あの日――リディア・ブランシュが王太子エドワードと結婚し、華々しい婚儀を挙げてから数ヶ月の時が過ぎていた。王妃として国中から称えられ、社交界でも大きな注目を浴びていたはずのリディアだったが、実際には“夫婦”とは名ばかりの孤独な日々を過ごしている。王太子と部屋を共にしたことすらなく、イベントで並んで人前に立つ時だけ形式的に言葉を交わす。それ以外の時間、王太子はまるで彼女の存在を忘れているかのように避け続けていた。
にもかかわらず、表向きは「王太子妃リディアの活躍」が大々的に報じられている。彼女は慈善活動の場で献身的に動き、院や孤児院への寄付を募り、また貴族間の細やかな調整を手伝うなど、王妃に求められる以上の貢献をしていた。そんな彼女の姿勢は王や王妃からの評価を高め、さらには多くの貴族からも尊敬を集めていた。
しかし、リディアの心は満たされるどころか、日に日に摩耗していく。愛のない結婚生活を続けながらも、自分が王太子妃である以上は努めて笑顔を保ち、品位を崩さないように――いつしかそれが彼女にとって“仕事”のようになっていた。
そんなリディアにとって、唯一の心の支えは、折に触れて交わすアラベラ王妃(国王の正妃)との会話くらいのものだった。アラベラ王妃もまた、息子エドワードの奇妙な冷淡さには心を痛めているようで、リディアに向ける視線はいつもどこか申し訳なさそうだった。だが、王太子のプライベートな事情までは深く踏み込めないのか、アラベラ王妃も「もう少し待ってあげて」と言うにとどまり、具体的なアドバイスを授けてはくれない。
そうして暗い閉塞感に苛まれながらも、リディアは耐え続ける日々を送っていた。ところがある日、ちょっとした“誤解”がきっかけで、大きなスキャンダルが吹き荒れることとなる。王宮で行われた音楽祭の打ち合わせの帰り道、リディアは侍女を伴って中庭を歩いていた。その時、楽長の助手である青年と偶然すれ違い、音楽祭の進行に関する質問を受けた。それ自体は何の変哲もない会話だったのだが、よりによってそのやり取りを遠巻きに見ていた貴婦人が、妙な噂を立ててしまったのだ。
噂の内容は、「リディア妃が怪しげな青年と親しげに話し込んでいた。それも、ひと目を憚るように柱の陰へ消えていった」というもの。実際には、青年がリディアを呼び止めた場所がちょうど柱の多い中庭の隅だっただけで、リディアは侍女と共にごく短い会話を交わしただけにすぎない。だが、こうした“王妃の不倫”とも取れる噂は、面白おかしく人々の口に上りやすい。たちまち尾ひれがついて広まり、まるでリディアが「愛のない結婚生活の裏で密会を重ねている」という筋書きへと変貌していった。
王宮は広く、噂話の種は掃いて捨てるほどあるものだが、何しろリディアは若く美しい王太子妃。周囲が驚くようなスキャンダルは人々の興味をそそった。王太子エドワードがあまりにもリディアに無関心で、夫婦としての実態が噂されていたことも、この流言飛語をさらに燃え上がらせる要因となった。
最初こそ、王宮の人々も「まさか」と笑い飛ばしていた。リディアの人格や立ち居振る舞いを知る者なら、そんな醜聞を信じるはずがない。ブランシュ公爵家の令嬢として誰よりも規律を重んじ、自己管理や道徳心を怠らないリディアが、不倫などするわけがない――誰もがそう思っていた。
ところが、噂を流した張本人である貴婦人が“証拠”めいたものまで捏造してしまう。彼女は自分が持っている刺繍入りのハンカチを、こっそり青年に渡し、それを「リディア妃が落とした」と周囲に言い広めた。青年のほうは突然差し出されたハンカチの意味もわからず、ただ渡された時点で「これは妃殿下のものだ」と聞かされてしまったため、否定もできないまま困惑していた。リディアの侍女たちはもちろんそんなハンカチに見覚えもない。だが、“物的証拠”が存在するという話だけが一人歩きしてしまい、事態はどんどん深刻になっていく。
