話は二手に分かれる。
京都大学のプールサイドで、結衣は「お先に失礼します」とだけ言い残し、そのまま立ち去った。
陽太はその場に立ち尽くしていた。
周囲からは「不倫相手」「恥知らず」といった声がひっきりなしに飛び交い、その言葉がまるで網のように彼を包み込んだ。
もともと他人の目を気にするタイプではなかったが、結衣の遠ざかる背中を見つめるその顔は、端正な顔立ちのまま緊張し、複雑な感情が読み取れた。
鹿のような大きな目には、驚き、苛立ち、悔しさ、そして自分でも気づかない失望の色が隠れていた。
自分の若くて鍛え抜かれた体が目の前にあるのに、結衣は一瞥もくれなかったのか?
身体で彼女を誘惑する覚悟を決めていた陽太にとって、それは大きなショックだった。
これまで、愛に飢えた結衣が抑えきれず、飢えた狼のように飛びついてくるのではと心の準備までしていた。
理恵の恋のため、彼女と悠介のために、理恵が愛する人を責められないように、自分を犠牲にしてでも結衣を誘惑しようとした。
結衣が先に離婚を切り出してくれれば、それでよかった。
今日、結衣を試合に招待したのも、本当はその後アパートに連れて帰るつもりだったのに――
計画は実現せず、普通なら愛していない相手に身を捧げずに済んで喜ぶべきだろうが、胸の奥が妙に苦しかった。
心のどこかがぽっかり空いたようで、どうしても埋まらない。その感覚はよく知っている。子供の頃、両親と遊園地に行く約束を反故にされた時と、まったく同じだった。
その瞬間、陽太はハッと気付いた――これは失望だ。
でも、何に対して失望しているのか?
もしかしたら健一との賭けかもしれない。もし計画がうまくいけば、翔太のスポーツカーを手に入れる約束だった。
だが、それだけではないと感じた。
頭の中が混乱し、周囲の視線など気にも留めていなかった。
そんな陽太を、気まずくなった水泳部の仲間が引っ張って更衣室へ連れて行った。
道中、陽太は陰鬱な顔で、濡れた髪の先から水滴を垂らし、まるで影のような雰囲気に仲間もたじろいでいた。
「陽太さん、さっきの女性って藤原家の人?藤原結衣って名前じゃない?」
「知ってるの?」
「やっぱりそうか!陽太さん、他の人を狙った方がいいよ。どうしても人妻が好きなら、方法考えてあげるけど」
「うるさい!」
「ごめんごめん、悪気はなかった!ただ言いたかっただけだよ。結衣は悠介さんが好きなんだ。昔、カラオケで告白してる動画、今もネットに残ってるんだよ」
陽太は眉をひそめた。「どんな動画だ?」
仲間はスマホを取り出し、「俺のクラウドにあるから送るよ。悠介さんも酷いよな、告白されてるのに突き飛ばして、出て行けって……」
「それ、いつの話?」
「確か、大学受験終わった直後かな。兄貴が悠介さんと同じクラスで、仲のいい連中でカラオケ行ってたら、結衣が突然入ってきたんだ」
「それで、告白の時はスケッチブックを持ってて、中身は全部悠介さんの絵。悠介さんは結衣のこと全然知らなくて、びっくりしてたよ」
「結衣はその時お酒も入ってて、結構大騒ぎになった。動画もすぐ広まったし」
「……」
「でもその後、結衣は全然しつこくしなかったし、留学したって聞いた」
「まさか最終的に森川家に嫁ぐとはね、念願叶ったってわけだ!」
「だからさ、陽太さん、本当に他の人にした方がいいよ。結衣は悠介さんのこと、八年以上も好きだったんだから!いや、もっとかも!」
「やばっ、動画グループに送っちゃった……」
陽太は騒がしい会話を聞き流しながら、スマホの画面をじっと見つめていた。
動画は暗いが、八年前の結衣の姿がはっきり映っている。
それは彼が見たことのない結衣だった。白いワンピースに黒髪を肩に垂らし、まだ幼さの残るふっくらした顔立ちで、素直で可愛らしい印象だった。
八年前に会ったこともないはずなのに、なぜかとても懐かしく感じた。
……
この動画は誤って200人のグループに送信され、悠介と翔太も目にした。
翔太は笑いながら、「また誰かこの動画を引っ張り出したんだな。結衣が自分が撮ったと知ったら、殺されそうだな」
「直接会って謝らないと。寛大な心で許してくれるといいけど」
「でも、やっぱり感心するよ。八年も一途に努力して、ついに君と結婚したんだもんな」
翔太は優しく微笑み、まるでファンの理想像のようだった。
悠介は何も言わず、動画の中で結衣を突き飛ばす自分の姿をじっと見つめ、眉間に深いしわを寄せていた。
あの時、自分はこんなにも乱暴だったのか――
悠介はこめかみを揉みながら、これ以上誰にも見せたくなくて、すぐにグループ管理者に動画の削除を依頼した。
翔太は妙な顔で、「どうした?気にしてるのか?まさか結衣のこと、本気で好きになったのか?」
「そんなわけない!」悠介は即座に否定した。「彼女にまとわりつかれるなんてごめんだ。おじいちゃんのためじゃなければ、とっくに離婚してるさ」
ただ――
八年も自分を思い続けてくれたことを思えば、これからは少し優しくしてやろうと思った。
結婚したばかりの頃、結衣に「ウェディングフォトを撮りたい?」と聞かれた時も、「いらない、そんなこと考えるな」と冷たく言い放った。
今になって思えば、一生に一度の結婚なのだから、彼女の願いを叶えてやってもいいかもしれない。
そう考えて、悠介はアシスタントを呼んだ。「佐藤明、綺麗なウェディングドレスを何着か選んで、PDFにまとめて午後に彼女に送ってくれ。サイズも合わせて。あと、俺からとは言わなくていい」
翔太は不思議そうな顔をした。急にウェディングドレスだなんて、しかも「彼女」って誰のことだ?
何も言わずにいると、アシスタントは「わかりました」と得意げな顔で、「森川社長、ご安心ください。最高に素敵なドレスを選びます」と答えた。
ドアが閉まると、佐藤明は鼻歌を歌いながら、欧米の有名ブランドと国内の新進デザイナーのドレスを20着厳選して、理恵に送った。
「佐藤さん、何かいいことあったんですか?」と誰かが尋ねた。
佐藤明は得意げに笑い、「そのうちわかりますよ」と答えた。
前は万年筆、今度はウェディングドレス。森川家の若旦那はついに離婚して、本当の愛を手に入れるのかもしれない。その時は自分も新しい奥様の側近として重宝されるだろう、と想像してにんまりした。
一方、結衣は京都大学を出た後、健一からメッセージを受け取った。先日話していた廃車の修理の件で、見積もりは2億円。
結衣はお金にこだわらない性格なので、指定された場所のディーラーに向かった。
店内には健一しかいなかった。ソファにだらしなく座り、黒と赤のストリートブランドのパーカーを着て、手には煙草を持ち、気だるい雰囲気だ。
足元では三毛猫がキャットフードを食べている。
「来たのか?」健一は結衣を見上げ、口元に不敵な笑みを浮かべてスマホを振った。「グループに面白い動画が流れてきたけど、見るか?」