無理しないでね……
結衣は大人だ。この言葉の裏にある意味も、もちろん理解していた。
顔の火照りを必死に抑え、平静を装いながら修平に言った。「違うの、渡したいものがあって。」
そう言って、バッグから前に買った万年筆を取り出そうとした。
けれど、この華やかな包装が今の雰囲気には少し気まずく感じられた。
そこで結衣はこっそりと箱を開け、中身だけを取り出した。
ペンは深い青色で、金色のキャップには複雑な模様が刻まれている。
もともとは健一への取材のお礼として用意した品だったが、彼が約束を破ったため、修平の名前を彫り直したのだ。
正直なところ、この万年筆は少し派手すぎて、修平の好みに合わない気がして、ずっと渡せずにいた。
修平は頭も人付き合いも抜群に良い人だ。この贈り物が自分のために用意されたものでないことくらい、すぐに見抜くだろう。
もし今がこんな気まずい状況でなければ、結衣はきっと渡さなかったはずだ。
——「きれいなペンだね。」
頭の上から修平の声がした。
彼は微笑みながらペンを受け取り、指先でなぞる。金色の文字に触れた瞬間、その口元の微笑みがさらに深くなり、深い瞳が結衣を見つめた。
「本当は誰に渡すつもりだったの?」
結衣は息を呑んだ。
やっぱり、気付かれていた。
恥ずかしさが込み上げ、頭が真っ白になる。
社交は苦手でも、社会人として気配りには自信があった。贈り物も、相手に喜んでもらえるように選んできた。
「ごめんなさい、別のものを選び直します——」
そう言いながら、ペンを返してもらおうと手を伸ばす。
だが修平はさっと手を上げ、結衣の手は空を切った。
不思議に思って見上げると、修平の端正で少し冷たい顔に、ほんのりとした笑みが浮かんでいた。黒い瞳の奥で、薄い唇が静かに動く。
「でも、これはきれいだ。」
「気に入ったよ。」
「……」
結衣はまるで時間が止まったように動けなくなった。修平がドアを閉める音がしても、まだその場に立ち尽くしていた。
空気には、彼の静かで涼しげな香りが残っている。
結衣はそのままソファに倒れ込んだ。ひんやりとした革の感触が熱い頬に触れても、体の熱は冷めなかった。
もう、人の一言でこんなに動揺する年齢じゃないと思っていた。けれど、修平の存在が思春期の記憶を呼び起こしたのか、理由もわからず、胸が激しく高鳴っていた。
ふと顔を上げると、壁にかかったカレンダーが目に入る。時間は八年前の六月、修平が留学した月で止まっていた。
彼は昔から自分に厳しく、同年代とは思えないほど未来の計画がはっきりしていた。カレンダーの余白には、力強く自由な文字でその日の予定が書き込まれている。
6月1日 大会 XX講座受講 ランニング
6月3日 論文 研究室 筋トレ
6月7日 大学入試ボランティア
……
そして、6月10日。受験が終わった最初の日、その欄だけは真っ白だった。
その日は、結衣が修平と約束した日だった。
何度もその日が来るのを心待ちにして、自分のカレンダーにも大きな赤丸をつけていた。
修平が来なかった理由を何度も考えた。無理やり留学させられたのか、実は来ていたけど自分が気づかなかったのか……
だが目の前のカレンダーは、そんな慰めを無情に打ち砕いた。
彼には、あの約束は何の意味もなかった。信じていたのは自分だけだったのだ。
結衣の瞳の輝きは、次第に色を失っていく。まるで自分を罰するようにカレンダーに顔を近づけ、かつて書いて消した跡を探すが、真新しいままの白い余白しかない。
まるで頭から冷たい水をかけられたようだった。
反射する自分の顔色は真っ青で、かつて京都大学の桜の下で朝から晩まで立ち尽くしていた自分そのものだった。
結衣は苦笑した。「一度で懲りないのね、結衣。」
大きく息をついて、冷静さを取り戻した。
その時、スマートフォンが震えた。父・藤原健次からの電話だった。
出るや否や、怒鳴り声が響いてくる。「結衣、随分生意気になったな!兄さんを警察に突き出すとは!森川家を後ろ盾にすれば何でもできるとでも思っているのか?今すぐ告訴を取り下げて兄さんを解放しろ!」
結衣は少しだけスマホを遠ざけた。
母が健在だった頃、父はこんなふうに怒鳴ることもなかった。
自分と兄の名字を見れば、母が自分に藤原商事を継がせたかったことは明らかだった。
「お父さん、安心して。もうすぐ森川家とは関係なくなるから。」結衣の声は静かで、どこか皮肉が混じっていた。
「どういう意味だ?」
「悠介さんと離婚するの。藤原家はもう森川家の案件を取れなくなる。」
「そんなこと、許さん!」
藤原健次の必死な声を聞きながら、電話の向こうでどんな顔をしているか容易に想像できた。
結衣は苦笑し、通話を切った。
すぐに再び何度も電話がかかってきたが、うんざりして電源を切ろうとしたところ、LINEの新着メッセージに気づいた。
【悠介】 :家にいないけど、どこ行った?
