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第28話 謎のモリア

その言葉に、場にいた全員が一瞬固まった。


陽太は眉をひそめて言った。「おじさん、人違いじゃないですか?彼女はうちの学校の人じゃありませんよ。」


田中国男はにっこり笑った。「そうだね、この子は違うけど、彼氏はここの学生だよ!二人はよく図書館で一緒に勉強してた。本当に頑張ってたよ。彼氏の名前は……有名だったな、そうだ、森川——」


結衣の胸がドキリとした。


まさか田中国男おじさんが、八年前のことを今でも覚えているとは思わなかった。


修平との過去を知られたくなかった。と言っても、別に特別な過去があるわけでもなく、ただの淡い片想いだったのだが。


結衣は笑って話を切った。「田中おじさん、人違いです。私、京都大学には初めて来ました。」


「そうか……」田中国男は頭をかきながら、結衣の顔をじっと見つめ、「うーん、確かにちょっと違うかもな」と呟いた。


結衣はほっと息をついた。


陽太も、田中国男が年のせいで人違いしたのだろうと気にしなかった。


そんなやりとりをしているうちに、試合の時間がやってきた。


誰かが駆け込んできた。「陽太さん、コーチが呼んでます!」


「すぐ行きます!」陽太は返事をして、去り際に腕時計を外して結衣に差し出した。「お姉さん、これ持ってて!」


周りの人たちがまた冷やかし始める。


「陽太さん、その時計すごく大事にしてるのに、普段は誰にも触らせないのに!」


結衣が断る間もなく、陽太は走り去った。


彼女は時計の文字盤をじっと見つめた。特に高価な物でもなかった。陽太の家柄なら、この時計の値段の後ろにゼロを二つ足したくらいが普通だろう。


なら、彼がこれほどまでに大事にする理由はただ一つ——理恵からの贈り物なのだ。


プール内。


男子200メートル自由形のレースが始まった。


結衣の席はスタート台の近くで、10メートルほど先に若いスイマーたちが並んでいる。


陽太はゴーグルをつける前に振り返り、観客席の結衣を見つめて手を振った。


観客たちは理由も分からず、一斉に興奮した声をあげる。


「小野さん、頑張って!」


「キャー!陽太がこっち見た!」


「違うよ、小野さんはあきらに手を振ってるんだって!」


結衣が横を見ると、隣にはとても可愛らしい女の子が座っていた。今話しているのはその子の友達だった。


スターターピストルが鳴ると、陽太はスタート台から飛び出し、まるで人魚のように水中を進み、あっという間に他の選手を引き離した。


観客席の歓声がさらに大きくなる。


予想通り、陽太が一位になった。


彼は水中で手を挙げてNo.1のサインを作り、フラッシュに照らされて若々しい自信に満ちていた。


プールサイドに手をつき、一気に飛び上がると、またしても会場は絶叫に包まれた。


「腹筋の神様だ!」


「かっこいい!彼女になれたら絶対幸せだよ!」


「臆病者、私は本気で狙っちゃう~」


歓声が響く中、結衣の頭には昨夜の光景がよぎった——修平の腰、きっと力強いのだろう。


その思いは一瞬で通り過ぎたが、顔がだんだん熱くなってきた。


陽太はその様子を見て勘違いし、綺麗な顔に笑みを浮かべて表彰台へ向かった。


「ねぇ、あきら、小野さんまたあなた見てたよ、しかも笑いかけてた!」友人が叫ぶ。


あきらは顔を赤らめ、「やめてよ、からかわないで」と小声で答える。


友人はからかう。「あきら、何してるの、早く小野さんに水を渡してきなよ!」


あきらは唇をきゅっと結び、友人に背中を押されながら、用意していた水を手に結衣に声をかけた。「すみません、通してもらえますか?」


結衣は素直に身を引き、道を空けた。


だが、あきらは動かなかった。


結衣はさらに後ろに下がった。


その時、あきらは結衣の手から時計を奪い取った。


「これ、小野さんの時計でしょ?なんであなたが持ってるの?」


あきらの声に、周囲の視線が集まった。


すぐにざわめきが広がる。


「そうだよね、陽太さんがいつもしてる時計だよ。誰にも触らせないって有名なのに!」


「小野さんの熱狂的なファンが最近、何本も水着を盗んだって噂あったけど、もしかしてこの人?」


「え!まさか時計も盗んだの?」


「この時計、陽太さんにとって大事なんだよ。早く返してあげて!」


あきらの顔が曇り、結衣のバッグを漁ろうとした。「それから、水着も返してよ!」


