目次
ブックマーク
応援する
2
コメント
シェア
通報

2-8 技術者の天秤

 静かな応接室に、時計の秒針の音だけが響く。

 窓の外では、夕陽が海面に反射し、オレンジ色の光がカーテンの隙間から細く差し込んでいた。

 壁に飾られたロケットの写真が薄暗い部屋の中でかすかに浮かび、過去の夢と現在の苦境を静かに物語っている。


 テーブルの上には、冷めた緑茶の入った湯呑みが二つ、無言のまま置かれていた。


 翔太の言葉を聞いた崎島は、腕を組みながら目を細めた。

 ソファの革が彼の動きに合わせて軋み、低い音が部屋に響く。


「……なるほどな。要するに、君たちが用意するエンジンをウチのロケットに載せて打ち上げて欲しいってことか」


「はい。それと、載せるペイロードについてはこちらから指定させて頂きます」


 崎島の眉が僅かに動いた。


「ペイロードの内容は?」


「……それはお伝えできません。試験的な小惑星探査機と思って頂ければ。勿論、安全性には問題ありません」


 その言葉を聞くと、崎島はテーブルを軽く指で叩いた。

 カツンという乾いた音が響く。


「……悪いが、それは無理だ」


 はっきりとした拒絶の言葉が、部屋の空気を切り裂いた。

 崎島は背もたれに凭れ直し、翔太をじっと見据えた。

 その目は疲れていながらも、鋭い光を宿している。


「私たちは民間の宇宙開発として、ここまで来たんだ。たとえ失敗続きでも、何度でも挑戦する。何者かも分からない個人が作ったエンジンを搭載してロケットを飛ばすのは論外だ」


 彼の声には、ただの経営者ではない信念が滲んでいた。

 技術者としての誇りと、日本の民間宇宙開発の未来を背負う覚悟が、その一言一言に重く響く。

 翔太は黙ってその視線を受け止め、内心で感銘を受けた。



 この人は本気で宇宙開発に命を懸けてるんだ。



 崎島の疲れ切った顔に刻まれた皺と、握り潰された吸い殻の山が、彼の情熱と苦悩の深さを物語っていた。


「……わかりました」


 翔太は静かに頷き、席を立ち上がった。

 鞄の中からタブレットを取り出し、テーブルの上に置く。

 その動作は落ち着いており、まるでこの展開を予期していたかのようだ。


「これは、私が持ってきた設計図と技術レポートです。アーベル――私の開発パートナーが設計した、改良型ロケットエンジンと、その制御技術について詳細にまとめたものです」


 崎島は眉をひそめながら、それを受け取った。

 タブレットの画面に触れると、詳細な設計図と数式が書かれたレポートが次々と映し出される。


「燃焼室の改良設計、燃料と酸化剤の最適な混合比率、熱問題の解決策……どれも、今のロケットエンジンが抱えている課題を解決できる内容となっているはずです」


 崎島は慎重に画面をスクロールし、設計図をじっくりと眺めた。

 燃焼室の断面図、流体力学に基づくノズルの形状、熱伝導を抑える新素材の提案――一つひとつが緻密に描かれている。


 彼の指が画面をなぞるたびに、その表情が険しくなっていった。


「……お前、これ、どこで手に入れた?」


「もちろん、私たちが設計しました」


「ありえん……」


 崎島の声が低く震えた。


「特に熱問題の解決策……この理論は、俺たちが今まさに研究していた課題に直結してる。しかも、それを完全にクリアしているだと? こんなことが本当に可能なのか……?」


 彼はタブレットを見つめながら、しばらく黙り込んだ。

 部屋の中、秒針の音がさらに大きく感じられ、窓の外で遠くの波が寄せる音が微かに混じる。

 崎島の指が画面上で止まり、彼の目は設計図に釘付けになっていた。

 そして、ゆっくりと息を吐き出し、翔太を見据えた。


「……時間をくれ」


「わかりました。ただし、一つお願いがあります」


「お願い?秘密保持か?」


「秘密保持契約は結びません。この設計が信用できると判断したら、そちらの機体の設計図を提供してください。それに合わせてエンジンを再設計します。それで、お互いフェアな取引になるはずです」


 崎島は驚いたように翔太を見つめた。

 その目には、疑念と好奇心が交錯している。


「契約もなしで、こんな重要な設計図を渡すのか?」


「ええ。あなたがこれを信用できないと判断すれば、それまでの話です。でも、もし納得したら、私たちは協力し合えるはずです。」


 崎島はタブレットを握りしめ、何かを考え込むように視線を落とした。

 指先がタブレットを無意識に撫で、彼の呼吸が僅かに乱れているのが分かった。


「……わかった。しばらく時間をくれ」


 翔太は頷き、鞄を肩にかけ直して応接室を後にした。

 ドアを閉める瞬間、崎島がタブレットを見つめる背中が、夕陽の光に照らされていた。



---



 その晩、崎島健吾はサキシマ重工のオフィスに一人残り、翔太から受け取った設計図とレポートと格闘していた。

 机の上にはコーヒーの入ったマグカップが冷めきり、灰皿には吸い殻が山のように積み重なっている。

 窓の外では、夜の海が静かに波を打ち、遠くの漁船の灯りが揺れていた。

 室内を照らす蛍光灯の光が、彼の白髪交じりの頭に淡い影を落としている。


 燃焼室の構造。


 燃料の混合比率。


 再突入時の耐熱設計。


 すべてが理論的に整合性を持ち、解決できないとされていた問題点が、驚くほど単純かつ革新的な解決策によって克服されていた。

 崎島はタブレットを手に持ち、何度も数式を読み返し、設計図の細部を拡大しては確認した。


「こんなことが……本当に可能なのか……?」


 彼は何度も計算を見直した。

 過去の失敗から必死に行ってきた技術者仲間との徹夜の議論――それらを以てしても乗り越えられなかった課題が、この設計図には平然と解決策として記されている。

 燃焼効率を上げるためのノズル形状は、彼らが何年も試行錯誤した結果よりも洗練され、熱問題への対策は驚くほどシンプルで効果的だった。


 どこをどう見ても、この設計は完璧だった。


 技術者としてのプライドが揺さぶられる。


(俺たちが何年もかけて到達できなかった解答を、こいつは……)


 崎島はタブレットを握りしめ、静かに立ち上がった。

 胸の中で、敗北感と興奮が交錯していた。

 この設計が本物なら、サキシマ重工の夢を再び軌道に乗せられるかもしれない。

 だが、それを受け入れるリスクもまた、彼の肩に重くのしかかっていた。


 そして、机の上に置かれたスマートフォンを掴み、通話ボタンを押した。

 深夜の静寂を破る呼び出し音が数回響き、電話口の向こうで声が応じた。


「……夜遅くにすまない、高橋翔太君か?」


『はい。崎島社長?』


 翔太の声は眠そうだったが、どこか落ち着いている。

 崎島は一瞬言葉に詰まり、喉を軽く鳴らして続けた。


「話がしたい。明日、もう一度会えないか」


『……納得してもらえましたか?』


「……いや、まだ全部は納得していない」


 崎島はぐっと拳を握り、設計図が映るタブレットを見下ろした。


「だが、一つだけ確信した。この設計は……本物だ」


 崎島は深呼吸し、窓の外の暗い海を見つめた。


 夜の風が窓を叩き、次の打ち上げへの希望が、静かに彼の胸に灯り始めていた。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?