【悠介】 :ふーん、外泊まで覚えたか。今からパスワードも鍵も変えるから、もう二度と帰ってくるな!
画面いっぱいの感嘆符を見て、結衣はますますうんざりし、悠介だけ通知オフにした。
さらにスクロールすると、数人の同僚から安全確認のメッセージが届いていた。結衣は一つ一つ丁寧に返信した。
最後に、陽太からのメッセージ。
【陽太】:姉さん、明日学校で試合があるんだ。応援に来てくれない?
気分は乗らなかった。せっかくの土曜、昼まで寝ていたい。
スマホを放り投げようとした時、陽太から写真が届いた。プールサイドで上がる瞬間の一枚。濡れた髪、若い体、引き締まった筋肉。青いプールの中で、エネルギーが溢れ出している。
すぐに写真は削除された。
【陽太】:あ、ごめん、間違って送っちゃった。今日の予選で友達が撮ったやつだから、姉さんは見なかったことにして……
【陽太】:猫が隠れる.jpg
「調子いいな……」と結衣は思った。
でも、陽太が京都大学の水泳推薦で入ったことを思い出す。
結衣の瞳に微かな光が戻った。
帰国後、京都大学は校舎を拡張し、隣の京都一中も移転した。久しぶりに母校に行こうと思っても、京都大学は学生証がないと入れず、諦めたことがあった。
今回はいい機会かもしれない。
そう思い、「行くよ」と返事をした。
土曜日、天気は快晴。
京都大学の正門には赤い旗が並び、水泳場の両側には応援旗がはためいている。京都大学は水泳の強豪校で、観戦に来る人も多い。
結衣は招待状を見せて、校内に入った。
「先輩、LINE交換しませんか?」と男子学生が声をかけてきた。後ろの仲間たちも冷やかし、周囲の視線を集めている。
「結婚してます。」結衣はやんわりと断り、左手の薬指の指輪を見せた。
男子学生は笑った。「大丈夫、気にしません。」
結衣:「?」
その時、陽太が現れた。
日焼けで少し赤くなった肌の少年は、結衣と男子学生の間に割って入り、甘えた声で言う。「姉さん、遅かったね。また来てくれないかと思ったよ!」
それから男子学生をちらりと見て、わざとらしく首をかしげる。「今、何て言ったの?」
一瞬、周囲が静まり返った。
男子学生は慌てて言い訳した。「ごめん、陽太様、義姉さんだとは知らなかったんだ。」
「変なこと言うな!」陽太は叫んだが、顔は真っ赤だった。
そのわかりやすい反応に、仲間たちはまた盛り上がる。「おお~」
結衣はそんなやりとりを、ただ冷めた目で眺めていた。
その時、図書館の方から五十代くらいの警備員が歩いてきて、結衣をじっと見つめたあと、突然笑顔で声をかけてきた。
「お嬢様、やっぱりあなたでしたか!久しぶりですね、彼氏さんとはその後どうですか?もう結婚されたんでしょう?」