エレベーターの中には、二人きりだった。
結衣は一歩下がって距離を取る。「水島さん、何かご用ですか?」
健一は冷笑を浮かべる。「水島さん?それじゃ説明してくれよ。小野が君に贈ったマフラー、なぜ“水島さん”に回したんだ?しかも、君が自分で編んだって嘘までついて。」
結衣は暴かれても動じず、落ち着いた口調で答える。「私には夫がいますから、他の男性からプレゼントを受け取るわけにはいかないと思って、別の人に譲っただけです。それに、自分で編んだなんて一言も言ってません。」
エレベーターの鏡面に結衣の姿が映る。柳のような眉に澄んだ瞳、淡い光に照らされる端正な横顔は、無言でも人を惹きつける。ただ、その口から出る言葉には一切の柔らかさがなかった。理性的とも言えるし、無愛想で味気ないとも言える。
「つまり、俺は“粗大ごみ置き場”ってことか?」健一は怒るどころか笑ってしまう。
結衣は真剣な顔で首を振る。「マフラーは暖かいものですし、気持ちがこもっていればゴミじゃありません。」
健一は言葉に詰まる――そこが論点なのか?ふと、結衣の誕生日の夜を思い出す。自分が贈ったサファイアのネックレスをゴミ箱に捨てられた光景に、怒り混じりの笑みがこぼれる。
「結衣、君もなかなかだな!小野の手編みのボロマフラーは“気持ち”だからゴミ箱に捨てない。なのに、俺が贈ったネックレスは速攻で可燃ごみに直行か?」
結衣はあっさりと答える。「でも、あなたが拾い戻したでしょ?」
「当たり前だろ?」健一は呆れたように笑う。「八桁のアンティークをそのまま粉砕させるわけ?」
結衣も思わず笑ってしまう――人は本当に呆れた時、笑うものだ。健一と森川はかつて親友だっただけあって、嘘も長くつけば自分で信じ込むものだ。贈り物が偽物だとは明かさず、相変わらず天然を装っている。
「でも、あなたが『一度贈った物は返すものじゃない』って言ったから、私は捨てたの。あなたが自分で拾えば、『返された』ことにならないでしょ?」
「……?」
その理屈、妙に筋が通っている。
健一の表情が和らいだのを見て、結衣はわずかに眉を動かす。こうして“天然”を装えば、男性が“鈍感”を盾にするのと同じで、結局は本気で気にしていないことの証なのだ。
健一は呆れ笑いし、結衣はもう笑いもしない。そっと手を引っ込めてさらに一歩下がる。
「水島さんが私の招待を断って他の人の誘いに乗ったのですから、しばらく私の前に現れないでください。この雑誌の表紙インタビュー、昇進に関わる大事なものなんです。」
健一が驚いた顔をする。「そんなこと、聞いてない。」
結衣はいつもの柔らかさを消し、冷たい声で言う。「約束を守ることが人として当然だと思っていましたから。」
「……」健一は言い返そうとしたが、言葉が出ない。
「ピンポーン」エレベーターの扉が開く。
結衣は先に降りる。その外には何人かの同僚がいて、撮影チームのスタッフもいた。健一は人混み越しに結衣の後ろ姿を見つめ、なぜか胸の奥がざわついた――自分が問い詰めるつもりだったのに、なぜか自分が悪者になった気分だ。
やがて、退勤時間になった。
陽太は健一のインタビューを獲得し、機嫌が良い。仲の良い同僚たちが早々に祝賀会をしようと言い出し、副編集長の小林まで呼んでいた。
陽太は満面の笑みで、わざと遠慮するふりをした。「そんな、まだ決まってませんよ。」
一方、健一の撮影もすべて終わった。スタッフによれば、仕上がりはどれも素晴らしく、どのカットも表紙に使えると言う。この時の健一はメイクを落とし、鮮やかな唇で立ち姿も抜群。アイドル以上に品格が漂う。
健一は微笑みながらみんなに声をかけた。「お疲れさまでした。今夜は僕がご馳走します。」
みんなが手を止めて驚いた――あの近寄りがたい水島が、まさか自分から食事を振る舞うとは。
陽太が笑いながら返す。「ありがとうございます、水島さん。でも、今夜は結衣さんのご主人が私たちをご馳走してくれる約束なんです。そういえば水島さんもご存じですよね、結衣さんの旦那さん。私たちの高校時代の同級生です。結衣さん、今夜の食事会、水島さんも誘っていいですか?」
一瞬、空気が凍りついた。全員が結衣に注目する――今回の表紙インタビューは昇進に関わる大事な案件で、陽太、健一、結衣の関係は微妙なものになっている。
注目の中、結衣は穏やかに頷く。「ええ、水島さんがよければぜひ。」
健一は口元を上げて応じる。「美しい方のご招待なら、喜んで。」
三十分後、九人がレストランに集まった。
店内は和風の落ち着いた内装。木を基調にした侘び寂びの空間、枯山水の庭もあり、個室は静かで落ち着いた雰囲気だ。
陽太が周囲を見渡す。「結衣さん、ご主人は?」
結衣は答える。「今日は急な会議で来られません。気にせず頼んでください。」
陽太は内心がっかり――本物と“影武者”の鉢合わせを期待していたが、健一が参加する以上、かつての親友だった彼には一目で見抜かれる。結衣が用心するのも当然か。もっとも、今夜は別の“見せ場”がある。森川と早川も来る予定で、結衣が夫の他人への優しさを目の当たりにする瞬間が楽しみだ。
陽太は表情に出さず、舌をペロリと出す。「ご主人はお金に困ってないし、遠慮せず頼みます!」とメニューをめくり、予約コースに加え、みんなに高級料理を追加していく。
「そんな、申し訳ないですよ。」と同僚たちは遠慮する。
陽太は意味深に言う。「大丈夫ですよ、皆さん知らないかもしれませんが、結衣さんのご主人は森川悠介さんですから。森川家は大財閥、お金に困ることなんてありません。」
森川悠介――!
テーブルの周りで驚きの声が上がる。
「森川家のお坊ちゃん、森川悠介?経済誌でよく見る京都のイケメン実業家?」
「本当ですか、藤原さん?」
「嘘でしょ、結衣さん、そんな控えめだったなんて!」
「こんなセレブ奥様が隣にいたなんて、全然気づかなかった!」
……
結衣は手を振って否定する。「人違いですよ。」
だが、誰かがネットで森川悠介の写真を見つけてグループチャットに上げる。たとえ昨夜雨が降っていたとはいえ、みんな結衣の夫の顔は覚えていた――間違いなく森川悠介だ。結衣が否定してもみんなは控えめな人だと受け取り、羨望の眼差しを向けていた。
ただ一人、健一だけが無表情で前菜の白魚のスープとカラスミを飲んでいた。気持ちはその味わいと同じく、複雑だった。
一方、陽太はさらに料理を追加する。ズワイガニの酢ジュレ、ウニと魚卵の寿司、黒トリュフの卵焼き……どれも量は控えめだが、和食の値段は底なしで高い。ついに店員が伝票確認にやって来る。
「はい、全部私たちが頼んだものです。」陽太が笑顔で答える。
事情を知らない人は、彼女が主催者だと勘違いしそうだ。
その時、健一が尋ねる。「この店に天然のトラフグの白子はありますか?」
店員は答える。「はい、隠しメニューになっております。」
陽太はその料理を知らなかったが、健一が珍しく自分から注文したので、「それでは天然トラフグの白子を九人分お願いします」と即決した。