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2-7 崖っぷちの宇宙開発企業

 和歌山県の沿岸部に位置するサキシマ重工の本社兼開発拠点。

 翔太は電車を降り、潮風が頬を撫でる港近くの道を歩いてその敷地に辿り着いた。


 目の前に広がるのは、錆びた鉄骨とコンクリートでできた巨大な組立施設と、遠くに見える発射試験場だ。

 施設の外壁には風雨に晒された跡が残り、かつての活気を感じさせる一方で、今はどこか寂れた雰囲気が漂っている。

 敷地内には、墜落し回収されたロケットの部品らしき金属塊が無造作に積まれ、雑草がその隙間から顔を覗かせていた。

 海からの風が鉄骨を鳴らし、低い唸り声のような音が響き渡る。


 かつて、日本の町工場の技術者たちが集まり、一つの夢を抱いて設立した民間宇宙企業。

 独自の技術で宇宙へ到達するという壮大な目標を掲げ、彼らは過去二度の打ち上げに挑んだ。


 しかし、二度とも失敗。


 一度目はエンジンの出力不足で軌道に乗れず、二度目は燃料系統の不具合で爆発事故を起こした。

 その結果、資金繰りは厳しくなり、スポンサーが次々と離れ、事業の存続すら危ぶまれている現状が、目の前の光景に重なって見えた。


「……まさに、崖っぷちってやつか」


 翔太は門の前で立ち止まり、小さく息を吐いた。

 潮の香りが混じる風がコートをはためかせ、手に持ったスマートフォンが冷たく感じられた。

 画面には、黒猫姿のアーベルが映し出されている。

 エメラルドの瞳が鋭く輝き、まるでこちらを見透かすようだ。


『翔太さん、準備はできていますか?』


 アーベルの声がスピーカーから静かに響く。

 翔太はスマホを握り直し、門の向こうを見据えた。


「ああ。だけど、相手が話を聞いてくれるかどうかは別問題だな」


『それはあなたの交渉次第です。ただ私の得ている情報から考えるに勝算はあります』


「……そう都合よくいくもんかね」


 独り言のように呟きながら、翔太は苦笑を浮かべ、意を決して受付へと向かった。

 門の横に立つ小さなプレハブ小屋で、受付票に名前を記入し、訪問目的を「技術提案」と書いた。

 潮風に髪が乱れるのを感じながら、彼の胸には期待と不安が交錯していた。



---



「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」


 受付の女性に案内され、翔太は本社棟の応接室へと通された。

 建物の中は外観とは対照的に清潔で、壁には宇宙船の設計図や打ち上げ時の写真が飾られている。

 しかし、フレームの端には埃が溜まり、過去の栄光が遠く感じられた。

 応接室のドアが開くと、室内には古びた革張りのソファと、木製のテーブルが置かれていた。

 窓からは組立施設のシルエットが見え、遠くで波の音が微かに聞こえる。


 そして、ソファに腰掛けていた一人の男が、ゆっくりと立ち上がった。


 崎島健吾。


 サキシマ重工の代表取締役でありながら、自ら設計主任も務める技術者だ。

 50代半ばの精悍な顔立ちに、短く刈り込まれた白髪交じりの頭髪が印象的だった。

 カッターシャツの上に羽織った作業着は袖口が擦り切れ、長年の現場仕事の痕跡を残している。

 彼の目は鋭く、しかしその下には深い疲労の影が刻まれていた。

 額の皺と、口元の固さが、彼が背負う重圧を物語っている。


「……君が、高橋翔太君か?」


 低く落ち着いた声が部屋に響き、翔太は軽く会釈して答えた。


「はい。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」


 崎島の視線を受け止めながら、正面のソファに腰を下ろした。

 革が軋む音が小さく響き、テーブルに置かれた水の入ったグラスが微かに揺れた。


「正直な話な……」


 崎島は腕を組み、ソファに凭れ直すと、じっと翔太を見据えた。


「君の話を聞くべきかどうか、今でも迷っている」


「……それは、どういう意味でしょう?」


 翔太は慎重に尋ねた。

 崎島の声には、諦めと苛立ちが混じっているように聞こえた。

 崎島は苦い笑みを浮かべ、机に置かれた書類を指で弾いた。

 分厚いファイルには「第三次打ち上げ計画」と書かれ、角が折れ曲がっている。


「ウチはもう後がないんだ」


 その言葉に重みがこもり、部屋の空気が一瞬張り詰めた。


「二度の打ち上げ失敗で、スポンサーはほとんど逃げた。資金は尽きかけてるし、六ヶ月後の三度目が最後のチャンスになるだろう。だが……」


 そこで言葉を切り、深く息を吐いた。

 吐息にはタバコの匂いが混じり、彼の手元には灰皿に押し潰された吸い殻がいくつも転がっていた。


「肝心のエンジンがない」


 翔太は黙って続きを待った。

 崎島の声が再び響く。


「過去の失敗から、新しいエンジンを設計しようとしたが……技術的な課題が多すぎる。パルスジェットの安定性、燃料効率、軌道投入時の推力不足。このままでは、ロケット事業から撤退するしかない」


 沈黙が流れた。

 窓の外でカモメが鳴き、波の音が遠くに響く。崎島は天井を仰ぎ、苦々しく呟いた。


「……正直なところ、君の話がどれほどのものかは分からん。だが、嘘でもいい、希望が欲しい。そうでもしないと、この会社はもう終わりだ」


 その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせるようでもあった。

 翔太は崎島の疲れ切った表情を見ながら、そっとスマートフォンを取り出し、画面を見た。

 黒猫のアーベルが映り、エメラルドの瞳が鋭く光る。

 スマホの画面に文字が浮かび上がる。


『翔太さん、交渉の時間です』


 翔太は深く息を吸い込み、胸の内で渦巻く緊張を押し込めた。

 彼は姿勢を正して口を開いた。


「崎島社長……私には、あなたの問題を解決する技術的な提案があります。」


 崎島の視線が一瞬で翔太を射抜いた。

 疲労に曇っていた目が、鋭さを取り戻す。


「……聞こうじゃないか。その“提案”とやらを」


 その言葉に、部屋の空気が再び動き始めた。

 翔太の手の中でスマホが軽く震え、アーベルのサポートが背中を押す。

 こうして、サキシマ重工の運命を変える交渉が始まった。


 潮風が窓を叩き、遠くの発射試験場に夕陽が沈む中、二人の間に新たな可能性が芽生えようとしていた。

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