リディアはこの状況を知り、さすがに焦りを覚えた。いくら身に覚えがないとはいえ、噂がこうも膨れ上がれば、王太子であるエドワードの耳に入らぬはずがない。実際、彼の側近がピリピリした様子でリディアの周囲を探っているという話も伝わってきていた。何とか早期に誤解を解かねばならない――そう決意したリディアは、冷静な対応を心がけつつ、噂の元凶である貴婦人や楽長の助手など、関係者との面会を試みた。
しかし、そこには思いも寄らぬ障害が待っていた。リディアが面会を申し出ても、噂を流した貴婦人は「体調が悪い」と言って一切会おうとしない。そして噂の道具にされた青年のほうは、恐れ多いと恐縮しきって王宮から姿を消してしまった。まるで“意図的”にリディアが動けないようにされているかのようだった。侍女たちや親しい女官の力を借りても、当人たちに辿り着けず、ただ噂だけがさらに広がっていく。
そんな泥沼の中、ある朝、ついにエドワード本人からリディアに呼び出しがかかった。彼のプライベートな執務室である。普段ならどれだけ頼んでも取り合ってくれない部屋に、こんな形で通されることになるとは――リディアは不安で胸が張り裂けそうだったが、せめてここで直接話し合えば、真相を説明できるかもしれないと期待を抱いた。
執務室の扉を開け、重々しく歩を進めると、そこにはエドワードと数名の侍従、そして副官のような役職の男性が控えていた。エドワードは怒りを押し殺したような面持ちで、リディアをまっすぐに見据え、低い声で言い放つ。
「来たか、リディア」
その声音に宿る冷たさは、これまで以上にリディアの胸を刺す。彼はリディアに席を勧めることもなく、まるで尋問でも始めるかのように続ける。
「お前に問いたい。あの、楽長の助手だとかいう男との仲……すべて否定できるか?」
いきなり核心を突かれたリディアは、動揺を抑えつつ、きっぱりと答えた。
「もちろんです。あの方とは音楽祭の進行に関する打ち合わせをしただけで、不貞関係など断じてございません。私にはまったく身に覚えがありませんし、誓って、やましいことなど何も……」
だが、エドワードはリディアの言葉を途中で遮り、机の上にぽんと放り投げられた布切れを見せつけた。それは例の“ハンカチ”だった。白地に華やかな金糸の刺繍が施され、隅にはアルファベットの頭文字が記されている。ただし、その文字は微妙に形が崩れており、一見すると「L・B」(リディア・ブランシュ)のようにも読める。
「これはどう説明する? このハンカチはお前の名前が刺繍されていると聞いているが」
「私は存じ上げません……そんなハンカチ、見たこともありません」
「だが、あの男は『これはリディア妃殿下のものだ』と言っていたぞ」
「そ、それは……誤解です。私はその青年と会話をした時も侍女が同席しておりました。何もやましいことはしておりませんし、ハンカチを落としたという事実すらありません」
リディアは必死に弁明するが、エドワードの視線は終始冷ややかだった。副官が脇から口を挟むように言う。
「殿下、私からも一言。実は、このハンカチの出どころには不審な点が多く、まだ真偽が不透明かと……」
副官は公平な立場から、証拠としては不十分だと示唆しているようだった。だが、エドワードは軽く手を挙げて副官の言葉を制する。
「もういい。証拠などどうでもいい。それより問題なのは、俺たち夫婦の関係がとっくに破綻していることだ。こんな噂が立った時点で、お前とこれ以上夫婦を続ける理由はあるまい」
その発言に、リディアは息を呑んだ。破綻という言葉に、彼の本音がむき出しになっている。
「殿下、それは……どういう意味でしょう。私たちの結婚を……」
「やめにしたい。そう言っているのだ」
リディアは思わず後ずさった。これまでどれほど冷たい態度を取られてきたとはいえ、表向きは“王太子夫婦”として続けてきた。その彼が、まるで待っていましたと言わんばかりに離婚を突きつける。噂を根拠にしているだけではない。おそらく最初から――彼はこの結婚を破綻させる好機を狙っていたのではないだろうか。
「……私、何か重大な落ち度を犯しましたか? 確かに殿下との関係は冷えておりましたが、私はいつも殿下を……」
「黙れ」
