その言葉に、場にいた全員が一瞬固まった。
陽太は眉をひそめて言った。「おじさん、人違いじゃないですか?彼女はうちの学校の人じゃありませんよ。」
田中国男はにっこり笑った。「そうだね、この子は違うけど、彼氏はここの学生だよ!二人はよく図書館で一緒に勉強してた。本当に頑張ってたよ。彼氏の名前は……有名だったな、そうだ、森川——」
結衣の胸がドキリとした。
まさか田中国男おじさんが、八年前のことを今でも覚えているとは思わなかった。
修平との過去を知られたくなかった。と言っても、別に特別な過去があるわけでもなく、ただの淡い片想いだったのだが。
結衣は笑って話を切った。「田中おじさん、人違いです。私、京都大学には初めて来ました。」
「そうか……」田中国男は頭をかきながら、結衣の顔をじっと見つめ、「うーん、確かにちょっと違うかもな」と呟いた。
結衣はほっと息をついた。
陽太も、田中国男が年のせいで人違いしたのだろうと気にしなかった。
そんなやりとりをしているうちに、試合の時間がやってきた。
誰かが駆け込んできた。「陽太さん、コーチが呼んでます!」
「すぐ行きます!」陽太は返事をして、去り際に腕時計を外して結衣に差し出した。「お姉さん、これ持ってて!」
周りの人たちがまた冷やかし始める。
「陽太さん、その時計すごく大事にしてるのに、普段は誰にも触らせないのに!」
結衣が断る間もなく、陽太は走り去った。
彼女は時計の文字盤をじっと見つめた。特に高価な物でもなかった。陽太の家柄なら、この時計の値段の後ろにゼロを二つ足したくらいが普通だろう。
なら、彼がこれほどまでに大事にする理由はただ一つ——理恵からの贈り物なのだ。
プール内。
男子200メートル自由形のレースが始まった。
結衣の席はスタート台の近くで、10メートルほど先に若いスイマーたちが並んでいる。
陽太はゴーグルをつける前に振り返り、観客席の結衣を見つめて手を振った。
観客たちは理由も分からず、一斉に興奮した声をあげる。
「小野さん、頑張って!」
「キャー!陽太がこっち見た!」
「違うよ、小野さんはあきらに手を振ってるんだって!」
結衣が横を見ると、隣にはとても可愛らしい女の子が座っていた。今話しているのはその子の友達だった。
スターターピストルが鳴ると、陽太はスタート台から飛び出し、まるで人魚のように水中を進み、あっという間に他の選手を引き離した。
観客席の歓声がさらに大きくなる。
予想通り、陽太が一位になった。
彼は水中で手を挙げてNo.1のサインを作り、フラッシュに照らされて若々しい自信に満ちていた。
プールサイドに手をつき、一気に飛び上がると、またしても会場は絶叫に包まれた。
「腹筋の神様だ!」
「かっこいい!彼女になれたら絶対幸せだよ!」
「臆病者、私は本気で狙っちゃう~」
歓声が響く中、結衣の頭には昨夜の光景がよぎった——修平の腰、きっと力強いのだろう。
その思いは一瞬で通り過ぎたが、顔がだんだん熱くなってきた。
陽太はその様子を見て勘違いし、綺麗な顔に笑みを浮かべて表彰台へ向かった。
「ねぇ、あきら、小野さんまたあなた見てたよ、しかも笑いかけてた!」友人が叫ぶ。
あきらは顔を赤らめ、「やめてよ、からかわないで」と小声で答える。
友人はからかう。「あきら、何してるの、早く小野さんに水を渡してきなよ!」
あきらは唇をきゅっと結び、友人に背中を押されながら、用意していた水を手に結衣に声をかけた。「すみません、通してもらえますか?」
結衣は素直に身を引き、道を空けた。
だが、あきらは動かなかった。
結衣はさらに後ろに下がった。
その時、あきらは結衣の手から時計を奪い取った。
「これ、小野さんの時計でしょ?なんであなたが持ってるの?」
あきらの声に、周囲の視線が集まった。
すぐにざわめきが広がる。
「そうだよね、陽太さんがいつもしてる時計だよ。誰にも触らせないって有名なのに!」
「小野さんの熱狂的なファンが最近、何本も水着を盗んだって噂あったけど、もしかしてこの人?」
「え!まさか時計も盗んだの?」
「この時計、陽太さんにとって大事なんだよ。早く返してあげて!」
あきらの顔が曇り、結衣のバッグを漁ろうとした。「それから、水着も返してよ!」
