それから二ヶ月後。
翔太の家のダイニングは、いつもの静けさに加え、どこか緊張感が漂っていた。
窓の外では秋の風が木々を揺らし、枯れ葉がカサカサと地面を転がる音が微かに響く。
テーブルの上には、苦労して集めた貴金属が積み上げられていた。
涼子から送られた電子部品のスクラップ、アーベルの情報で安く手に入れたロジウムやイリジウムの含まれたインゴット、そして翔太が貯金を切り崩して購入した金の延べ棒。
量は決して多くはないが、アーベルの提示した必要最低限の材料は揃った。
これ以上の出費は今の翔太には厳しかった。
翔太は鈍く光る貴金属の山を眺めながら、胸に達成感と不安が混じるのを感じた。
「これで足りるよな?」
翔太が尋ねると、部屋の奥に鎮座するアーベルのコアが応えた。
コアはテーブルの端に置かれた木製の台の上にあり、淡い青白い光がその表面で脈打っている。
光が一瞬強まり、スマホの画面に文字が浮かんだ。
『問題ありません。処理を開始します』
次の瞬間――コアの表面がゆらりと波打ち、まるで生きているかのように流動を始めた。
金属の硬質な質感が一変し、液体のように柔らかくうねるその動きに、翔太は目を奪われた。
コアの一部が溶けるように変形し、銀色の触手となって貴金属へと伸びていく。
触手は細くしなやかで、まるで意思を持った生き物のようにテーブルの上を滑った。
貴金属に触れた途端、それらは熱せられた水銀のように溶け出し、静かに波紋を描きながらコアへと吸収されていく。
金のインゴットが溶け、ロジウムの塊が液状に変わり、電子部品の基板が粒子となって分解される様子は、まるで魔法を見ているようだった。
貴金属の分子構造が崩れ、再構築されていく――。
翔太は思わず息をのんだ。
部屋の中に微かな金属臭が漂い、コアの周囲で空気がかすかに震えているのが感じられた。
次第にコアの上部から霧のようなものが噴き出し、それが渦を巻きながら漂い始めた。
いや、ただの霧ではない。微細な粒子――ナノマシンだ。
粒子は光を反射し、淡い銀色の輝きを放ちながらコアの周囲を回転し始めた。
まるで土星の輪のように、コアを中心に円を描き、その動きは徐々に速度を増していく。
ナノマシンの群れは、まるで生き物のように統制され、コアの周りを巡る軌道が整然と整う。
光の帯が部屋の薄暗い天井に映り、幻想的な模様を描いた。
その速度が頂点に達すると、突然、中心へと収束し始めた。
ナノマシンが密集し、互いに結合しながら形を変えていく。
四肢が生まれ、細長い尾が形成され、柔らかな曲線が描かれていく。
翔太は目を離せず、そのプロセスを食い入るように見つめた。
――そして、ついにそれは完成した。
黒く光沢を帯びた黒猫の姿をした生命体が、そこにいた。
漆黒のボディは滑らかで、まるで液体金属が固まったような質感を持ち、光を吸い込むような深みがあった。
瞳はエメラルドのような青緑色で、暗闇の中で鋭く輝いている。
見た目は普通の猫と遜色ないが、毛並みは金属的光沢を帯びており、どこか人工物特有の無機質な美しさが漂っている。
尻尾の先が微かに揺れ、その動きは自然で滑らかだった。
その猫――アーベルが、すっと前足を動かし、優雅な動作でテーブルの上に座り込んだ。
尻尾を軽く巻き、翔太をじっと見つめる。
そして、口が開いた。
「ありがとうございます、翔太。物理ボディを持つことで、より効率的な作業が可能になります」
喋った。
間違いなく、猫が喋った。
声は電子音のような響きを帯びつつも、どこか柔らかく、文面から感じていたアーベルのトーンそのものだった。
翔太は一瞬呆然とし、口が半開きのまま固まった。
目の前の光景が現実とは思えず、頭の中で「猫が喋る」という事実を処理するのに時間がかかった。
「……なんで黒猫?」
戸惑いながらも、ようやく絞り出した率直な疑問に、アーベルは即座に答えた。
「大きさと機動性、加えてこの形態が最も違和感なく日常に溶け込めると判断した結果、この形が最適でした」
理路整然とした答えが返ってくる。
黒猫は首を軽く傾け、エメラルドの瞳で翔太を見上げた。
確かに、大きなロボットや不気味な機械生命体の姿で現れるよりは、猫のほうが遥かに自然だ。
家の中に置いても不自然ではなく、裏山を歩いていてもやたらと艶やかな野良猫と間違われる程度だろう。
翔太は肩をすくめ、口の端をわずかに上げた。
「まぁ、悪くないか」
その言葉を聞くや否や、黒猫の姿をしたアーベルは、唐突に「にゃあ」と鳴いた。
声は少し高く、まるで本物の猫が甘えるような響きだった。
「…………」
翔太は思わず沈黙した。
目の前の黒猫が、アーベルの無機質な知性と猫らしい仕草を同時に見せたことに、頭が混乱した。
「おい……今の、何だ?」
「猫ですので、猫らしく振る舞うのも適応行動の一環です」
アーベルは平然と答え、前足を軽く舐める仕草を見せた。
その動作はあまりにも自然で、金属的なボディとは裏腹に、本物の猫のような愛らしさすら感じさせた。
だが、翔太はそのギャップに耐えきれず、眉をひそめた。
「いや、完全にふざけてるだろ、お前」
黒猫――アーベルは、翔太の視線をまっすぐ受け止めながら、再び「にゃあ」と鳴いた。
今度は少し長めに尾を振って、まるで彼をからかうように首をかしげた。
金属のボディが光を反射し、畳の上に小さな影を落とす。
翔太は溜息をつきながらも、口元に苦笑が浮かんだ。
「……ったく、新しい生活が、また一歩、妙な方向に進み始めた気がするな」
部屋の中、アーベルの黒猫姿がテーブルの上でくつろぎ、淡い秋の日差しが窓から差し込む。
ナノマシンの生成という大仕事を終えた達成感と、これからもアーベルに振り回される日常が始まった予感が、翔太の胸に交錯していた。
彼は椅子に凭れ、アーベルを見つめた。
これからの未知の展開に少しだけワクワクしている自分に気付いた。