エドワードの低く鋭い声が、リディアの言葉を飲み込む。いつも穏やかに笑っていたはずの彼は、今や猛烈な敵意を向ける存在へと変貌している。その表情を目にしたリディアは、喉が震え、うまく声が出せない。
「お前を妃に迎えたのは、政治的な判断だった。ブランシュ公爵家との関係強化が、この国の安定に繋がると父上(国王)も考えていた。だが、俺は……最初から心などなかった。そこへ来て、不貞の噂まで出た以上、もはや形だけの結婚を続ける価値がどこにある?」
「そ、そんな……私は本当に何も……」
「言い訳は聞きたくない。離婚の意向はすでに父上に伝えてある。あとはお前がどう弁明しようと、無駄だ」
エドワードは激昂しているわけではない。むしろ冷静さすら感じさせる口調で、一方的にリディアを突き放す。その冷酷な姿勢に、リディアの心は絶望感で染まっていく。何を言っても無駄だろう。彼はもう、リディアとの結婚を精算する気持ちを固めている。その理由は“噂”だけではない。ほかに何か決定的な事情があるとしか思えない。けれど、リディアには知る術がない。
一方、副官や侍従たちは戸惑いの表情を隠せずにいた。誰もがリディアの品行方正さを知っており、彼女が不貞を働くような人物ではないことを薄々理解しているからだ。しかし、王太子の決断は絶対的であり、それを覆すことは難しい。場の空気が重く沈む中、エドワードは最後に淡々と告げる。
「近いうちに正式に離縁する。それまでに荷物をまとめておけ」
それが、リディアの“追放”を告げる宣告だった。
―――
その日の夕刻、リディアはひとまず自室に戻り、侍女たちに状況を説明した。侍女たちは口々に「そんな馬鹿な話はない」「誤解を解くべきだ」と嘆き、それでもなんとかリディアが王太子との対話の場を持てるよう、あちこち走り回る。だが、すべて無駄に終わった。エドワードはリディアを拒絶するどころか、周囲にも「リディア妃との面会は許可しない」と厳命したらしい。
こうしてリディアは、抗う術を与えられないまま王宮内で軟禁状態となった。一説には「リディア妃がさらに悪あがきしないように」という意味合いもあるのだろう。まるで彼女が本当に不貞を働いた罪人であるかのような扱いだった。
さらに追い打ちをかけるように、王宮では「ブランシュ公爵家の令嬢は体面を取り繕っているだけの裏切り者」などという陰口が広まっていく。誰もがそう信じているわけではないが、当事者である王太子が追及を強めている以上、リディアに肩入れしては自分の身が危ういと感じる者も多い。結果としてリディアを擁護する声はかき消され、冷たい視線が彼女を追い詰めていった。
これまでリディアを慕っていた侍女たちも、王太子やその周辺の命令で解雇されたり、配置換えを余儀なくされたりし、彼女の周囲から徐々に去っていく。残ったのは、貴族の家柄を持ち、ある程度“立場”を確立している数人の侍女だけだ。彼女たちはリディアの気持ちに寄り添ってくれるが、行動は大きく制限されている。リディアも彼女らに「もういいの。私のためにこれ以上危険を冒さないで」と言うしかない状況だ。
それでも唯一、アラベラ王妃がリディアの立場に同情し、こっそりと「なんとか事態を鎮めたい」と動いてくれていた。だが、アラベラ王妃はあくまで国王の正妃という立場であり、エドワードの決定に反対することは大きなリスクを伴う。彼女は人知れずリディアを支えようと奔走してくれているが、さすがに当のエドワードが激しく拒絶している以上、状況を覆すのは難しい。
リディアはそんな王宮の片隅で、自室に閉じこもるしかなかった。朝日を浴びながらも、鉛のように重い気分でベッドを出て、身支度を整える。いつもなら“王太子妃としての務め”が山積みだったが、今はほとんどの役目を取り上げられ、ただひたすらに時が過ぎるのを待つだけの日々だ。壁に飾られた美しいタペストリーは、いつしか虚ろな空間を映し出しているように見えた。
ある夜遅く、リディアは眠れないまま机に向かっていた。王宮の書庫で借りてきた本が積まれているが、頭に入ってこない。ふと視線を落とした先にあったのは、一本の羽根ペン。彼女はそれを手に取り、紙の上に走らせ始めた。無意識のうちに書き出した文字。それは父親――ブランシュ公爵に宛てた手紙だった。
