「あなたは誰なの!?人を殴るなんて!」
突然、ひとりの家政婦が飛び出してきた。
小柄で、目が近く、利発さと抜け目なさが顔に表れていて、美和とどこか似ている。
結衣は興味を持ち、部屋の新しい顔ぶれを眺めた。
例外なく、皆美和と血の繋がりがあるようだった。
ああ、全員が彼女の親戚なのだ。
結衣は微笑み、「私が誰かも知らないのに、なんで私の家にいるの?」と問いかける。
「……」
家政婦は一瞬呆然とした。
藤原家のお嬢様は見た目も性格も悪く、森川家の御曹司に薬を盛って嫁いだ愚か者だと聞いていたはずだ。
だが目の前の女性は、黒髪に雪のような肌、杏のような大きな目と高い鼻、青い絞り染めのワンピースを纏い、細いストラップが白く華奢な肩にかかっている。まるで芸能人よりも輝いていた。
――「陽菜、帰ってきたのか?」
螺旋階段から男性の声が響いた。
若く整った男性が階段を降りてきた。
結衣の兄、真吾だった。
結衣だとわかると、彼の口元の笑みは徐々に消え、眉をひそめて尋ねた。
「なんだ、君か。」
「兄さん、私を見てがっかりした?いいよ、私ここに戻ってきて住むから。兄さんが嫌でも我慢してね。」
「嫁いだ娘が実家に戻ってくるなんてありえないだろう?悠介は?今すぐ電話して迎えに来させる。」
「電話しなくていいよ。彼には他の女がいるから。藤原家と森川家の取引も、もう終わりだよ。」
「……」
真吾の顔色が一変した。
「結衣、お前は本当に分かってないな!」
「森川家との提携のために、どれだけ準備し、どれだけ金をつぎ込んだと思ってるんだ!」
「悠介は男だ、遊びかもしれないだろう。こんなことで実家に帰ってきて、森川家にどう思われるか分かってるのか?」
「それにそもそも、悠介に薬を盛ってまで嫁ぎたいと言い出したのはお前だぞ。今さら何を言ってるんだ?」
「……」
結衣は静かな目で見つめ返す。
「兄さん、本当に私がどうやって悠介と結婚したか知らないの?私が飲んだのは、兄さんと父さんが渡してきた水だった。そのせいで意識を失い、悠介と一晩を過ごしたの。」
真吾は罪悪感もなく、むしろ諭すように言った。
「俺たちがそうしたのも、お前のため、藤原家のためだ。」
結衣:「?」
何を言っているのか。
結衣は顔を上げ、冷たい声に皮肉を滲ませて言った。
「兄さんは私より一年長く贅沢してきたけど、まだまだ色気も残ってるみたいね。ちょうど、男好きな大物を何人か知ってるから、兄さんも身を売って藤原商事を立て直したら?」
「お前……!」真吾は怒りで震えた。
その時、美和がやってきた。
彼女の顔にはまだ赤い手形が残っている。たしなめるように言った。
「結衣、女の子がそんなこと言うものじゃないよ。早くお父さんと兄さんに謝りなさい。私みたいな外の人間ですら見ていられないわ。」
結衣:「自分が外の人間だと分かってるなら、口出ししないで。」
美和:「……」
以前の結衣は、表現を優しく言えば素直で従順、悪く言えば優柔不断で臆病だった。
だが今は――
あまりにも自己主張が強く、言葉も鋭い。まるで別人のようだ。
真吾は美和の顔の手形に気づき、すぐに気遣った。
「渡辺さん、その顔はどうしたんです?」
美和は首を振った。
「い、いえ、自分でぶつけただけです。」
だが傍らの家政婦が憤然と言った。
「藤原様が殴ったんです!藤原様が渡辺さんにスーツケースを部屋に運ばせようとしたけど、渡辺さんが陽菜さんが使うと言ったら、藤原様が怒って渡辺さんを叩いたんです!」
真吾の顔が険しくなった。
「あの部屋は俺が陽菜に使わせると決めたんだ。文句があるなら俺に言え!」
「パシッ!」
再び平手打ちの音が響いた。
場の空気が一瞬で凍りつき、全員が目を見開いた。
誰も、結衣が本当に真吾を殴るとは思っていなかった。
真吾は最初は呆然とし、
やがて顔に痛みが広がると、屈辱と怒りが一気に込み上げてきた。
殴り返そうとしたが、結衣も抜け目なく、すでに玄関まで下がり距離を取っていた。
真吾は目を真っ赤にして、棚にあった本を掴み、結衣に投げつけた。
その時、銅製の大きな玄関ドアが動く音がした。
皆が振り返ると、陽菜が帰ってきていた。
後ろに二人の大柄な男性がいる。
健一、そして修平だった。
結衣は一瞬驚き、健一の向こうにいる修平を見た。
彼は黒い服を身にまとい、冷ややかな空気を纏い、険しい表情をしていた。
修平の静かな黒い瞳と目が合った瞬間、結衣の心臓が一瞬止まった気がした。
なぜ彼が――?
どうしてここに?
次の瞬間、修平は彼女の前に立ち、飛んできた本を受け止めた。
重たい本の鋭い角が勢いよく指を切り、彼の人差し指からワイン色の血が滲み出た。
「これが藤原家のもてなし方か?」修平は傷など気にせず、冷たい視線を真吾に向けた。
真吾は最初、修平だと気づかなかった。
悠介とどこか似ているものの、全身から発せられる圧倒的な存在感と危険な雰囲気で、すぐに区別できた。
改めて顔を見て、全身に冷や汗が流れる。
「も、森川家の御曹司……?」
他の者たちも驚きを隠せなかった。
京都で森川家の御曹司、修平を知らぬ者はいない。
修平の父は森川健一郎の次男。かつて一般女性と恋に落ち、森川健一郎から家を追われた。
修平が十五歳の時、両親は事故で亡くなり、祖父に引き取られ森川家に戻った。
それ以来、京都の名家の子息たちは彼を恐れるようになった。
理由は簡単、彼があまりにも優秀だったからだ。
容姿も、成績も、運動能力もすべてトップクラス。
大学入試では理系の首席で京都大学に合格。
誰もが彼が森川家の後継者になると思った矢先、「家の運命と相性が悪い」とされ、祖父により海外に追放された。
誰もが惜しんだその時、東京の水島家が「本当の孫を見つけた」と発表、水島家の後継者となった。
修平の母は、水島家で幼い頃に行方不明になった令嬢だったのだ。
それ以来、修平は東京で過ごし、京都には戻ってこなかった。
その修平が今、帰ってきた。
これから京都の勢力図が変わるかもしれない――
真吾は慌てて救急箱を持たせ、「お見苦しいところをお見せしました。妹が家政婦を叩いたので、少し叱ろうとしただけです」と弁解した。
「妹をそんな風に叱るのか?」健一が口を開いた。
煉瓦のように重い本をじっと見つめ、皮肉を込めて言う。
「藤原家の家風は随分と荒々しいようだな。」
真吾はため息をついた。
「水島様、ご存じないでしょうが、結衣は子供の頃から甘やかされすぎて、分別がなくて……さっきも渡辺さんを叩いた挙句、私にも手を上げました。」
ずっと黙っていた陽菜が、突然「ドサリ」と結衣の前にひざまずいた。
そして、涙がぽろぽろとこぼれ落ちる。
「結衣、ごめんね。私が悪かった。取材や副編集長の座を奪おうとした私が悪いの。お母さんが藤原家で十五年も働いたことを考えて、お願い、許してあげて。」