結衣:「……」


もちろん、結衣は他人に自分のバッグを勝手に触らせる気はなかった。


揉み合いの中、バッグが床に落ち、中身が散らばった。身分証も転がり出た。


あきらの友人が素早く拾い上げた。


生年月日を見るなり、思わず吹き出した。


「え、陽太さんより七歳も年上じゃん!」


「すごい、陽太さんの魅力で年上のおばさんまで虜にしちゃった!」


「……」


結衣は表情を曇らせ、「返して」と低く言った。


女の子は舌を出して、「やだよ!この数日で盗んだ水着を返さなきゃ!」


結衣:「……本当に取ってません」


「じゃあ、なんで小野さんの時計があなたのとこにあるの?」


「本人から預かったんです」


「嘘だ!この時計、絶対人に触らせないんだから。あなた、年は上だけど綺麗なのに、なんで人の下着なんか盗むの?」


また同じ話の繰り返しだ。


結衣は呆れて笑った。自分がそんなことするように見えるだろうか。


その時、陽太が人混みをかき分けてやって来た。「どうしたの?」


あきらは耳の後ろの髪をいじって気まずそうに言った。「先輩、こないだ水着を盗んだ犯人、見つかりました。彼女です。それに時計まで盗んでました」


陽太:「?」


陽太は周囲の視線も気にせず、結衣の手首をつかんで自分の前に引き寄せ、優勝メダルを彼女の首にかけた。


「これは君のために勝ち取ったんだ。気に入ってくれた?」


その場は一瞬で静まり返った。


「陽太さんの彼女?」


「だから時計も持たせてたんだ」


「でも、陽太さんはあきらを狙ってるって話じゃ?」


「……」


そんな声を聞いて、陽太は眉をひそめて言った。「あきらって誰?」


一同が固まる。


陽太はあきらのことすら知らないのか?


あきらとその友人は顔色を変え、苦い表情を浮かべた。


女の子のフルネームを聞いて、結衣は思い出した。原作小説にもこういう子が出てきた。自分と同じく脇役の女の子だ。


しかも彼女はもっと不憫で、最初は陽太に興味なかったのに、友達にそそのかされて好きになり——要するに、陽太の人気を引き立てるための存在だった。


結衣はため息をつき、金メダルと時計を陽太に返した。


「優勝おめでとう。義兄が迎えに来てるから、もう行くね」


会場がざわつく。


義兄?結婚してるの?


じゃあ、陽太は堂々と……まさか不倫?


その瞬間、あきらの顔の赤みが消え、陽太を見る目にうんざりした色が加わった。


同時に、京都大学のキャンパス掲示板には「衝撃!学園のアイドルが人妻に手を出す」というスレッドが大人気となった。


現場写真にも分厚いモザイクがかけられ、SNSで拡散され、あっという間に数千回もリツイートされた。


森川グループ。


悠介のオフィスでは、翔太がゆったりとお茶を飲んでいた。


森川グループは今、EV事業を全面展開しており、ヨーロッパで有名な空力設計の華人エンジニア「モリア」を高給で招く準備を進めているほか、人気急上昇中の俳優・黒沢に広告塔を依頼しようとしていた。


「モリア?聞いたことあるよ。天才機械系の中国人女性で、かなり謎めいてるよね」と翔太。


悠介はうなずいた。「彼女、帰国の意向があるらしくて、国内の自動車メーカーがみんな狙ってる。うちも人を出して探らせてるよ」


二人はさらに話を続けた。


その時、翔太のスマホが鳴った。画面を見て、柔らかい笑みを浮かべる。


「同じ市内のトレンドで、『京都大学のアイドルが人妻狙い、証拠写真あり』っていうのが上がってる」


「面白いな。前の京都大学アイドルって、悠介さんだったよね。今は誰だっけ?たしか小野家の……」


悠介:「陽太か」


「そう。で、この写真の人妻、どう見ても悠介さんの藤原結衣にそっくりじゃない?」


悠介は画面を見た。


写真の人物は全員モザイクがかけられていたが、「人妻」は確かに結衣によく似ていた。


陽太が結衣を追いかけている?


そんな馬鹿な考えがよぎり、悠介はすぐに首を振って笑った。


あり得ない。結衣は八年も自分を想い続けてきたのだ。他に心移りするはずがない。


それに、陽太だって、七歳も年上の女性に惹かれるわけがない。


悠介は微笑み、気にも留めず、ドイツにいる情報提供者に連絡して、噂の「天才機械系女性」モリアの情報を探し始めた。

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