「親愛なるお父様」
その言葉を筆で綴った瞬間、堪えていたものが一気に溢れ出す。まだ細かい事情を伝えてはいないが、おそらくブランシュ公爵も、この国の“王太子妃が不貞疑惑をかけられている”という醜聞は耳にしているはずだ。彼がどう思っているのか――リディアは想像すらできない。自分の家を背負って嫁いだ立場でありながら、国中を騒がせるような噂に巻き込まれてしまった。その責任の重さに、彼女は体が震えるのを感じた。
「私は何もやましいことをしていないと、お父様だけは信じてくれるだろうか……」
そう小さく呟きながら手紙を書き進め、今の王宮で起きていることをできる限り淡々と伝える。エドワードとの離婚話が進められていることも、真っ向から否定してくる人がほとんどいないことも。心配をかけたくない気持ちと、どうしても助けを求めたい気持ちが入り混じり、文章は何度も書き直した。しかし結局、「私はやましいことなど何もしておりません。どうかお父様だけは、それをわかってください」という一文で締めくくり、封をした。
翌朝早く、リディアは最も信頼できる侍女の一人に、その手紙を託した。王宮の外へ出ることもままならないが、侍女は自分の実家に用事があると届け出をして許可を得、何とか公爵家に使いを出す算段を整えてくれた。それが成功すれば、数日のうちにはブランシュ公爵へ手紙が届くだろう。その間、リディアはひたすらに耐えるしかない。王太子から正式に離縁を宣言される日が、近づいているのを感じながら……。
―――
そして、その“宣告”は、容赦なく訪れた。国王が主催する晩餐会の席上で、エドワードは公然と「王太子妃の地位を剥奪する」と宣言したのだ。晩餐会自体は他国からの使節を迎える公式の場だったが、彼はそうしたタイミングを逆に利用し、周囲の貴族たちに“既成事実”を叩きつけた。
王座の隣に座っていたリディアは、突然の発表に動揺を隠せない。アラベラ王妃も驚愕の表情を浮かべ、国王は「何を言い出すのだ、エドワード!」と厳しい声を張り上げた。しかしエドワードは怯まず、続ける。
「リディア・ブランシュは、不貞の疑いを晴らそうともしなかった。これ以上、我が妻として迎えておくわけにはいかない。国王陛下、申し訳ございませんが、私とリディアの縁はここで断たせていただきたい」
その場は一瞬、怒号と罵声が飛び交う騒然とした空気に包まれた。事情をよく知らない外国の使節たちまで、その異様な雰囲気に目を見張っている。リディアは慌てて口を開きかけたが、言葉がうまく出てこない。まさか公式の場で、こうした騒動が起きるとは夢にも思っていなかった。
「で、ですが殿下……私は……!」
思わず声を上げるリディアに、エドワードは気まずそうに視線を逸らす。しかし、それ以上何も言わず、ただテーブルに置いてあった葡萄酒のグラスを乱暴に退かし、バンッと大きな音を立てて立ち上がった。
「パーティーはここまでだ。皆、席を外せ」
王太子のあまりの独善的な振る舞いに、王は激昂し、アラベラ王妃は憔悴しきった表情で隣に立ち尽くす。リディアはその場に凍りついたように座り込んだ。「なぜこんな大事な場で……?」という疑問は尽きないが、同時に、もう覆せないほど大きな宣言になってしまったことを悟る。エドワードが王太子として持つ“発言力”は、国民はもちろん、外国の要人たちにも大きな影響を及ぼす。最悪の場合、王位継承を巡る混乱にも発展しかねない――それほどの重みを持った言葉を、彼は使節を前にして放ったのだ。
晩餐会は中断され、招待客たちは混乱のうちに解散を余儀なくされる。リディアは国王とアラベラ王妃に問い詰められる形で事情を話そうとしたが、そこへエドワードが再びやってきて言い放った。
「父上、母上……どうか、これ以上お取り繕いなさらないでいただきたい。俺はリディアと暮らしていて、心が通じ合うと感じたことが一度もありません。むしろ、彼女は俺を欺いているとしか思えない。どうかこの離縁を認めてください」
