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リディア・ブランシュの逆転劇
リディア・ブランシュの逆転劇
ゆる
異世界恋愛ロマファン
2025年07月24日
公開日
4.9万字
完結済
す 「君は王妃にふさわしくない」 それが、私が夫から言われた最後の言葉だった――。 公爵令嬢リディア・ブランシュは、王太子エドワードの政略結婚の相手として王宮に迎えられた。 民からは理想の妃と讃えられながらも、夫からは冷遇され、愛人ローザの存在を隠しもしない「白い結婚生活」。 そしてついには、不貞の濡れ衣を着せられ、王宮から追放されてしまう。 すべてを失ったと思ったその日、リディアは静かに決意する。 ――ならば、あなたたちに相応しい“結末”を差し上げましょう、と。 父・ブランシュ公爵と共に、彼女は王太子と愛人が隠してきた数々の不正を暴き出していく。 味方になったのは、誠実な第二王子セドリック。 冷たい婚姻を捨て、リディアは“真の幸せ”と“ざまあ返し”の両方を掴みに行く!

第1話 :理想の妃と冷たい夫



 ブランシュ公爵家の令嬢、リディア・ブランシュは、幼い頃から「完璧な令嬢」として社交界でも名を馳せていた。灰色がかった金色の髪は微かなウェーブを描き、瞳はどこか憂いを帯びた青。純白の肌と、長くしなやかな四肢を持つ彼女は、一目見ただけで多くの者の印象に残る美貌の持ち主である。しかし、美しい容姿以上に注目を集めていたのは、その聡明さと穏やかな人柄だった。礼儀作法をはじめ、あらゆる教養に通じ、失礼のない言動と淑やかな立ち居振る舞い。そのうえ、周囲に対して常に思いやりを忘れない。まさに“理想の令嬢”として、王都に住む誰もがリディアの名を知り、そして憧れていた。


 そんなリディアが王太子エドワード殿下の妃に選ばれたという知らせは、国中を大いに沸かせた。国王の第一王子であるエドワード殿下は、齢二十を迎えたばかり。歴史あるヴァレンティア王国を継承する、まさに次期国王候補である。容姿端麗で武芸にも通じ、学問にも明るいと謳われ、幾多の女性が夢見ていた“若き王太子”だった。その婚約者となるのは、誰もが嘆息するほど完璧なリディア・ブランシュ。民衆の間では「どれほど美しい結婚式になるだろう」「きっと国中が祝福するに違いない」と噂が広まり、実際に王都のあちこちでお祭り騒ぎのような賑わいを見せたほどだ。


 しかし、リディア自身はというと、その華やかな表舞台に立たされる喜びを感じる一方で、何とも言えない不安を抱いていた。王太子との婚姻は政治的にも意味を持つ政略結婚。この国の将来を担う立場である以上、個人の感情よりも国益を優先するのは当然だと頭ではわかっている。それでも、これまで公爵家で大切に育てられ、あまりに美化された王太子像を周囲から聞かされてきた彼女には、「果たして自分は本当に愛されるのだろうか」という戸惑いが拭えなかったのだ。


 公爵家の当主である父、グレゴリー・ブランシュは、王国内でも有数の財力と権威を持つ人物である。彼はリディアを次期王妃として迎え入れる話を進めるにあたり、「これほど名誉なことはない」と大層喜んだ。しかし同時に、「娘の幸せが第一だ」とも繰り返し口にし、リディアが婚姻に不安を抱いていることにも気づいていた。そんな父の深い愛情を感じつつも、リディアは自分の心を表に出さないように努めている。公爵令嬢としての責務——周囲から向けられる期待は大きく、彼女自身もその全てに応えなければならないと心得ていた。


