「今夜は何時に仕事が終わる?迎えに行くよ。」
その言葉がスピーカー越しにオフィス中に響き渡り、「浮気説」は一気に消え去った。
「どうやら藤原主任のご主人は急用で、先に彼女を降ろしただけみたいね。」
「そうそう、すぐに迎えに戻ってきたじゃない。」
「声もイケメンっぽいし、やっぱり藤原主任みたいな美人の旦那さんだもの、きっと素敵な人よね。」
――
同僚たちがこそこそ話すのを聞きながら、高橋鈴夏はイライラした面持ちでつぶやいた。「どうせ誰か雇って芝居させてるだけでしょ。」
「え?」と藤原結衣は一瞬きょとんとしたが、すぐに微笑み、「高橋主任、その想像力、縦読みドラマの脚本にでもしたら?きっと売れるわ。でも衣装や小道具には気をつけてね、また和風デザインのミスなんてあったら大変だから。」
「……!」高橋鈴夏は歯噛みしながら、「じゃあ、ご主人が今日迎えに来るなら、私たちにも紹介してくれる?どんな素敵な男性が藤原主任のハートを射止めたのか、ぜひ見てみたいわ!」
高橋鈴夏の発言に、普段はあまり好きじゃない同僚たちも心が躍った。ゴシップ好きの社員たちは、ずっと藤原結衣の旦那がどんな人なのか気になっていたのだ。雑誌の撮影でイケメン俳優やモデルと接する機会は多いが、結衣がドキドキしたり赤面したりするところを誰も見たことがない。そんな彼女を本気にさせた男性とは、一体どんな人なのか――社内ではちょっとした謎になっていた。
皆の期待の視線を感じながら、結衣は静かにうなずいた。「いいですよ。」
「ふん、楽しみにしてるわ」と高橋鈴夏は皮肉っぽく笑った。
その場の雰囲気が落ち着く中、小林陽菜だけがどこか落ち着かない様子だった。森川悠介が自ら藤原結衣を迎えに来る――その顔は経済ニュースでもよく目にする有名人。外部に森川家と藤原家の縁組のことが知られていなくても、ファッション誌業界なら大抵の財閥事情は耳に入る。もし同僚たちが森川悠介だと気づき、結衣の本当の素性がバレたら、自分が演じてきた「藤原家の令嬢」というキャラが崩れてしまう……!
息苦しさを感じた小林陽菜は、すぐに早川理恵にメッセージを送った。【今日、森川さんが藤原さんを迎えに来るみたい。夫婦仲が良くなったのかな、よかったですね~】
2分ほど経ち、メッセージを取り消してから、もう一度送る。【ごめん理恵先輩、間違えて送っちゃいました。実はお母さんに送るつもりだったの(笑)】
もちろん、わざとだ。高校時代から早川理恵が森川悠介に特別な思いを抱いていることを、小林陽菜はよく知っている。
この日の藤原結衣は穏やかに過ごせた。クライアントも水島健一も小野陽太も連絡してこない。どうやら彼らは「適度な距離を保つ」作戦に切り替えたらしい。彼らが距離を置くなら、結衣も同じようにするだけだった。
「ゴロゴロ……」と雷が鳴り響き、突然の大雨が窓を強く叩いた。
田中綾乃が慌てて窓を閉めながら、「おかしいなぁ、天気予報じゃ雨なんて言ってなかったのに。傘も持ってきてないわ」とぼやく。
この雑誌社の建物は大正時代からの洋館で、昔は新聞社だったため改装が難しく、地下駐車場もない。車通勤の社員たちは、徒歩で5、6分の駐車場まで行かなければならない。
「誰かに傘を届けてもらう?」
「こんな大雨じゃ、傘があってもずぶ濡れになるよ。」
「タクシー呼ぶ?でもこの時間はなかなか捕まらないし……」