あまりに一方的な物言いに、国王は「おまえという奴は……!」と憤るが、息子を強く制止する術を失っているようだった。アラベラ王妃は涙さえにじませ、「リディアにまだ弁明の機会を」と懇願するも、エドワードは目も合わせない。
「リディアがどれほど必死に抗弁しようと、俺の決意は変わりません」
エドワードがそう言い捨てて部屋を出て行くと、王は重苦しい沈黙の中でリディアに視線を向けた。その眼差しには失望と怒り、そして戸惑いが混ざり合っている。
「リディア……本当に不貞の疑いはないのだな?」
リディアは必死に頭を下げる。
「私は、なにも……誓って、そのような行為に及んだことはございません。ハンカチの件も、あれは私のものではありません。これは何かの陰謀です」
「陰謀……そうかもしれん。しかし、エドワードがあれほどまでに頑なである以上、我々としてもどうしようもない。……おまえの父上には、私から連絡を入れよう。そなたが帰る場所を失うことのないようにな」
いま国王が口にした言葉は、つまり「離縁は免れない」という意味だ。リディアはその現実に打ちのめされながらも、せめてもの救いは公爵家が自分を受け入れてくれそうだということだった。もっとも、それはリディアにとって不名誉な帰郷を意味する。王太子妃として失墜し、不貞を働いた疑いを晴らせないまま、国を揺るがす醜聞の主役として追放される――なんとも悲惨な幕切れである。
アラベラ王妃はリディアの手を握り、悲痛な面持ちで言う。
「ごめんなさい……力になれなくて。エドワードが幼い頃から密かに想っていた女性がいるという噂は聞いていたわ。でもそれは、あなたと結婚した後は自然に消えるだろうと信じていたの。だけど、その女性が今も……。いえ、もしかしたら彼女の存在が、エドワードをここまでかたくなにしているのかもしれない」
リディアはその言葉を聞いて、やはり――という気持ちになる。以前侍女からこっそり聞いた「ローザ」という女性の噂。エドワードが真に愛しているのは彼女であって、リディアとの結婚は政治的な義務に過ぎなかったのだ。そこへ不貞疑惑が持ち上がったことで、エドワードはこれ幸いと結婚を破綻させようとしている。もはや真実をどれだけ叫んでも、彼には通じないだろう。
(もう、何もかも終わりなのかしら……)
暗澹たる思いの中、リディアは近づいてくる破滅の足音を感じ取っていた。
その後、正式な書面として「離縁」の手続きが王宮内部で進められた。形だけの審議が行われたが、王太子の言葉がすでに絶対視されており、リディアがどれほど弁明しようと「証拠不十分」という曖昧な理由で却下される。国王は最後まで渋い顔をしていたが、エドワードの意思はもはや覆らない。ブランシュ公爵家からの申し立ても受け付ける形だけは取られたが、王政の力が強いこの国では、公爵家がどれだけ抗議しても王太子の決定を翻すのは困難だった。
こうしてリディアは“名ばかりの王太子妃”から“追放された前妃”へと立場を変え、ブランシュ公爵家へと戻ることになる。まさにそれは一方的な“破棄”の形であり、リディアとしては不当極まりない仕打ちだったが、どうしようもなかった。彼女を守ろうとしたアラベラ王妃が間に入ろうにも、エドワードの頑なさと国政の混乱を危惧する王の意向によって大勢は動かず、ついに離婚の事実が確定してしまったのだ。
離縁が成立した当日、リディアはわずかな身の回りの品だけをまとめ、王宮を出る馬車に乗り込んだ。豪華な衣装や宝石の多くは“王太子妃の私物”として与えられたものであり、国の管理下にあるため、ほぼ置いていくことになる。あれだけ夢のように豪奢な暮らしをしていたはずが、今や空しく残ったのは、小さなトランクに収まる少数の私物だけ。まるで最初から何もなかったかのようだ。
馬車が王宮を離れ、門を通り過ぎる時、リディアは何度も後ろを振り返った。そこには、抜けるように青い空と堂々たる宮殿の尖塔がそびえ立ち、広大な庭園の緑が鮮やかに敷き詰められている。すべてが絢爛豪華で、リディアが数ヶ月前に“新婚の夢”を抱いて足を踏み入れた場所だった。
(この国で、私は王太子妃として生きるはずだったのに……。どうしてこうなってしまったの?)