 結局、リディアは自らの意志というよりも、周囲の後押しと状況によって、王妃になる道を選ぶ。彼女自身の希望が完全にないわけではない。なにより「私が王太子殿下の力になれるなら」と思えば、決して悪い話ではないとも思っていた。国の未来を左右する立場になることへの恐れと、それ以上の使命感が入り混じり、リディアはじっとその感情を抱え込む。こうして、ブランシュ公爵家の令嬢の婚約は正式に発表され、リディアは王宮へ招かれ、そこで生活を始めることになったのである。


 王宮での生活は、これまでの公爵家での暮らしと比べても、さらに厳粛かつ華やかなものだった。広大な敷地と美しい庭園、そして数え切れないほどの使用人が行き交う廊下。眩いシャンデリアが幾つも連なる大広間や、歴代の王族の肖像画が並ぶ長い回廊の景色は、息を呑むほどの荘厳さを放っている。リディアは王太子妃候補として迎えられた最初の晩、王や王妃をはじめとする王族、そして重臣たちに一通り挨拶を済ませた。見慣れない豪奢な生活空間と、そこに集う華やかな人々を目の当たりにしながら、彼女は改めて自分の立場が大きく変わってしまったことを痛感する。


 そんな中、初めて正式に顔を合わせた王太子エドワード殿下は、噂に違わぬ美しい容貌をしていた。金の髪と青い瞳は一見リディアとよく似ていて、並んだ姿は「絵画のようだ」と周囲に称賛されるほど。ただ、リディアは彼の瞳にわずかな冷たさを感じ取る。社交辞令の中にも、どこか気の乗らない様子が見え隠れし、微笑んでいても心ここにあらずという雰囲気が拭えない。


「あなたがリディア・ブランシュですね。お噂はかねがね伺っております。これからよろしくお願いいたします」


 エドワードが交わした言葉は丁寧なものであったが、その声音に熱は感じられない。初対面だから緊張しているのかもしれない、とリディアは自分を納得させようとする。これから夫婦となるのだから、少しずつ信頼を築き、お互いを知ればいい。そしてその努力は自分の務めだ、と自分に言い聞かせた。


 しかし日々、エドワードは公務や剣の稽古を理由に、リディアとほとんど顔を合わせようとしない。時折一緒に食事の席を設けられても、最低限の会話しか交わさず、早々に席を立ってしまう。リディアがこの王宮に迎えられてから十日以上経っても、二人きりでゆっくり言葉を交わす機会は皆無だった。そうしたエドワードの態度に対して、周囲の近侍や侍女たちは不信感を募らせるものの、リディア自身はただ「陛下や王妃様の前で粗相のないよう努力しなければ」と自分を律する日々を送る。


 そんな折、リディアは王妃であるアラベラ王妃に呼び出され、個別に謁見の場を与えられた。王妃の部屋は、柔らかな絹張りの椅子や上品に飾られた花々が彩る、高貴かつ優美な空間だ。そこに一人で招かれたリディアは、やや緊張しながらも深々と礼を取る。


「お呼びいただき、ありがとうございます。王妃様」


「いいえ、あなたが来てくださって嬉しいわ。大変だったでしょう? 王宮には慣れたかしら」


 アラベラ王妃は、円やかな声音の中に威厳を宿す気品ある女性だ。エドワードの母親だけあって、美しく整った顔立ちは息子とよく似ている。しかし、彼女の瞳はどこか優しさに溢れていて、リディアはすぐに安心感を覚えた。


「まだ少し戸惑いがございますが……皆様が親切にしてくださるので、何とかやっていけそうです」


「そう。それは良かったわ。あなたのことは以前から耳にしていたわ。ブランシュ公爵家には何度か訪れたことがあるけれど、あなたはいつも奥で勉強に励んでいたとか」


「恐れ入ります。父が私を大切に育ててくれたもので……少しでも家の役に立てればと。毎日勉強ばかりでした」


 リディアが微笑みながらそう答えると、王妃も小さく笑みを浮かべ、テーブルの上に用意された香り高いお茶を勧めてくれる。二人きりでゆったりと対話するうちに、リディアは自然と会話がはずみ、王妃への好感と尊敬を深めていく。しかし、その和やかな雰囲気の中で、王妃は一つだけ心配そうに口を開いた。


