「帰ろう。家に。」
周囲がざわつく。
「うわ、本当に森川さんの旦那さんだったんだ!」
「さっきの電話は何だったんだ?わざと奥さんをやきもち焼かせてたの?」
……
そんな声が高橋鈴夏の耳に飛び込んできて、頭の中が真っ白になる。この人が本当に森川結衣の夫なのか……しかも若くて、お金持ちで、すごく格好いい。さっき自分が言ったことを思い出すと、まるで勘違いして騒いでいた滑稽な自分が恥ずかしくて、もうその場から消えてしまいたい気分だった。
一方、結衣は口を動かしかけたが、修平があの二十万円の謝礼を断った理由を聞けずにいた。彼は財閥の御曹司で、森川家ほどの資産家の跡取りですら、些細な金額には興味もないのだろうと考えてしまう。
結衣は握りしめていた手をそっと離し、小さな声で尋ねた。
「同僚も一緒に車に乗せてもいい?」
「いいよ。」
結衣が田中綾乃の手を引こうとしたが、綾乃は首をすくめ、雨がほとんど止みかけている空を指さした。
「もうすぐ雨もやむし、傘を買って帰るから大丈夫。」
「……」
綾乃が修平を気にしているのだろうと察した結衣は、それ以上強く誘うことなく、傘を彼女に渡して見送った。
車が発進すると、取り残された同僚たちは一気に盛り上がる。
「やっぱり森川さんクラスになると、選ばれる人も普通じゃないよね!」
「お似合いすぎる!」
「森川さん、全然自慢しないけど……あの京都ナンバー、ただ者じゃないよ!」
その中で、小林陽菜は苦い表情を浮かべていた。必死に車のナンバーを見ようと目を細めるが、強い近視のせいで「京」という一文字しか判別できない。さっき警察が彼を「森川警部」と呼んでいたのを聞いて、森川という苗字は珍しいし、もしかして森川悠介なのかと考えていた。
車内で、結衣は自分の靴でカーペットを濡らしてしまい、気まずさを感じていた。ふと昔のことを思い出す。あの時も同じように恥ずかしい思いをした。その時も修平がいた。
結衣が通っていたのは公立の進学校。本来なら母の希望で、京都の人が「お嬢様学校」と呼ぶインターナショナルスクールに進むはずだったが、父が「お金持ちの子たちの悪い癖がうつる」と反対したためだった。そのせいで、結衣は悠介や健一、翔太、理恵たちの複雑な関係をまったく知らなかった。
結衣の高校は京大附属高校で、壁一枚隔てて京都大学があった。当時から機械工学関係の本に興味があったが、欲しかった絶版本は京大の図書館にしかなく、学生証がなければ入れなかった。
ある日、放課後に京大の学生証を拾った。写真は剥がれていたが、名前だけが残っていた――森川修平、専攻は物理学。
十七年間ずっと真面目に生きてきた結衣は、本当ならすぐに返すべきだと分かっていた。でも、その本をどうしても見たくて、思い切って学生証で図書館のゲートを通った。
「ピッ。」
ゲートのディスプレイには、短髪で色白、鋭い目元の十八、九歳の青年の証明写真が映し出された。これまで見た中で一番綺麗な顔立ち。でも、その雰囲気があまりにも強くて、万引きでもしたかのような緊張感で心臓が跳ねた。
その時、分厚い本を抱えた女子学生が駆け寄ってきて、にこやかに声をかけてきた。
「ねえ、学生証貸してくれない?私のはポケットの奥で取りにくくて、ちょっとだけお願い!」
結衣は唇をきゅっと結ぶ。母は長く海外で療養中、父には「陽菜が欲しがるものは全部譲るように」と育てられてきた。そうすれば「いい子だ」と褒めてもらえる。だから、結衣は自分の意思を主張するのが苦手で、ちょっとした頼みごとでも断れない。
顔を真っ赤にしながら、学生証をセンサーにかざした。
「ピッ」と音がして、女子学生が不思議そうに口にした。
「あれ?これ森川先輩の学生証じゃない?どうしてあなたが?」
今思えば、些細なことだった。女子学生もただ驚いただけで、悪意はなかった。でも、思春期の結衣にはそれが大きな事件のように感じた。おまけに、森川修平は有名人。その瞬間、周囲の好奇と詮索の視線が一斉に自分に向けられた気がして、「あの子、泥棒なんじゃない?」と囁かれているように感じてしまった。
すると、近くにいた警備員がやってきて、結衣の幼い顔をじっと見て問いかけた。
「君、京大の学生じゃないよね?この学生証はどうやって手に入れたの?」
結衣はさらにうつむき、逃げ出したかったが、足が鉛のように重くて動けない。周りに人が集まり、ひそひそと話し声が広がる。
「彼女は僕の彼女です。」
澄んだ声が響き、結衣が顔を上げると、学生証の写真よりもさらに整った顔立ちの青年がこちらに歩み寄ってきた。彼の後ろには、淡いピンク色の箱を持った女の子が立っていた。きっと誰かへの贈り物だろう。
その女の子が驚いた顔でこちらを見つめる。
「修平、まさかこの子のために……私を断るの?」
結衣は呆然とし、否定しようとしたが、修平が肩をそっと抱き、警備員に穏やかに微笑む。
「彼女はうちの学校の生徒じゃないけど、僕と一緒に勉強しに来たんです。入れてもらえますか?」
警備員は学生証に問題がないと分かると、にっこりと笑って言った。
「どうぞどうぞ。若い二人で勉強、いいことだ!」
結衣はどうやって図書館に入ったのか覚えていない。ただ修平に手を引かれていた気がする。人のいない場所に着くと、修平は手を離し、窓際にもたれて外を見た。外には秋の落ち葉が広がっている。
「で、どういうこと?」
秋風が吹き抜け、紅葉と銀杏の葉が舞う。彼の整った横顔がその風景に溶け込んで、とても綺麗だった。結衣の心臓が、思わず跳ねた。
――回想が途切れ、結衣はふと手のひらの冷たさに気づく。修平が小さな箱を手渡してくれていた。
「これ、何?」
「誕生日プレゼントだよ。」
修平が横目で結衣を見つめる。その瞳には結衣の姿が映り、さっきまでの冷たい雰囲気はなく、どこか機嫌が良さそうだった。
「開けてみて。」
結衣はまさか誕生日を覚えていてくれたとは思わず、驚きつつ包装を開く。中にはピンクがかったオレンジ色の万年筆が入っていた――以前、店頭で見かけて気になっていたコラボ限定品で、四百万円もするものだ。
少しの間、その万年筆を見つめ、健一にもらったプレゼントの時とは全く違う気持ちになる。
小さな声で言った。
「ありがとう、修平。高価すぎるよ。」
「修平」という呼び方は、悠介の影響でついそう呼んでしまうが、自分でもしっくりこない。
修平は薄くまぶたを持ち上げ、じっと結衣を見つめて、気のないふうに言った。
「高くなんかないよ。君が欲しがってる子どもに比べたら、全然安いものだ。」