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第32話 思いがけない訪問

夕陽の最後の光が夜に飲み込まれ、街中に灯りがともり始めた。


結衣は陽太のマンションにやってきて、インターホンを鳴らした。


部屋の中では、陽太が鏡の前に立ち、氷風呂に一時間以上浸かって青白くなった自分の顔を見つめていた。手のひらをぎゅっと握りしめて気合いを入れる。「理恵のためなら、僕はできる。」


理恵を幸せにして、大好きな人と一緒にいられるなら、結衣を誘惑することだって構わない。今夜、もし結衣を落とせれば、彼女に悠介との離婚を迫ることができる。


もちろん、責任は取るつもりだ。最悪、結衣と結婚してもいい。両親は昔から自分に甘く、誰を選ぼうと口出しはしない。この点だけでも悠介よりずっと恵まれている。


森川家では、父親以外は誰も結衣を好いていない。特に悠介の両親は結衣の出自を気に入らず、結婚式さえ延期したままだ。


でも、結衣が自分と結婚すれば、盛大な結婚式を挙げてやれるし、有名なデザイナーにドレスをオーダーし、オーロラの下で誓いを立てることもできる。そう思うと、なぜか心が躍った。


「コンコン」――ノックの音がして、結衣がやってきた。


ドアを開けると、病弱そうな陽太の姿があった。ブランケットを羽織り、目は赤く、どこか儚げな雰囲気を漂わせている。「お姉さん、来てくれないかと思ってた……」


その弱々しい様子に、結衣はため息をついた。「午前中は元気だったのに、どうしてこんなに具合が悪くなったの?」


「薬、持ってきたわ。」そう言って風邪薬を差し出す。「これは一日三回、二錠ずつ。もう遅いから、私は帰るわね。」


「行かないで。」陽太が結衣の手を掴み、ドアを閉めた。肩のブランケットが滑り落ちて、タイトな白いタンクトップ姿が露わになる。まっすぐな肩やしっかりした腕、わずかに見える胸筋が、かえって色気を感じさせた。


彼は甘えるように言う。「お姉さんの作ったお粥が食べたい。」


結衣は戸惑った表情を見せた。「まだ仕事が残ってるの。陽太が払ったのは薬を届けるための手数料だけ。他のサービスは別料金よ。」


「じゃあ、お姉さんの時間をお金で買うよ。いい?」少年は潤んだ眼差しで、さらに二百万円をその場で結衣に振り込んだ。


結衣はため息をついた。「そんなことしなくてもいいのよ。病人は優先的に看病されるべきだし。」もっとも、口ではそう言っても、お金はしっかり受け取るつもりだ。


結衣は手を洗い、キッチンへ。「冷蔵庫にクルマエビがあったけど、雑炊でいい?」


「うん、お姉さんの作るものならなんでも好きだよ。」陽太はソファに座り、半オープンタイプのキッチンカウンターでエビの下処理をする結衣を見つめながら、毛布をしっかり巻き付けた。この瞬間が永遠に続けばいいのに、とさえ思った。


彼はこの温かな光景を写真に収め、健一に自慢しようとしたが、送る寸前でやめた。写真の中の結衣の優しい表情を健一に見せたくない、そんな不思議な気持ちが胸に広がった。


あまりにも静かな部屋。陽太はふとした衝動で結衣のそばに歩み寄った。


結衣は自分より七歳年上なのに、時の流れにほとんど影響されていない。うつむいて食材を切る時、頬に落ちる髪、控えめな唇は、まるで富士山に咲く桜のようだった。


これまで結衣に特別な感情を抱くことはないと思っていたが、この瞬間、彼の目に映るのは彼女の顔だけ。不思議な浮遊感に包まれた。


結衣は陽太の異変に気づき、一歩後ろへ下がると冷静に言った。「陽太、私は夫がいるの。」


陽太は呆然とした。


結衣は続ける。「私は彼が大好き。もう何年もずっと。あなたの世話をしているのは、以前車でぶつかったことと、お金を気前よく払ってくれるからよ。」


陽太の心は一気に凍りついた。気前がいいから?結衣が自分を看病するのは、少しくらい好意があるからだと思っていた。若くて見た目も悪くないのだから、まったく心が動かないはずがない、と。


たとえ「弟みたい」と言われても、それは曖昧な言い訳でしかないと信じていた。まるで男が「妹」と言う時のように。


これまで結衣の素っ気なさも、駆け引きの一種だと思っていた。だが、今日、彼女が八年前に悠介に告白した映像を見て、心から好きな人にはどれだけ情熱的になれるかを初めて知った。


陽太の声が震える。顔はひどく青ざめていた。五分前まで家に温もりがあったことに満足していたのに、今では夢から覚めたような孤独が彼を飲み込んだ。


幼い頃から孤独には慣れていたはずだった。でも、さっきの一瞬の温かさは中毒のようで、もう冷たい世界には戻れない。


「じゃあ、僕に会いにきたのは、お金のためだけ?そんなはずない。結衣が金に困ってるわけがない!」


結衣はため息をつく。「今は病気なんだから、感情が不安定なのよ。薬を飲んで部屋で休んでて。お粥ができたら呼ぶから。」その声は海のように穏やかで、すべてを包み込む優しさがあった。


陽太はなだめられ、薬を飲んで、薬の副作用でぼんやりしたまま素直に自室へ戻った。結衣は何事もなかったように、静かに「二百万円の価値がある」雑炊を煮続けた。


……


花壇の裏手では、スマホのカメラが一部始終を記録していた。何十キロも離れた場所で、翔太は眉をひそめる。陽太のアプローチにも動じない結衣に驚きを隠せなかった。彼女は本当に悠介のことが好きなのか。八年も想い続け、まだ諦めていないなんて。


翔太は真実の愛など信じていなかった。両親は表面上仲が良さそうに見えても、実際はそれぞれ好き勝手にしている。そんな家庭環境ゆえに、悠介への言葉にしがたい嫉妬を覚えた。画面越しに冷静な結衣を見つめ、ひとつの考えが頭に浮かぶ――自分が直接結衣に会いに行こう。


時は流れ、結衣は部屋にカメラが仕掛けられていることを知っていた。お粥を煮る合間に、ほうきを手に部屋を掃除しながら、カメラが隠れていそうな場所をさりげなく探る。


その時、玄関の外から暗証番号を入力する音が聞こえてきた。結衣は動きを止め、ドアの覗き穴を見る。そこには理恵、悠介、そして怒りの表情を浮かべた健一が立っていた。

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