ちょうどその時、ステージではシンガーが一曲を歌い終えたところだった。照明が落ち、盛大な拍手が館内を包み、こちらの騒ぎは人波に紛れた。
水島健一は元々短気な性格だ。それに対して、小野陽太も全く怯む様子はない。昨夜、レストランで自分の誕生日を祝ってくれた藤原結衣が、外に出た二、三度の間に実は健一と食事をしていた——この事実を思い出すだけで、陽太の顔は怒りで歪んだ。さらに腹立たしいのは、藤原結衣が自分から贈ったマフラーを他人に渡してしまったことだ。
若さゆえの無鉄砲さで、陽太の怒りはますます膨らみ、ついに健一に向かって拳を振り上げた。健一はひょいと頭を避け、負けじとテーブルの空き瓶を手に取る。彼の目は赤く充血し、脳裏には昨夜、陽太が藤原結衣に告白した場面が浮かんでいた——彼女は返事をしたのか?くそ、昨日は最後まで話を聞くべきだった!
陽太の、女性の同情を誘いそうな顔を見て、健一の苛立ちはさらに募る。こいつはこの顔で藤原結衣を誘惑したのか?表情は険しくなり、首を鳴らして、瓶をテーブルの端に叩きつけた。ガラスが砕け、鋭い断面がまるで刃物のように光る。
その瓶を陽太の顔に向けて振り上げようとした瞬間、しっかりと手首を掴む手があった。
「健一、落ち着けよ」黒沢翔太の声が響く。「まさか本気で藤原結衣に惚れたわけじゃないよな?」
翔太は全てを知っている人物だ。健一が藤原結衣を誘惑する計画も、もちろん把握している。
健一は動きを止め、我に返ったように瓶を手放した。バーの赤と青のライトが彼の顔に映り込み、どこか刹那的な雰囲気を醸し出している。気を取り直して言う。
「まさか。俺があんな地味でつまらない人妻に本気になると思うか?ただ、まさか藤原結衣に裏をかかれるとは思わなかった。俺に隠れて他の男と会ってたなんてな」
翔太は納得したようにうなずき、今度は陽太に目を向ける。
「お前はどうなんだ?早川理恵のことが好きなんじゃなかったのか。どうして藤原結衣に関わることになったんだ?」
翔太の全てを見透かすような淡い茶色の瞳に見つめられ、陽太は気まずそうに事情を打ち明けた。
「やっぱりな」翔太は苦笑し、「お前も健一も同じことを考えてるんだな。自分が藤原結衣を誘惑して、結果的に早川理恵を助けようって」
陽太が驚いた顔をしていると、翔太は車のキーを取り出した。
「俺も理恵の古い友人として、傍観者でいるつもりはない。こうしよう——」
「これは新しく買ったパナメーラだ。これを賭けにしよう。どっちが先に藤原結衣を森川悠介と離婚させられるか、勝った方にこの車をやる。理恵のために俺ができることはこれくらいだ」
……
健一も陽太も、高級車に本気でこだわっているわけではない。しかし、翔太の言葉が終わると、不思議な勝負心が二人の間に芽生え、膨らんでいく。この賭けは、彼らに正当な理由を与えた——ただのゲームとして、どちらが先に藤原結衣を落とせるか競うだけだ。
「いいぜ。ただのゲームだろ?」健一はライターを回しながら、煙草に火をつけて飄々と応じる。
陽太はこれまでの素直で従順な仮面を外し、挑戦的な笑みを浮かべた。
「ありがとう翔太兄。俺のガレージ、ちょうど新しいスポーツカーが欲しかったんだ」
「自信あるんだな?」
「もちろん。健一、知らないのか?女っていくつになっても、十八歳の大学生が一番好きなんだよ」
……
場の空気は一気に険悪になる。
翔太は苦笑しながらグラスのウイスキーを飲み干した。
「じゃあ、俺は先に帰るよ。明日は撮影があるからな」