「実はね、エドワードのことなのだけれど……あなたから見て、どうかしら?」


 リディアは驚きながらも、取り繕うように笑みを作る。


「いえ、特に問題はございません。殿下はお忙しいようで、なかなかお話しできていないのですけれど……」


「そうでしょうね。あの子は昔から不器用なところがあるの。責任感が強いせいか、何もかも一人で抱え込んでしまうのよ。きっとあなたにどう接していいのかわからないだけだと思うの」


 王妃はエドワードを庇うような口振りだったが、同時に「あなたが傷ついていないか」を気遣っているようにも見えた。リディアはその心遣いに感謝しながら、胸に渦巻く小さな不安を打ち消すように、「大丈夫です」ときっぱり応える。


「私もまだ殿下のことをよく存じ上げません。これから少しずつ理解を深め、信頼関係を築いていければと思っています」


 王妃は満足げにうなずき、話題を変えるように別の質問をし始めた。リディアの趣味や特技、幼少期のエピソードなど、二人はさまざまな話を交わす。気づけば外の光が傾き始めるほど時間が経っており、その日は温かい雰囲気の中で謁見は終わった。リディアは部屋を辞す前に、もう一度深く礼をしながら思う。これだけ真摯に自分を気遣ってくれる王妃がいるのだから、きっとこの結婚はうまくいくに違いない、と。


 しかし、その期待はやがて打ち砕かれることになる。


 婚約から一ヶ月後、ついにリディアとエドワードの婚儀が盛大に執り行われた。王宮の大聖堂はあふれんばかりの来客を迎え、王族や公爵・侯爵・伯爵といった貴族たちだけでなく、多くの民衆が外の広場で祝賀の声を上げていた。リディアは純白のドレスをまとい、宝石よりも輝く微笑みを携えて大聖堂の長いバージンロードを歩く。グレゴリー公爵の腕に手を添えて進むその姿は、まさに光の妖精かと見紛うほどの美しさだった。


 隣に立つエドワードもまた、金と銀を基調とした正装に身を包み、凛々しく整った顔立ちで列席者の視線を集める。二人が並ぶ姿は、国中の誰もが認める「美男美女の最良の組み合わせ」だ。しかし、リディアは神父の前で誓いを立てる際、エドワードの手がほんのわずか震えていることに気づく。それは緊張感というよりも、何か抑えがたい感情を押し殺しているかのように見えた。


 誓いの言葉を述べた後、神父が二人の結婚を宣言すると、大聖堂は万雷の拍手と歓声に包まれる。バルコニーに並んだリディアとエドワードの姿を、外で待ち受ける民衆は喝采して迎えた。無数の花びらが風に舞い、鳥が祝福のように空を飛ぶ。その光景は一世一代の華やかさを誇り、リディアが聞く限りでは「これほど盛大な婚儀はかつてなかった」と称賛されていた。しかし、当のリディア本人は笑みを浮かべながらも、どこか心の奥底で冷たい不安が疼くのを感じ取っていた。


 そして、夜になり、披露宴も終盤を迎えたころ。新婚の二人は王宮の踊りの間で最後の舞を披露することになる。王族や貴族の人々が見守る中、エドワードはリディアの手を取る。ワルツの優雅な旋律が響き渡り、二人は慣れたステップで踊り始める。その踊りの妙技に周囲が息を呑んで見惚れるほどの美しさ。しかし、リディアにはエドワードの瞳がまるで自分を見ていないように感じられてならない。


「殿下……?」


 思わず小さく声をかけると、エドワードは一瞬だけ視線を合わせるものの、すぐに表情を逸らす。まるで壁の向こう側を見ているような感覚に、リディアは寂しさを覚えた。今日という特別な日くらい、もう少し優しい言葉を交わして欲しい。そんな淡い期待も打ち砕かれたまま、最後の舞は終わってしまう。拍手喝采の中、二人は軽く礼をして退場するが、エドワードは振り返らずに会場を後にした。