問いかけても、返事はない。周囲の町人たちが馬車を見つめているのが窓越しに見える。誰もが好奇の目で、あるいは同情の眼差しで、リディアを見送っていた。何しろ「王太子妃が追放される」などという前代未聞の出来事なのだ。新聞や噂話で取り沙汰されている以上、よほどの事情があると想像する者もいるだろうし、あらぬ中傷を信じて彼女を蔑む者も少なくないだろう。
リディアは胸の奥に固い塊を感じながら、馬車の揺れに身を委ねる。いつしか涙が頬を伝うが、悔しさや悲しさという感情すら通り越し、ただ虚無感だけが広がっていく。
そうして数日かけて辿り着いたブランシュ公爵領は、王宮とはまた違った雰囲気でリディアを迎えた。広大な領地に広がる田畑、住民たちが行き交う市場、そこにはどこか穏やかな空気が流れている。リディアにとっては生まれ故郷とはいえ、王太子妃として嫁いでいた間に変化した部分も少なくなかった。
それでも、公爵家の屋敷は昔と変わらず堂々とした佇まいでリディアを出迎える。玄関先には父であるグレゴリー公爵が立っており、その表情は厳格でありながらも複雑な感情を宿していた。リディアは馬車を降りると、一礼して小さく「ただいま戻りました」と呟く。
グレゴリー公爵は無言のままリディアを抱きしめた。その腕の中にはかすかな震えが伝わってくる。リディアは子どものころに戻ったような感覚で、父の胸に顔を埋める。豪華絢爛な宮殿より、今はこの場所が何よりも心安らぐ――それが彼女の偽らざる気持ちだった。
父の背後に控えていた使用人たちも、リディアの帰還に戸惑いながらも温かい眼差しを向ける。しかし、そのまなざしの奥には「どうして王太子妃が帰ってくるのか」という疑問や心配の色が見え隠れしていた。離縁の真相までは詳しく知らずとも、相当な騒ぎがあったことは察しているのだろう。
「おまえが戻ってくることになるとは……リディア……」
低く沈んだ声音で、公爵はそう呟く。
「ごめんなさい、お父様……。私……何もできなくて……」
リディアは悔しさを噛み締めるように唇を結ぶ。すると公爵は首を振り、リディアの腕を掴んで屋敷の奥へ促した。
「詳しい話は中で聞かせてもらおう。ここでは人目もある。使用人の目もあるし、おまえも疲れているだろう。ゆっくり休んでから話してくれればいい」
その言葉に、リディアはほっと安堵しつつ、同時に心が重くなる。父に事実を話せば、きっと怒り狂い、王家に文句を言うだろう。しかしもう、王宮での離婚は成立済み。公爵家としては国王に逆らう形にはなりたくないはずだが、自分の娘をこんな形で追放されたとなれば、そう簡単に黙ってはいられない。
(お父様……きっと苦しい立場に立たされるわね。でも、私はどうすることもできない……)
リディアはうなだれたまま、公爵家の廊下を進む。かつては何の不安もなく駆け回っていた広い館内が、今はどこか色あせて見えた。何もかもが以前と同じはずなのに、自分自身がすっかり壊れてしまった気がする。
案内された部屋は、リディアが王宮へ嫁ぐ前に使っていた私室だった。大きな窓から差し込む光と、柔らかな調度品の配置は昔のまま。ベッドのカーテンはリディアの好きな淡い青色、机の上には古い本とインク壷が置かれている。この部屋で眠り、起き、勉強をし、そしていつか素敵な結婚を……と夢見ていた少女時代の記憶が、まざまざと蘇ってくる。
(結婚して幸せになるはずだったのに。公爵家の娘として胸を張って嫁いで、国を支える王太子妃になるはずだったのに……)
しばらくベッドの脇に立ちすくんだリディアは、身体から力が抜けるようにへたり込んだ。父は「今日は休め」と言ってくれているから、このまま部屋に閉じこもっても咎められまい。心配そうに顔を覗き込む侍女に「少し一人にしてほしいの」と頼むと、彼女は申し訳なさそうに退出していった。
扉が閉まると、リディアは静かな部屋の中で膝を抱え込む。そこへ遠慮がちに声をかける者がいた。
