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第22話 藤原家の当主、帰還

水島健一と森川悠介は、早川理恵を傷つけてしまわないようにと、ようやく冷静さを取り戻した。そばにいたレストランのオーナーが警察に通報しようとしたが、水島健一がそれを制し、賠償金を払って穏便に済ませると申し出た。


軽傷の水島健一に比べ、森川悠介の方が重傷で、顔には血が滲んでいた。早川理恵は森川の傷を心配し、「私と健一さんの間には何もない」と森川結衣に言い残すと、すぐに森川悠介を病院へ連れて行った。


その食事会は、結局険悪な雰囲気で終わった。森川結衣が会計を済ませたが、残りの九人分のとらふぐ白子の代金は小林陽菜の負担となった。口座残高が足りなかった陽菜は、静かな場所に移動して母親に助けを求める電話をかけた。


電話越しに、渡辺美和は冷静な口調で言った。

「陽菜、あなたは焦りすぎたわ。店の損失はあなたが払って。今から四千万円を振り込むから。」


「なんで私が!」

もともと気分が悪かった陽菜は、水島健一が森川結衣のために喧嘩したのを目の当たりにして、怒りが込み上げていた。その一言で、さらに腹が立った。


「あなたが余計な口を挟んだからよ。」

渡辺美和は続けた。

「今日のあなたの言動、みんながお見通しよ。森川悠介も水島健一も、冷静になれば許してくれないわ。」


小林陽菜は怯え、母の言葉通りに水島健一より先に店に賠償しようと急いだが、間に合わなかった――すでに水島健一が支払いを済ませていた。


彼は鼻の頭に傷を作り、唇にも血が滲んでいたが、それでもどこか壊れた美しさが漂っていた。


陽菜は慌てて駆け寄った。

「水島さん、本当にごめんなさい。さっきは酔って余計なことを言ってしまいました。私があんなことを言わなければ、こんな騒ぎにはならなかったはずです。この食事代も店の損失も私が全額払いますから、後で口座を教えてください。」


水島健一は彼女を一瞥し、無言のままだった。陽菜は身震いしたが、次の瞬間、彼は森川結衣の方に顔を向け、穏やかな声で言った。

「今日はもう車を運転しない方がいいよ。僕が送るから。」


「結構です。」

結衣はどこか疲れ切った様子で、蒼白な卵型の顔に力がなかった。

「自分で帰ります。今日はご迷惑をおかけして、本当にすみません。」


その声は、いつものように静かで柔らかく、山間の小川のように淡々としていた。しかし、水島健一の心には距離を感じさせるものだった——まるで全てが振り出しに戻ったかのように。彼は結衣の細い背中がレストランから出ていくのを見つめ、慌てて後を追った。


外に出ると、路肩の水たまりに街灯の淡い光が映り込んでいた。いつの間にか静かに雨が降っていた。賑やかな灯りが水面に映り、人の目には眩しく映る。水島健一は森川結衣に追いつき、彼女の手首を掴んだ。

「君はそんなに森川悠介のことが好きなのか?」


結衣は何も答えなかった。その沈黙が肯定に思えた。


「でも、彼は君を全く気にしていない。理恵が戻ってきた今、彼が君を好きになることもない。離婚しないのは、森川悠介に追い出されるのを待っているの?森川結衣、そんな惨めな真似はやめてくれ。」


その言葉を口にした瞬間、水島健一自身もハッとした――本心はそんなことではなかった。


「そうね、私は惨めなの。」

結衣は顔を上げて、苦笑した。

「あなたは水島家の後継者として、頂点に立つ運命の人。私が森川悠介と結婚するしかなかった理由なんて、あなたには分かるはずもない。森川家の妻という立場でしか、父に認めてもらえなかったのよ。」


月明かりが彼女の頬を照らし、静かな涙が光っていた。

「水島健一、お願いだから、もう私を惑わせないで。もう会わないで……」


その最後の一言は、静かな夜に響き、湖に石を投げ入れたようにさざ波を広げた。水島健一はその場に立ち尽くし、森川結衣は彼の手を振りほどき、車を走らせて去っていった。


バックミラー越しに、うなだれたまま動かない水島健一の姿が映る。森川結衣は、ついにチャンスが巡ってきたことを確信した。わざと「心が揺らいだ」と伝えたが、何についてかは曖昧にした。これで水島健一は、自分の作戦が功を奏したと思い込むはずだ。まるでニンジンをぶら下げられたロバのように、もう一息で手が届くと信じてしまう。


案の定、すぐに健一からメッセージが届いた。

【僕の車が一台廃車になった。君が直せるなら、二億円で頼む。】


二億円もあれば新しい高級スポーツカーが買えるというのに、わざわざ修理を依頼してくるのは、ただ会う口実を作りたいだけだ。ついに本気を出してきたということだろう。


森川結衣は返事をせず、トランクに詰めたスーツケースを持って藤原家の本邸へ帰った。


藤原家に足を踏み入れた途端、使用人たちは皆、まるで見知らぬ人を見るような目で彼女を見つめた。久しぶりに帰ると、幼い頃から世話になった使用人たちは誰一人おらず、見たことのない顔ぶれが揃っていた。さらに目を引いたのは、家中の人々が渡辺美和――つまり小林陽菜の実の母――をまるで女主人のように敬っていることだった。


「結衣さん、どうして戻ってきたの?」

渡辺美和がソファから立ち上がり、にこやかに微笑みながらも、無意識に袖口を引き下げて腕輪を隠した。それは森川結衣の母が大切にしていた翡翠のブレスレットで、普段は誰にも触らせなかったものだ。


「ここは私の家よ。帰ってきて何が悪いの?」

森川結衣はいつもの穏やかさを捨て、スーツケースを前に押し出した。堂々とした口調で、渡辺美和に言い放つ。

「私の荷物を部屋まで運んで。」


渡辺美和は戸惑いの表情を見せた。

「結衣さん、今は陽菜さんがあなたの部屋を使っているの。今夜は陽菜さんの以前の部屋で我慢してもらえないかしら?」


森川結衣は手首をくるりと回し、次の瞬間――

「パシッ」と乾いた音が響き、皆が驚いて振り向いた。彼女は渡辺美和の頬を平手打ちしたのだった。

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