森川悠介は顔をそむけて、「理由なんてないよ。それより、今日帰ってきたんだから、何か用意してないの?」と尋ねた。
森川結衣はきょとんとした表情で目をぱちぱちさせ、不思議そうに首をかしげる。しばらくして、本当にバッグの中から何かを探し始めた。悠介は、彼女が万年筆を贈ろうとしているのを知らないふりをして、わざと咳払いし、苛立った口調で急かした。「まだ見つからないの?もう眠いから、早く寝たいんだけど。言っとくけど、君が何かくれたって、俺が君を好きになるわけじゃ……。って、これは……請求書?」
そう、結衣が差し出したのは分厚い請求書だった。結衣は淡々と説明する。「これ、電気代、水道代、ガス代、管理費とかの領収書よ。結婚してから三か月分、全部私が払ってた。でも、私たち夫婦なんだし、これからは割り勘にしない?」
悠介は歯を食いしばった。「これだけ?」
結衣は少し考えて、「あと、山田さんのお給料。でも彼女は私が雇った人だし、あなたはあまり来ないから、これは割り勘にしなくていいわ」と答えた。
悠介は言葉が出なかった。
大きく息を吐き、まだ胸の奥が重いまま、スマホで結衣に送金した。「こんな細かいお金まで割り勘にしなくてもいいだろ。2000万円で足りるか?」
結衣はうなずいて、「十分よ。送金の備考欄には『贈与』って書いておいて」と返した。
悠介は「……?」と一瞬固まった。
送金を終えると、彼の雰囲気は一気に重苦しくなった。結衣が部屋に戻ろうとすると、悠介は先に階段を駆け上がり、子供じみた態度で結衣より先に寝室に入り、バタンとドアを閉めた。
結衣は全く気にしなかった。入金を確認して上機嫌になり、暖かな灯りの下で顔をほころばせる。入浴後、パソコンを膝にのせ、次々と届くチームからのオファーに返事をし終えると、新たにドキュメントを開いて「退職届」と打ち込んだ。
あと少しで、本当に自分の好きな仕事に戻れる。森川修平が祖父に「偽妊娠」「偽装結婚」の真相を伝えてくれれば、祖父も修平の顔を立てて、私をあまり責めないはず。もうすぐ「森川悠介の都合のいい元妻」という役割からも解放され、男女の主役たちの物語から離れて、自分らしく生きていける――藤原結衣として。
夜が更け、枕に頭を預けると、久しぶりにぐっすりと眠れた。
木曜日、天気予報は晴れ。雲一つない快晴で、京都では久しぶりの気持ちいい朝だ。
朝、結衣が一階に降りると、悠介がゆったりと朝食をとっていた。ブラックコーヒーを口にしながら、「今日は車いらないよ。途中まで送るから、運転手に会社まで送らせる。帰りも迎えに行くから、一緒に空港へ行こう」と言った。
「わかったわ」と結衣は穏やかに微笑んで応じた。いつも通りの優しい態度だった。
悠介はしばらく彼女を見つめていたが、結衣の変わらぬ柔らかな笑顔を見て、昨日の違和感は自分の思い過ごしだったのかと思い直した。結衣はテーブルにつき、バターを塗ったトーストを手に取る。
本当は和朝食が好きだ。普段なら山田さんがうどんやおでん、肉まんなどを作ってくれて、味噌汁と一緒に体も心も温まるのに。けれど悠介は和食を好まないから、彼が泊まる日は朝食のメニューも洋風に変えていた。
半分ほど食べて、結衣はもう箸を止めた。悠介が無造作に目を向ける。「猫の餌でも食べてるのか?俺がいるからって、わざと少食にしなくていい。理恵なんかは……」と言いかけ、ハッと口をつぐんだ。
結衣は彼の自信過剰ぶりに呆れつつも、形だけ「夫が他の女性と比べる発言に傷ついた妻」を演じてみせる。「理恵?六本木ヒルズの地下駐車場で会ったあの子?」
「君には関係ない」と悠介は立ち上がり、冷たい表情でその場を離れた。
二人で車に乗ると、悠介は一言も話さず、雑誌社まであと一キロほどの橋の手前で結衣を降ろした。ここはタクシーもバスも通らない不便な場所だ。結衣は文句を言う気もなく、歩いて会社へ向かうことにした。ちょうどその時、田中綾乃が車を停めて声をかけてきた。
「結衣さん、やっぱり!ここで降ろされるなんて、ひどいタクシーだね。置き去りにされちゃったの?」
結衣は首を振る。「タクシーじゃないの。うちの夫よ」
綾乃は驚きながらも深くは聞かず、にこやかに車に乗せてくれ、さらに肉まんの袋を差し出した。「ちょうどよかった、お母さんが肉まん作ってくれたから、持って行けって言われてたの。道で会えてラッキー!温かいうちに食べてね!」
「ありがとう、綾乃のお母さんにもよろしくね~」
結衣は肉まんを受け取り、ふわふわの皮から湯気が立ち上るのを幸せそうに頬張った。
「おいしい?」と綾乃が笑顔で尋ねる。
結衣はシートにもたれ、目を細めて「うん、最高」と答えた。
結衣は肉まんを大事に食べながらオフィスに到着し、正面から高橋鈴夏と鉢合わせた。鈴夏は目の下にクマを作りながらも、妙な興奮を漂わせている。
綾乃が驚いて、「ゾンビだ!オフィスにゾンビが!」と叫ぶと、
他の同僚たちも面白がって集まってくる。
高橋鈴夏は無言だった。
彼女は夜通し普通列車で帰京し、疲れ切ってはいるが、それどころではなかった。今日こそ、結衣の秘密を暴いてやるつもりで早く戻ってきたのだ。
「うちの編集部にゾンビはいないけど、不倫相手ならいるかもね」
と鈴夏が皮肉っぽく言い、さらに結衣に向かって
「結衣さん、結婚してるって言ってるけど、私たち誰もあなたのご主人を見たことないのよね?」
「あなたに狙われたくないから」と結衣はさらりと返した。
鈴夏は絶句した。
「ぷっ」と同僚たちが笑いをこらえた。
鈴夏の顔は真っ赤になり、「今朝、あなたが“旦那さん”に途中で降ろされてるの、私ちゃんと見てたわよ!どうなの?旦那さんに会わせられない理由でもあるの?それともあなたが誰かの旦那を隠してるの?」と声を荒げる。
その時、小林陽菜がそっと割って入る。「鈴夏さん、結衣さんが旦那さんを見せたくないのは、きっと事情があるんだよ」
一見、仲裁の言葉のようで、実は火に油を注ぐ発言だった。
そのとき、「ブーブー」と結衣のスマホが震えた。画面には「旦那」と表示され、みんな自然と静かになった。
結衣が電話に出ようとすると、鈴夏が手首をつかみ、「何か私たちに聞かれたくないことでも?」と挑発しながら、勝手に通話をスピーカーにした。
オフィスはしんと静まり返る。電話がつながると、低く落ち着いた男性の声が響いた。少し焦り気味に「結衣、どこにいる?今、戻ってきたけど見当たらない」と言う。
森川悠介だった。
結衣は固まっている鈴夏を横目で見て、柔らかく答える。「同僚に会って、一緒に会社まで来たの。もう着いてるから、あなたは自分の仕事をしてて」
電話の向こうはしばらく黙った後、「夜は何時に終わる?迎えに行くから」と続けた。