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2-3 秘密の共有者

 重厚な木製の扉を押し開いた瞬間、かすかに軋む音とともに、鼻腔をくすぐる芳醇な木材とスパイスの香りが翔太を迎えた。

 レストランの入り口は、磨き上げられた真鍮の取っ手が鈍く光り、柔らかな間接照明が放つ暖かな光で彩られている。


 足を踏み入れると、艶やかな大理石の床に靴音が小さく響き、都会の喧騒から切り離された落ち着いた雰囲気が彼を包んだ。

 スーツの襟を軽く整えながら、少し緊張している自分に気付き、内心で苦笑した。

 ここのところ、作業着かカジュアルな服ばかりの田舎暮らしだったので、どこか場違いな気分がした。


「予約していた高橋です」


 ウェイターに告げると、背筋を伸ばした若い男性が丁寧に一礼し、「こちらへどうぞ」と奥の個室へと案内してくれた。

 通路の壁には落ち着いた色調の風景画が飾られ、遠くから聞こえるピアノの音色――ショパンのノクターンだろうか――が静かに空間を満たしていた。

 絨毯が敷かれた床が足音を吸収し、歩くたびに微かな沈み込みが感じられた。

 個室の扉に近づくと、ウェイターが静かにそれを引き開け、翔太を中に通した。


 個室に入ると、まず目に飛び込んできたのは、天井から吊り下げられたシャンデリアの柔らかな光だった。

 無数のクリスタルが放つ輝きが、白いリネンのテーブルクロスに繊細な影を落とし、置かれたワイングラスの縁を虹色に染め上げている。

 部屋の空気はひんやりとしていて、かすかにローズマリーと焦がしバターの香りが漂い、食欲をそそった。

 壁は深い緑の布張りで、窓の外には夜の街の灯りがぼんやりと滲み、ガラスに映るシャンデリアの光と重なって幻想的な模様を描いている。


 そして部屋の奥、テーブルの向こう側に座る一人の女性が、翔太の視線を捉えた。



 南川涼子だ。



 彼女はテーブルに片肘をつき、長い指でワイングラスを軽く傾けながら、こちらを見つめていた。

 その瞳には懐かしさと好奇心が混じり合い、口元には柔らかな微笑みが浮かんでいる。

 ショートカットの黒髪が耳元で軽やかに揺れ、研究所で見慣れた白衣姿ではなく、鮮やかな紺色のワンピースを着ていた。

 その生地は光沢を帯び、肩から膝まで流れるようなラインが彼女のスレンダーな体型を際立たせている。

 襟元には小さなシルバーのブローチが輝き、控えめながらも彼女の洗練されたセンスを物語っていた。


「久しぶりですね、翔太先輩」


 涼子の声は、透明感と軽やかな響きを保っていて、研究所で彼女がデータを読み上げる時の口調を思い出させた。

 知的で快活な雰囲気は相変わらずだ。

 翔太はジャケットを脱いで椅子の背にかけ、彼女の向かいの席に腰を下ろした。

 椅子のクッションがふわりと沈み、背もたれの滑らかな革の感触が背中に心地よく、少し緊張が和らいだ。


「こんな素敵なレストランにするなんて、もしかして先輩、宝くじでも当てました?」


 涼子はメニューを片手に持ち、もう一方の手で顎を軽く支えながら、いたずらっぽい笑みを浮かべた。

 翔太は苦笑しながら答えた。


「まさか。そしたら今頃、豪邸のテラスでワイン片手にダンスでも踊ってるさ」


「ふぅん?」


 涼子は顎に手を当て、目を細めてからかうような視線を送ってくる。

 その視線は鋭くもあり、どこか楽しげで、翔太を少し気恥ずかしくさせた。


「じゃあ、先輩、もしかして私に気があるってことですか?」


 思わず翔太は苦笑し、メニューを手に取って顔を隠すように広げた。


「そういうんじゃないよ。電話で話した通り、個人的なプロジェクトを手伝って欲しいだけさ」


 メニューの隙間から涼子の様子を伺う。

 彼女はグラスを手に持ったまま、じっとこちらを見つめている。

 その視線に、翔太の心は落ち着かない波のようにざわついた。


 ──これから話すことを、涼子は信じてくれるだろうか? その疑問が頭を離れず、指先がメニューを握る力が少し強まった。


 食事が運ばれてくるまでの間、二人は軽い雑談を交わした。

 涼子は最近の仕事の愚痴――近藤課長がやらかしていたことが次々と社内に知られ、追い詰められている話――や、共通の知人の近況を織り交ぜながら、時折笑い声を上げた。

 翔太もそれに応じ、研究所の懐かしい空気が少しずつ戻ってくるのを感じた。

 しかし、頭の片隅では、アーベルのことが常に引っかかっていた。

 前菜のスープと焼き立てのパンがテーブルに並べられ、溶けたバターの香りが立ち上る頃合いを見計らい、彼は姿勢を正し、真剣な表情で口を開いた。


「なあ、涼子」


「なんですか?」


 彼女はスプーンを置いて顔を上げ、不思議そうに翔太を見た。

 スープの表面に浮かぶハーブが揺れ、湯気が彼女の頬に微かに触れている。


「もし、秘密を守れるって言ったら……どこまで守れる?」


 その瞬間、涼子の表情が僅かに引き締まった。

 眉が微かに上がり、今までの冗談めいた態度が消え、代わりに真剣な眼差しが翔太に向けられた。