「リディア様……お疲れでしょう。少しお部屋でお休みになられては?」


 侍女の一人が心配そうに声をかける。リディアは微笑みを作り、ささやかに首を振った。


「ありがとう。でも大丈夫よ。私はまだ大広間でご挨拶を続けるわ。皆様に改めて感謝を伝えたいから」


 そう言って微笑むリディアの表情には、気丈さと使命感が宿っている。王太子妃として、これからの国を担う立場の者として、ここで弱音を吐くわけにはいかない。胸の内に押し寄せる虚しさを、少しでも笑顔で覆い隠さなければ……そんな責任感に突き動かされていた。


 しかし、王太子妃としての生活は、その夜を境にさらに厳しさを増していく。表向きは華麗な新婚夫婦として、豪奢な生活を送っていると誰もが思い込んでいる。だが実際には、エドワードとリディアが顔を合わせる機会はめっきり減っていたのだ。日中はエドワードが公務や視察に追われ、夜に戻ってきても執務室にこもって書類に目を通し、リディアが声をかけようとしても侍従に「殿下はお疲れです」と止められる。それでも、リディアは何かできることはないかと模索した。


 リディアは王太子妃としての務めを果たすため、王宮に出入りする各所の関係者に挨拶をし、様々な行事の準備や進行を補佐する。王族のパーティーや祝典、賓客の接待など、慣れないながらも丁寧な対応でこなしていった。もともと学問に熱心であったリディアは、王宮にある書庫の記録や行政の仕組みを学び始め、国政の一端を担う覚悟で知識を蓄える。ブランシュ家で培った社交界での経験や礼儀作法にも長けているため、大筋で困ることは少なかった。それでも、王太子の協力や助言が得られない状況に、いつしか大きな孤独感を覚えるようになる。


 ある時、国王主催の大規模な晩餐会が開かれることになり、リディアはその準備の大部分を担うよう指示を受けた。ゲストリストの確認、メニューの選定、席次表の作成、楽団の手配に、会場の装花や照明の細部など、細やかな気配りが要求される膨大な作業量。リディアは侍女たちと共に何日も徹夜を覚悟するほど取り組んだが、エドワードは一度もその作業に顔を出さず、何か手伝いをするどころか、激励の言葉すらかけてこない。


 それでも、リディアはそんなエドワードの態度を責めることはしなかった。むしろ「殿下には殿下のやるべきことがあるのだ」と考え、自分の仕事に集中する。今は王太子妃として認められるために成果を出そう。それがエドワードとの距離を縮める一歩になるかもしれない……。そう自分を鼓舞し、仕事に没頭する日々が続いた。


 晩餐会当日、準備は万端だった。豪華なシャンデリアの照明、壁面を彩る華麗なタペストリー、花々の香りが満ちる会場は、まさに王家の威厳と美を凝縮した空間。その中央に立つリディアもまた、深紅のドレスを着こなし、気品に溢れる姿で招待客を迎える。国王や王妃からの評価も上々で、ブランシュ家の娘としての面目を十分に果たせたと言えた。


 しかし、その場にいたエドワードは、まるで自分には関係ないというような態度で、遠巻きに話す貴族たちに軽く挨拶をするだけ。リディアにも一応形式的に声をかけたが、それはほんの数秒で終わり、「準備ご苦労だったな」と低く呟くに留まった。周囲の貴族たちが「リディア様が殿下を懸命に支えておられる」と好意的に評価するほど、二人の関係は外から見れば「王太子を支える完璧な妃」の図式にしか映らない。しかし当のリディアは、内心ではエドワードの冷淡さに傷ついていた。


 晩餐会も無事に終了し、後片付けを大まかに終えた夜更け。リディアは自室へ戻る途中、月明かりの差し込む渡り廊下で足を止める。大理石の床に映る自分の影を見つめながら、ふと涙がこぼれそうになった。


(私は……殿下にとって、どんな存在なの?)


