「俺の大切な人だ。」
その言葉を耳にした瞬間、結衣の呼吸が止まりそうになった。
心の中の驚きを抑えながら、彼女は修平を見つめた。
修平はライトの下に立ち、警察署の清潔なガラス越しに白い光が差し込み、彼の鋭い顔立ちの半分は影に隠れている。
背後には無数の灯りがきらめき、まるで星空のように彼を照らしていた。
「今夜の宇宙は、忘却の広がりと、熱狂の精密さを兼ね備えている。」
ボルヘスのこの言葉が、ふと脳裏をよぎる。
時空が交錯し、記憶の中で紅葉の映る図書館にいた少年と、いま目の前にいる成熟した男の姿が重なっていく。
結衣の心が少し揺れた。
だが、そのときめきはすぐに理性で押し殺された。
きっと聞き間違いだろう。
「それでは森川さん、道を覚えるために送っていただけますか?」結衣は丁寧に微笑み、落ち着いた目で言った。
その穏やかな表情を見つめながら、修平は低く一言「うん」とだけ答え、長い足で駐車場へ向かった。
その場に残されたのは健一だけだった。
いつもは気ままな水島さんも、今は表情が固まっている。耳には修平の「俺の大切な人に気を使わなくていい」という言葉が繰り返し響いていた。
「俺の大切な人…?」
前方で橙色の車のライトが点き、夜空を鮮やかに切り裂く。まぶしい光に思わず健一は手をかざした。
修平の運転手である佐々木祐一がすでに車のそばでドアを開けて待っていた。
修平と結衣は並んで歩き、その後ろ姿には柔らかな光が差している。
一人は背が高くすらりとして、もう一人は細身で均整が取れている。言葉にできないほどお似合いだった。
健一はライターを弄び、煙草に火をつける。馬鹿げた考えも、煙とともに夜風に消えていく。
結衣は修平の義妹であり、半ば森川家の人間でもある。
それに、修平は同世代でありながら、これまで女性の噂は一切なかった。水島家が修平を後継者に指名して以来、京都中の名家が彼を取り込もうと金や女性を用意したが、彼は全く動じなかった。
だから、さっきの「俺の大切な人」は、「家族」という意味だったのだろう。
健一は煙草を消し、足早に車の前へ向かった。「修平さん、ついでに俺も乗せてくれませんか?」
夜風は心地よく、月明かりが澄んでいる。
健一は希望通り助手席に座った。
後部座席では、結衣のスマートフォンからバッテリー不足の警告音が聞こえた。
健一はわざわざ充電器を取り出し、振り返ったとき、結衣が指先で運転席の背もたれを二度ノックし、ワイヤレス充電のマグネットパッドを出すのを見た。
健一は突然訊ねた。「どうしてここに隠しスペースがあるって知ってたの?」
結衣は一瞬固まった。
以前、修平が同じことをしているのを見て、一度で覚えてしまった。
本来なら何でもないことだ。今は堂兄妹という名目なのだから、「何度か乗ったことがある」と言えば済む。
だが、その前回、まさにこの車で修平から結婚を提案されたのだ。無意識のうちに後ろめたさを感じて、答えが詰まった。
「健一、余計なことは言うな。」
修平の低い声が響く。
修平が窓にもたれて目を閉じているのを見て、健一は口をつぐみ、それ以上何も言わなかった。
結衣もほっと息をついた。
しばらく車内は静寂に包まれる。運転手が高速道路に乗ったころ、健一が口を開いた。「修平さん、先に結衣を京都湾まで送るんじゃなかったの?」
「いや、先に君だ。」修平の声は冷たく淡々としている。
「なんで?」
「近いから。」
「……?」
健一は驚いて後ろを振り返る。警察署から二つ角を曲がればすぐ京都湾――修平が結衣のために用意した空き家の場所だ。
彼自身が住む水島家の本宅は市の南、森川家の本宅のすぐ近くにある。
つまり――
修平の言う「近い」とは、どんな基準なのか?
健一は口を開きかけたが、修平が再び目を閉じているのを見て、結局何も言わなかった。
あっという間に水島家に到着した。
車が停まると、健一はわざとらしく「あ、修平さん、友達と京都湾でテニスする約束思い出したから、もう一度送ってくれない?」と笑顔で言った。
だが運転手はすでに降りて助手席のドアを開けている。
後部座席では、修平が穏やかに言った。「水島のお父上とお母上によろしく伝えてくれ。」
これ以上ないほど明確な拒絶の意思だった。
健一は渋々車を降りた。
帰りの車内は健一がいなくなり、静けさが際立つ。運転手が仕切りを閉めると、後部座席には二人の呼吸だけが静かに響く。
結衣が口を開いた。「今日はどうして健一と一緒に私の家に?」
修平は「たまたま」とだけ答えた。
それ以上話すつもりがなさそうなので、結衣もそれ以上は訊かなかった。
彼女は窓の外に顔を向けた。
「前回の名神高速の崩落は、人為的なものだった。」修平が突然話し始めた。
結衣は息を呑んだ。「誰の仕業?」
「まだ調査中だ。」
車外の灯りが車内を照らし、金と酒に酔う街の光が修平の高い鼻梁をなぞるが、その奥の深い瞳までは届かない。そこは依然として暗いままだった。
車内は静寂に包まれている。
修平は続けて言った。「だから俺は結婚が必要だ。妻と、後継者が。もし怖いなら、この結婚はやめてもいい。森川家には俺が説明する。」
「私は怖くない。」
結衣は即座に答えた。
むしろ、ほっとした気持ちだった。
これまで何度も、なぜ修平が自分に結婚を申し込んだのか考えてきたが、ようやく納得がいった。
修平には妻と後継者が必要で、誰かに「彼を殺せば水島家の後継者になれる」と思わせないためだ。
そして、修平は自分のことをよく知っている。適任の妻というわけだ。
結衣は修平の力を必要とし、修平も彼女の存在を必要としている。
たとえ愛情がなくとも、利害の結びつきは恋愛よりも確実――それが結衣にとって一番心地よい関係だった。
結衣は自ら手を差し出した。「修平、これからよろしく。」
車内の柔らかな灯りが彼女の顔を照らす。その肌は白磁のように滑らかで、夜の闇の中、やわらかく美しい瞳が微笑みを浮かべている。それはまるで白磁に咲く華やかな釉薬のようだった。
修平は指先で軽くなぞり、次の瞬間、その細い手をしっかりと握った。
「これからよろしく。」