「俺も帰る」陽太も席を立ち、健一に若々しい挑発の笑みを向ける。
健一は気怠そうに手を振ったが、内心は表情ほど余裕があるわけではなかった。
夜九時、カフェにて。
藤原結衣の元に、伊藤探偵から動画が送られてきた。そこには健一、陽太、翔太がバーで一堂に会している映像が映っている。声は聞こえなくても、彼らが互いの存在を知ったことは容易に想像できた。
結衣は口元に微笑みを浮かべ、探偵に報酬を送金する。
「ヴィクトリア、なんだか嬉しそうね。いいことでもあった?」ノートパソコンの画面越しに、金髪碧眼の女性が興味深そうに訊ねてきた。もしその場にモータースポーツファンがいれば、昨年のF1世界選手権で準優勝したエミリーだとすぐに気づいただろう。
「ええ、いい知らせよ。これでやっとチームに戻れるかも」結衣はウインクする。
エミリーはパッと顔を輝かせた。「やった!私のエースメカニック、帰ってきてくれるのね!約束よ、一緒にチャンピオンを目指すんだから!」
「うん、一緒にチャンピオンを目指そう」結衣はエミリーの最近のマシンの状態についてアドバイスし、ビデオ通話を終えて帰宅の準備を始めた。
嵐山の別荘に戻ると、部屋の明かりがついていた——森川悠介が帰宅していた。奇妙なことに、結婚して三ヶ月になるが、彼が新居に帰ってきたのは十回にも満たない。それがこの数日はやけに頻繁だ。
「遅かったな」螺旋階段を降りてきた悠介は、黒のシルクパジャマを身につけ、ますます色白に、整った顔立ちが際立っている。
結衣は一瞬、森川修平の姿を重ねて見てしまう。いとこ同士で顔はよく似ているが、修平の方が髪が短く、目つきも鋭いので、どこか近寄りがたい。
すぐに我に返り、「仕事が長引いて、少し残業してたの」と答えた。
悠介は腕時計を見ながら、「もうすぐ十時だぞ。これで“少し”なのか?いっそ仕事を辞めたらどうだ。俺が養うくらい簡単だ」と言う。
思わず二人とも黙り込む。
悠介は咳払いして、「つまり、今は“妊娠中”なんだから体を大事にしろってことだ。親父は鋭いから、何か怪しまれたら俺もどうしようもない」と付け加えた。
「わかったわ」
「それと……」悠介は気まずそうに首筋を掻きながら、「俺が送った誕生日プレゼント、ちゃんと受け取ったか?」
結衣は一瞬戸惑い、すぐに気づく——彼はきっと、祖父の誕生日祝いで夫婦仲を聞かれるのを避けるため、事前に“仲の良い夫婦”を演じようとしているのだ。
彼女は形だけ微笑んだ。「うん、受け取った。すごく気に入ったわ」
「それならよかった。でも、勘違いするなよ。プレゼントを送ったからって、お前のことが好きだとか、そういうのじゃない。全部、祖父に合わせるためだから、誤解するなよ」
結衣:「?」
もし自分が記憶喪失でもしていなければ、何か高価な贈り物をもらった覚えは全くない。
「うん、わかってる」彼女はそっけなく返し、少し眠気を感じた。「他に何かある?」
結衣の素っ気ない口調に、悠介はどこか不満げだ。せっかく誕生日を祝うために帰ってきて、プレゼントまで用意したのに、特に感動もしないとは、いつも以上に冷たい。
ぶっきらぼうに、「明日、修平さんが帰ってくる。仕事終わったら迎えに行くから、一緒に空港まで来てくれ」と言った。
その言葉に、結衣の眠気は半分吹き飛んだ。壁のカレンダーを横目で見て、明日が修平の帰国日だと思い出す。
彼女は指を止め、不自然なほど緊張が走る。悠介もその変化に気付いた。
「どうした?」
「なんでもないよ」すぐに取り繕い、「どうして私も一緒に?」と尋ねた。