 挙式以来、まともに会話を交わした記憶がほとんどない。国の人々は「お幸せそうで何よりです」と言ってくれるが、その言葉はもはや空虚にしか聞こえない。まるで周囲が作り上げた「幸福な王太子夫婦」という幻想の中で、リディアだけが取り残されているかのようだった。


 そんな切なさを抱えながら部屋へ戻ろうとすると、曲がり角の先から、甲高い声が聞こえてきた。聞き覚えのある、王太子付きの侍従の声だった。どうやら奥の部屋にいる誰かと口論になっているらしい。少し気になったリディアは足を止め、廊下の影に身を隠すようにして声を聞く。


「殿下……今は時期が悪いかと。これ以上、外部に知られれば大事になりかねません」


「うるさい。お前には関係ない。早く退け」


 明らかに荒い口調。リディアは驚いた。王太子がこんな乱暴な言葉を発するなんて、信じられない気持ちで胸がざわつく。そしてすぐに、怒気を孕んだ靴音が近づいてくるのがわかった。リディアは慌てて身を翻し、別の回廊へと進む。彼がこんな時間に誰と何を話していたのかはわからないが、あまりよくない話題であったことは確かだ。胸騒ぎを覚えながら自室へ急ぐリディアは、「エドワード殿下が抱えているものはいったい何なのだろう」と頭を巡らせずにはいられない。


 その翌日、リディアは王妃アラベラの部屋を訪れ、何気ない会話の中で「殿下がどうしても落ち着かない様子なのです。もし私にできることがあれば、お力になりたいのですが……」とそれとなく相談してみた。しかし、王妃は苦しげな表情で軽く首を振るばかり。どうやら何か事情を知っているようだが、リディアに話すわけにはいかないようだった。


「リディア。あなたに言えることは一つだけ……どうか、このまま見守ってあげて。あの子は一度心を決めたら、なかなか覆さない頑固なところがあるの。けれど、決して悪意であなたを遠ざけているわけではないと思うのよ。だから……」


 王妃が言葉を濁したまま視線を下げる姿は、どこか無力感を帯びていて、リディアはその表情を見てさらに胸が締め付けられた。実母ではないとはいえ、王妃もまた苦悩しているのだろう。「王太子が何か良くない事態に巻き込まれているのでは?」とさえ思わせるほど、王宮の空気にはどこか不穏な気配が漂っていた。


 そんなモヤモヤを抱えるまま、リディアは王太子妃としての日々を送る。公式行事では華やかなドレスに身を包み、エドワードの隣で微笑む。しかしその姿はまるで人形のように、形だけが取り繕われていた。二人の間に会話らしい会話はほとんどなく、一緒に過ごす時間もない。周囲が勝手に「二人はお似合いだ」と騒ぎ立てるほど、リディアは取り返しのつかない孤独を感じるようになっていく。


 そんなある日、リディアは図書室で古い公文書を整理していた侍女と話す機会があった。彼女は以前から王宮に仕えており、多くの情報が集まる図書室と書庫の管理も手伝っている。リディアは図らずとも彼女から興味深い話を聞くことになる。


「王太子殿下がまだ幼い頃から、大切にしている方がいらっしゃるとか……。最近はお姿をお見かけしないようですが、以前は殿下の私室にしばしば通っていたようです」


 その侍女は、どこか含みを持った表情を浮かべて続ける。


「詳しくは私も存じませんが、一部の者たちは“ローザ”という名を口にしていたと……。噂ですが、殿下の本当のお気持ちは、その方に向いているのではないかという話もございます」