 彼女の瞳は深い湖のようで、そこに映るシャンデリアの光が一瞬揺れた。

 研究所で難解な実験データに直面した時の、彼女のあの集中した表情が蘇る。


「……何か、ヤバい話ですか?」


「ヤバいっていうか……とんでもない話だよ」


 翔太は一度深く息を吸い込み、胸の内で渦巻く緊張を押し込めた。

 テーブルの下で膝の上で握った拳を緩め、意を決して言葉を続けた。


「俺、最近……とんでもないものを拾ったんだ」


 それから彼は、アーベルのことを打ち明けた。

 祖父の家の裏山、人工洞窟に眠っていた異なる文明の宇宙船のコア。

 岩の隙間から漏れる微かな青い光に導かれ、土砂をかき分けて見つけたこと。

 触れた瞬間に目覚め、スマホにアクセスしてきたそのコアが、電子音のような声で語りかけてきたこと。

 今では協力関係にあり、銀河連盟へコンタクトを取るために通信機を作ろうとしていること。


 言葉を紡ぐたびに、自分の話がどれだけ現実離れしているかを実感し、声が少し震えた。

 涼子の反応を恐る恐る見ながら、一通り説明を終えると、彼は緊張で乾いた喉を潤すために水を一口飲んだ。


 グラスの冷たさが掌に染み、気持ちを少し落ち着かせてくれた。


 涼子は驚きを隠しきれず、時折目を丸くしながらも、黙って話を聞いていた。

 彼女の手はテーブルの上で静止し、スープに浮かぶハーブの葉が冷めて揺れるのを眺めているようだった。

 時折、眉を寄せたり、唇を軽く噛んだりする仕草が見えたが、最後まで口を挟まずに耳を傾けてくれた。

 そして、翔太がグラスを置くと、彼女はゆっくりと口を開いた。


「……ちょっと待ってください」


 指を組んでテーブルに置き、じっと翔太を見つめた。

 その視線は鋭く、翔太は自身の心臓が一瞬早く鼓動するのを感じた。


「つまり、翔太先輩は、宇宙から来た知的機械と接触して、協力してるってこと?」


「ああ、そういうことになる」


 涼子は数秒間考え込んだあと、小さくため息をついた。

 肩が軽く下がり、テーブルに置かれたナプキンを無意識に指でなぞる仕草が、彼女の思考を整理している様子を表していた。


「正直、信じられない話ですけど……」


 そして、彼女はふっと微笑んだ。

 その笑顔は柔らかく、どこか安心させるような暖かさがあった。


「でも、翔太先輩がここまで真剣な顔してるんだから、嘘じゃないんでしょ?」


 その言葉に、翔太は驚いたように目を瞬かせた。


「信じるのか?」


「まあね。先輩が冗談でこんな話をするタイプじゃないってことくらい、知ってますから」


 涼子はワイングラスを持ち上げ、くるくると中の深紅の液体を回した。

 グラスの表面に映るシャンデリアの光が、彼女の指先に小さな星のように踊っている。

 その自然体な態度に、翔太の胸にあった重しが少し軽くなった。


「それで、なんで廃材が必要なんです? その通信機の材料?」


 翔太は首を振って答えた。


「まずはナノマシンを作るために、貴金属が必要なんだ。職場で合金の廃材が余ってるなら、それを使いたい。それを……こっそり譲ってもらえないか?」


 しばしの沈黙。涼子は目を細め、じっと考え込んでいたが、やがて苦笑しながら肩をすくめた。


「そういうことなら……なんとかしてみますよ」


 話を聞くと、元上司の近藤がまたやらかして、客先からまとめて返品された特殊合金の混じった電子部品が数十ロット単位で倉庫に眠っているらしい。

 損失額は1000万円を超えるとかで、会社では頭を抱えているそうだ。

 涼子は笑いものにするようにその話を語り、翔太もつられて苦笑した。


「本当にいいのか?」


 翔太は念を押した。


「どうせ廃棄予定のものなんです。全部じゃなくて一部なら、『研究用』ってことで誤魔化しも効きます。誰も困らないですし」


 涼子はウインクしながら、ナプキンを丁寧に畳んだ。


「ただし、条件があります」


「条件?」


「今度、私もそのアーベルに会わせてください。直接話を聞いてみたい」


 翔太は一瞬驚いたが、すぐに頷いた。


「それくらいなら問題ない」


 涼子は満足げに微笑み、さらに言葉を続けた。


「あと……もし何かあれば、いつでも相談に乗りますし、協力しますからね」


「涼子……」


「だって、面白そうでしょ?」


 彼女はいたずらっぽく微笑み、ワイングラスを掲げた。

 ワインが光に透けて、ルビーのように輝いている。


「じゃあ、協力の証に、乾杯しますか!」


「……ああ」


 翔太もグラスを手に取り、軽くぶつけた。

 カチンという澄んだ音が響き、シャンデリアの光がグラスに反射してキラリと輝いた。

 涼子の笑顔を見ながら、翔太は胸の奥に温かいものが広がるのを感じた。


 予想以上に心強い味方ができたことに、少しだけ安堵しながら、彼はワインを一口飲んだ。

 窓の外の夜景が静かに瞬き、二人の間に新たな秘密が生まれた。

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