘れ物を取りに館へ戻ってきた。
街灯の陰から、小野が女性の腕を掴んでいるのが見える。オレンジ色のワンピースがちらりと覗き、小野の肩で隠れてしまう。
距離は十数メートルほど離れているが、静かな夜の空気の中、小野の甘えるような告白がはっきりと聞こえた。
「ごめん、姉さん、全部僕が悪かった。初めて会ったときから好きだった。だからわざとぶつかって、わざと責任を取らせて、わざと君のそばにいたかった……」
「でも、君が結婚してるって知ってから、すごく苦しかった。でも、旦那は君に冷たいんだろ?どうして僕を見てくれないの?」
水島は一瞬だけ立ち止まり、興味深げな表情をしたが、すぐに関心を失い、東隅館の中へと消えていった。
もし彼がもう少しそこにいたなら、小野が藤原の手を引こうとした瞬間、彼女の優しい眼差しを見ることができただろう。
「私は夫のことを愛してる。たとえ彼が私を愛していなくても」
夫の話をするとき、藤原の表情は柔らかく、夜風よりも穏やかだった。背後の歴史ある建物さえ霞んで見えた。
小野は指先に力を込め、息苦しさを堪えきれずに藤原の手首を握る。「……ねぇ、さっきは酔ってて変なこと言っちゃった。体の調子もまだ悪いんだ。両親は仕事で構ってくれないし……お金は払う、いや、十倍でも払うから、お願いだ、そばにいてよ」
藤原は静かに目を伏せ、月明かりが前髪に淡く影を落とし、表情が読み取れない。
しんと静まり返った空気の中、小野の心臓の音だけが響いた。こんなに緊張したのは初めてだった。
「いくら払うの?」夜風に乗った藤原の声は、くちなしの花のようにかすかで、それでもしっかり小野の耳に届いた。
やはり彼女はお金を必要としている。小野は自分の勝ちだと確信する。
「一品につき、二百万円でどう?」
藤原はしばらく唇を噛みしめ、ぽつりと「いいわ」とだけ答えた。
少し離れたところで、伊藤探偵がこの一部始終を録画していた。「一品二百万円」には思わず舌打ちし、その動画を依頼主へ送信する。「ちくしょう、俺だけが眠れずに嫉妬するのは勘弁してくれ!」