 ローザ……リディアはその名を聞いてはっと息を飲む。つまり、エドワードが心から愛している女性がいるのではないか、ということだろうか。だからこそ、リディアに対してこれほどまでに冷淡なのかもしれない。政略結婚が決まってしまったせいで、エドワードは本当に愛する女性と結ばれなくなった……。それが事実なら、エドワードはリディアを憎んでいるかもしれない、と想像すらできる。


 もちろん、正式な場でその話題に触れることは禁忌であり、実際に殿下が愛人を持っている確固たる証拠など何もない。だが、王宮の人間なら誰もが「王太子の態度はおかしい」と感じているのだ。リディアが夜な夜な冷たい寝室で眠りにつく間も、エドワードはどこかでひそかに誰かを想っている……そんな妄想が、リディアの心を追い詰めていく。


 それでも、リディアは悲壮なまでの決意を固める。どんな事情があろうとも、王太子妃となった以上、私はこの立場で最善を尽くさなければならない——。自分のためだけではない。この国のためにも、そしてブランシュ家の名誉のためにも、決して逃げるわけにはいかない。人々は皆、彼女を「完璧な王妃」と称える。だったらこそ、その期待に応えようではないか。


 そうしてリディアは、夫の心を掴めぬまま、国王や王妃の信頼を得るべく奔走する。各種の行事や外国使節の対応、慈善事業への参加など、多岐にわたる王妃の務めを滞りなく遂行する。その姿を見た多くの貴族は彼女を称賛し、「リディア妃ならば、将来この国を支えてくれるだろう」と期待の声を上げる。しかし、その裏側で夫婦の溝はさらに深まりつつあった。


 ある夜、リディアが夜遅くまで事務作業をしていたところ、廊下の奥から男の怒号が聞こえてきた。どうやらエドワードの部屋のあたりだ。気になって駆け付けると、そこには護衛騎士の姿があり、エドワードと何か言い合っているらしく、周囲もピリピリと張り詰めた空気。騎士が厳粛に注意を促しているが、エドワードは苛立ちを隠せないまま「俺の邪魔をするな!」と一喝し、荒々しく部屋を出て行ってしまう。


 その場にいた侍従長がリディアに気づき、慌てて頭を下げる。


「リディア妃殿下、申し訳ございません。殿下は少々ご機嫌が悪いようで……」


「何があったのですか。もし私にできることがあれば」


 リディアが問いかけても、侍従長はただ申し訳なさそうに首を横に振るだけだった。周囲の騎士たちも口を噤み、あたかも「王太子の部屋で起きたことは外部に漏らすな」という暗黙の圧力があるようだった。結局、何が起きたのか教えてもらえないまま、リディアは自室へ戻らざるをえない。


 夜が更けて、冷たい寝台に身を横たえながら、リディアは天井を見つめる。こんなにも立派な宮殿で、最高級のシルクのシーツに包まれているのに、心はまるで冬の吹雪の中に放り出されたように寒々しい。隣にいるはずの夫は一度もここで共に寝たことがなく、愛の言葉を囁かれたこともない。寝室の灯りを消して目を閉じると、暗闇の中で“完璧な王妃”という仮面を被り続ける自分が虚しく映る。


 その夜、リディアは小さく呻くように呟いた。


「私には、あなたを幸せにすることはできないの……?」


 答えてくれる者など誰もいない、静寂の夜。儚いため息がシーツに吸い込まれていく。そして、彼女は知ることになる。これが、華やかな王宮の裏に潜む“白い結婚”の入口だということを。国中から祝福された華麗なる婚儀は、虚飾に彩られた幻のように過ぎ去り、今リディアに待ち受けているのは、愛のない結婚生活の現実。それでも、彼女はまだ信じていた。いつか、夫と心を通わせ、共に国を支え合う日は来るのだろうと。


 しかし、運命は冷酷にリディアを裏切ろうとしていた。近づいてくる一つの嵐。その気配は確実にリディアの足元を蝕み、やがて「白い結婚」の真意を突きつけ、さらに彼女を奈落へと突き落とすことになる——。



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