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第2話 夫を借りて子をもうける

「バカ二号」、それは小野家の坊ちゃん、小野陽太のことだ。


彼もまた、早川理恵の数多くいるファンの一人である。


今年大学2年生の小野陽太は、まるで人形のように整った顔立ちで、甘える時の声はとろけるほど柔らかい。その姿は、まるで傷ついたサモエド犬のようで、見ていると思わず庇いたくなってしまう。


ただ、森川結衣にはそんな手は通用しない。


彼女の「無愛想で鈍感な女」というキャラ通り、返事も素っ気なく、全く色気がない。「ごめんね、うちの人が酔ってるから、そばにいないといけないの。胃が辛いなら病院に行ったほうがいいよ。救急車呼ぼうか?」


トーク画面の上には「相手が入力中です」の表示が長く続き、結衣はもう返事が来ないのかと思い始めた。その時、小野陽太からボイスメッセージが届いた。「お姉ちゃん、本当にしんどいんだ……。君の手料理が食べたいだけなんだ。お金は十倍払うから、お願いできない?」


そう言いながら、ピッタリ200万円の送金が飛んできた。


「じゃあ……仕方ないね。」結衣の返事は渋々といった感じだったが、動きは素早かった。


夫の森川悠介のために作った味噌汁を保温容器に移し、そこに黄連、リンドウ、苦参をざっと加えた。苦味と熱気が混じり合い、鼻をつくような匂いが立ち上る。


結衣はその保温容器を見て、薄く笑みを浮かべてからキッチンを出た。


「こんな時間に、どこに行くつもりだ?」


低くて冷たい声が不意に響いた。


リビングの薄暗い灯りの下、鋭い目元が際立つ背の高い男の姿があった。彼女の夫、森川悠介だ。


悠介の視線は結衣の手元の保温容器に向けられ、眉間には深い皺が寄っている。


結衣は正直に答えた。「ちょっと知り合いの子が体調悪いって言うから、様子見てくるだけ。あなたも一緒に行く?」


悠介は嘲るように鼻で笑った。「知り合いの子、ね。」


「いいよ、そのうち会わせてよ。俺が見極めてやる。」


この態度からして、全く信じていないのは明らかだった。


リビングには数秒、静寂が流れた。


悠介はこめかみを押さえ、酒でかすれた声で言った。「来週は祖父の七十歳の祝いだ。夫婦らしく演じてやる。でも、誤解するなよ。俺が本気になることは絶対にない。」


結衣はすぐに答えた。「大丈夫、私もあなたには興味ないから。」


悠介は鼻で笑い、それ以上は何も言わなかった。


興味がない? 三ヶ月前、薬を盛ったのは誰だった?


彼はその場で追及する気もなく、結衣の平らなお腹をちらりと見て、皮肉を込めた口調で言った。「結婚して三ヶ月、まだお腹に変化がないな。祖父はひ孫を待ってるんだ。もし嘘がバレたら、その責任を取れるのか?」


そう言い残し、冷笑を浮かべて寝室へと消えた。


結衣の手が止まり、額に冷や汗が滲んだ。


そのことをすっかり忘れていた。


三ヶ月前、結衣の父は悠介に酒を飲ませて薬を盛り、さらに偽の妊娠エコーまで用意して、森川家に無理やり結婚を承諾させた。森川健一郎はその場で結婚を決め、外には「お腹の子は森川家の跡継ぎだ」とまで発表した。


だが、悠介はそんなに甘くない。


自分が結衣に触れたかどうか、誰よりも分かっている。


それでも彼が黙っていたのは理由があった。一つは、海外にいる初恋の早川理恵を刺激するために妻が必要だったこと。もう一つは、結衣への復讐――彼は根に持つタイプで、裏切りを絶対に許さない。


そして森川健一郎は、京都を動かすほどの権力を持つ男。強引で、裏社会にも通じている。市長ですら頭が上がらない。彼に「騙された」と知られたら、結衣は京都に居場所を失うだろう。


結衣は深く息を吸い込んだ。


妊娠の嘘を守るため、悠介は絶対に協力してくれない。むしろ、失敗するのを待っているはずだ。結衣の後ろ盾はない。自分で何とかするしかない。


少し考えた末、彼女が思い浮かべたのは森川家のもう一人――物語では早世する長男、森川修平だった。


「夫を借りて子をもうける」なんて大胆な考え、しかも相手が修平だなんて。


彼は外祖父の財閥を背景に持つ御曹司で、健一郎ですら頭が上がらない存在。もし生きていれば、家督は悠介のものにはならなかっただろう。


理論上、最も頼れる相手だ。


結衣は賭けに出ることを決めた――何といっても、彼は物語で唯一、ヒロインの早川理恵に全く興味を示さない人物だからだ。


保温容器を置き、宅配サービスを手配して、薬入りの味噌汁を陽太に送り、自分は修平の情報を調べて「協力」への布石を打つことにした。


だが、その時だった。突然、「物語の展開」が頭に強くよぎった。今日は七夕――彼女自身の誕生日。


そして、修平が亡くなるのも今日の未明、名神高速道路の崩落事故でだった。


結衣はスマホの画面に目をやった――時刻は午前0時40分。


修平の死亡時刻は、7月7日午前0時44分。


全身に冷たいものが走り、血が凍り付くような感覚に襲われた。せっかく見つけた希望の光が、目の前で岩に塞がれていくような絶望に、息が詰まりそうだった。


よろめきながら階段を駆け上がり、悠介を起こそうと揺すったが、睡眠薬入りの酒で彼は全く目覚めない。


結衣は焦りで手に汗を握り、悠介のスマホを掴んだ。だが、ロック解除は指紋も顔認証も使えず、必死でパスワードを試す。


自分の誕生日、悠介の誕生日、理恵の誕生日まで試したが、画面は微動だにしない。


時間は刻一刻と過ぎていく。一秒ごとに心臓が跳ねる。


混乱しながらも、無意識に入力した数字列で、突然「カチッ」とロックが外れた。


その時、時刻はちょうど0時44分。


結衣は震える指で「義兄」と登録された番号をタップし、電話をかけた。繋がるや否や、挨拶もせずに早口で叫んだ。


「修平さん、車を止めて!」

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