みんなが口々に文句を言う中、雨が大嫌いな田中綾乃は椅子にぐったりと座り込んだ。結衣が肩を軽く叩いて、「大丈夫、帰りは私が送るよ。ちょうど帰り道だし」と声をかける。
「えっ、本当に?迷惑じゃない?」
「全然大丈夫。」
「やったぁ、ありがとう結衣!」
向かいの高橋鈴夏は二人を冷ややかに睨み、「人の心を買うつもり?」と皮肉を言いながらも、小林陽菜に愛想よく話しかける。「陽菜、傘持ってる?私、もう一本あるから貸そうか?」
小林陽菜は微笑んで、「大丈夫、家の運転手が迎えに来てくれるから」と答えた。
「家の運転手」という響きに、高橋鈴夏は羨望のまなざしを向けつつ、「どうせなら、藤原結衣のご主人を見てから帰ろうよ」と提案した。
「うん、いいよ」と陽菜は口元をゆるめた。
だが、森川悠介はもう来ない。陽菜の視線はスマホ画面に落ちていた。そこには、早川理恵が投稿したSNSが映っている――「実験器具を運んでいて、脚立から落ちて足に釘が刺さり、血が止まらない」とのことだった。
やがて定時になっても雨脚は強まるばかり。社員たちは足元の濡れを避けて軒下に集まり、雨がやむのと、藤原結衣の夫が現れるのを今か今かと待っていた。
時が過ぎても、見慣れたロールスロイスは現れない。
「渋滞かな」と田中綾乃が結衣を気遣った。
その時、大雨の中、ゆっくりとロールスロイスが会社の前に停まった。みんなが藤原結衣の旦那かと期待したが、降りてきたのは中年の男性で、小林陽菜の前に立った。「お嬢様、どうぞお車へ。」
小林陽菜はにっこり笑い、「徳さん、もう少し待ってて。ちょっと用事があるから」と返した。
運転手は結衣に気づいて一瞬驚いたが、何も言わなかった。
一方の高橋鈴夏はまたしても厄介なことを言い出す。「結衣さん、まだ待つの?陽菜は体が弱いのに、風邪でもひいたらどうするの?」
「待たなくていいんじゃない?寒いなら帰れば」と田中綾乃が言い返す。
「大丈夫ですよ、寒くありません」と陽菜は気遣い、さらに「もしご主人が来られないなら、私の運転手が送りますよ」と申し出る。
結衣は首を振った。この突然の雨は、物語の展開上、男女の関係に波風を立てるためのものだろう。森川悠介が来ないのは想定内だった。
むしろ、「悪いのは森川悠介で、自分ではない」という証明になる絶好の機会だと思えた。彼女は皆の前で森川悠介に電話をかけ、わざとスピーカーにした。
「もしもし、悠介?もう着いた?」
しばらく沈黙の後、「こっちは急用ができた。先にタクシーで空港に向かってくれ」と森川の声。
「でも、雨が強くてタクシーもなかなか……」と結衣が言いかけたところで、電話の向こうから女性の声が聞こえた。「悠介、私は大丈夫だから、あなたは自分の仕事に戻って。」
あっ……!
同僚はみな大人なので、その瞬間に「夫が浮気して妻を雨の中で待たせている」というドラマのような光景を頭の中で補完した。表向きは気づかないふりをしつつ、心の中では結衣に同情し、夫と浮気相手を非難していた。
さすがの高橋鈴夏も固まった――こんな展開は想定外。結衣がこそこそとした愛人ではなく、苦しむ正妻の役回りになってしまうなんて。もしかして、電話の向こうの女性こそが本妻……?
思考が混乱する高橋鈴夏は、結衣を助けるふりをしながらも、電話越しに試すように叫んだ。「もしもし、あなたが藤原結衣のご主人?こんな大雨の中、奥さんを放って他の女と一緒にいるなんて、どうかしてるんじゃないの?それに、そっちの女の人も、人の旦那を取るなんて最低よ!」