「お嬢様……。失礼いたします、私、イザベルでございます。久方ぶりにお顔を拝見できるのは嬉しいのですが……本当に、大変でしたね」
イザベルはリディアが幼少の頃から使えていた侍女で、年齢はリディアよりも少し上。おっとりとした性格で、リディアが唯一気兼ねなく心を許せる存在だった。リディアが王宮に嫁いでからは公爵家に残っていたが、今回リディアが戻ると知って急ぎ駆けつけてくれたらしい。
「イザベル……。ごめんなさい、なんだか情けない姿ばかり見せて……」
「そんな。お嬢様は悪くありません。王宮でどんなことがあったのか、詳しくは分かりませんが……ニュースや噂話は耳にしています。でも、私たちから見れば、お嬢様がそんな不貞行為をするなどありえません。だから……」
言いかけて、イザベルは言葉を詰まらせる。悲しげに眉を下げ、リディアの手をそっと握る。
「すみません、私には力がないばかりに……」
「いいの。気にしないで……。私こそ、もうどうしていいか分からないわ」
リディアは震える声でそう言いながら、再び涙をこぼす。イザベルは黙って背中をさすり、リディアの心が落ち着くまで寄り添ってくれた。
この数日の間にリディアの身に起こった出来事は、あまりにも苛烈だった。結婚生活の破綻、不貞疑惑による追放、今後どう生きていけばいいのか分からない暗闇。けれど、こうして故郷の部屋で幼なじみのような侍女に支えられると、ほんの少しだけ心が安らぐ。その安らぎの中で、リディアはふと、あの王宮での不審な出来事を思い返していた。
(あれは本当にただの噂だったの? あまりにタイミングが良すぎるわ……。しかも、あの貴婦人はなぜ私を陥れるような真似を? ……まるで、誰かが仕組んだようにしか思えない)
リディアはこれまで何度も自問自答してきた。自分が真っ当に生きてきた以上、あの不貞疑惑は完全なでっち上げだ。しかも、その工作があまりに手際がいい。証拠のようなハンカチの存在、都合よく消えてしまった目撃者――すべてが“リディアを貶める”方向に作用している。エドワードがそれを口実に離縁を決定づけたのも計画のうちなのか、それともエドワード自身が計画者なのか。
だが、今となっては何を疑っても仕方がない。王宮を離れたリディアに、真相を突き止めるすべはない。しかも名誉を挽回する機会を奪われ、エドワードの一存で離婚が成立してしまった。普通なら「王太子妃を放り出すなど、前代未聞だ」と国民や貴族たちが大騒ぎしてもおかしくないが、王宮の体制や国の情勢を考えれば、ある意味エドワードの強権が通ってしまう背景もある。
「……お嬢様。父上様、グレゴリー公爵様が『落ち着いたら書斎へ来てほしい』と仰っております」
イザベルの声に、リディアはハッと顔を上げる。
「わかったわ……。今行くから、少し待っていて」
自分の部屋でいくら塞ぎこんでいても、事態は変わらない。いずれ正式に離縁となった報告を国中へ発表し、公爵家もそれに対する釈明を行わなければならないだろう。何より、父に申し訳ない気持ちを正直に伝え、今後どうするかをきちんと相談しなければ。
リディアはイザベルに手を借りながらベッドから立ち上がり、鏡台の前で身だしなみを整える。王宮のきらびやかなドレスとは違い、やや地味な色合いの衣服に着替え、髪をゆるく結う。ささやかながらも丁寧に準備をしてから、書斎へ向かう廊下を歩いた。
(離縁されて追放された私は、これからどう生きればいいの……?)
絶望に苛まれながらも、一抹の疑問――“あの噂は本当に偶然か”という問いが、リディアの中でくすぶっていた。いつしかそれが、彼女の未来を変える“きっかけ”になるとも知らずに。
こうして、王太子妃としての生活はわずか数ヶ月で幕を下ろし、リディア・ブランシュは再び故郷である公爵家に戻ってきたのだった。表向きは“スキャンダルにより追放された妃”として。だが、このまま泣き寝入りする彼女ではない。復讐と逆転への火種が、まだかすかに燻っていた――。