結衣:「……」
もちろん、結衣は他人に自分のバッグを勝手に触らせる気はなかった。
揉み合いの中、バッグが床に落ち、中身が散らばった。身分証も転がり出た。
あきらの友人が素早く拾い上げた。
生年月日を見るなり、思わず吹き出した。
「え、陽太さんより七歳も年上じゃん!」
「すごい、陽太さんの魅力で年上のおばさんまで虜にしちゃった!」
「……」
結衣は表情を曇らせ、「返して」と低く言った。
女の子は舌を出して、「やだよ!この数日で盗んだ水着を返さなきゃ!」
結衣:「……本当に取ってません」
「じゃあ、なんで小野さんの時計があなたのとこにあるの?」
「本人から預かったんです」
「嘘だ!この時計、絶対人に触らせないんだから。あなた、年は上だけど綺麗なのに、なんで人の下着なんか盗むの?」
また同じ話の繰り返しだ。
結衣は呆れて笑った。自分がそんなことするように見えるだろうか。
その時、陽太が人混みをかき分けてやって来た。「どうしたの?」
あきらは耳の後ろの髪をいじって気まずそうに言った。「先輩、こないだ水着を盗んだ犯人、見つかりました。彼女です。それに時計まで盗んでました」
陽太:「?」
陽太は周囲の視線も気にせず、結衣の手首をつかんで自分の前に引き寄せ、優勝メダルを彼女の首にかけた。
「これは君のために勝ち取ったんだ。気に入ってくれた?」
その場は一瞬で静まり返った。
「陽太さんの彼女?」
「だから時計も持たせてたんだ」
「でも、陽太さんはあきらを狙ってるって話じゃ?」
「……」
そんな声を聞いて、陽太は眉をひそめて言った。「あきらって誰?」
一同が固まる。
陽太はあきらのことすら知らないのか?
あきらとその友人は顔色を変え、苦い表情を浮かべた。
女の子のフルネームを聞いて、結衣は思い出した。原作小説にもこういう子が出てきた。自分と同じく脇役の女の子だ。
しかも彼女はもっと不憫で、最初は陽太に興味なかったのに、友達にそそのかされて好きになり——要するに、陽太の人気を引き立てるための存在だった。
結衣はため息をつき、金メダルと時計を陽太に返した。
「優勝おめでとう。義兄が迎えに来てるから、もう行くね」
会場がざわつく。
義兄?結婚してるの?
じゃあ、陽太は堂々と……まさか不倫?
その瞬間、あきらの顔の赤みが消え、陽太を見る目にうんざりした色が加わった。
同時に、京都大学のキャンパス掲示板には「衝撃!学園のアイドルが人妻に手を出す」というスレッドが大人気となった。
現場写真にも分厚いモザイクがかけられ、SNSで拡散され、あっという間に数千回もリツイートされた。
森川グループ。
悠介のオフィスでは、翔太がゆったりとお茶を飲んでいた。
森川グループは今、EV事業を全面展開しており、ヨーロッパで有名な空力設計の華人エンジニア「モリア」を高給で招く準備を進めているほか、人気急上昇中の俳優・黒沢に広告塔を依頼しようとしていた。
「モリア?聞いたことあるよ。天才機械系の中国人女性で、かなり謎めいてるよね」と翔太。
悠介はうなずいた。「彼女、帰国の意向があるらしくて、国内の自動車メーカーがみんな狙ってる。うちも人を出して探らせてるよ」
二人はさらに話を続けた。
その時、翔太のスマホが鳴った。画面を見て、柔らかい笑みを浮かべる。
「同じ市内のトレンドで、『京都大学のアイドルが人妻狙い、証拠写真あり』っていうのが上がってる」
「面白いな。前の京都大学アイドルって、悠介さんだったよね。今は誰だっけ?たしか小野家の……」
悠介:「陽太か」
「そう。で、この写真の人妻、どう見ても悠介さんの藤原結衣にそっくりじゃない?」
悠介は画面を見た。
写真の人物は全員モザイクがかけられていたが、「人妻」は確かに結衣によく似ていた。
陽太が結衣を追いかけている?
そんな馬鹿な考えがよぎり、悠介はすぐに首を振って笑った。
あり得ない。結衣は八年も自分を想い続けてきたのだ。他に心移りするはずがない。
それに、陽太だって、七歳も年上の女性に惹かれるわけがない。
悠介は微笑み、気にも留めず、ドイツにいる情報提供者に連絡して、噂の「天才機械系女性」モリアの情報を探し始めた。