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第3話 :王太子失脚と新たな縁

 ブランシュ公爵家に戻ってから数日、リディア・ブランシュは自室で重たい沈黙の中にいた。あれほど華やかな立場を約束されたはずの王太子妃の座を、一方的な疑惑で奪われ、追放される形で帰郷。世間では「不貞の妃」「裏切りの公爵令嬢」とまで揶揄されているという噂も届いてくる。幼少の頃は心穏やかに過ごし、愛着を抱いていたはずの屋敷も、今はどこか別世界のように感じられた。


 窓際に腰掛けたまま、リディアはぼんやりと庭先を眺めている。季節は穏やかな陽光を孕み、木々は青々と生い茂っていた。遠くの方から若い使用人たちが談笑する声が聞こえる。屋敷の外は、かつてのままの平和な日常が流れているようだ。しかし、彼女自身の胸中には陰鬱な感情が滞ったままで、晴れやかな気分になる日は一向に訪れなかった。


「お嬢様……失礼いたします」


 控えめに扉をノックし、声をかけてきたのはイザベルという侍女である。リディアが幼い頃から身の回りを世話してくれた存在であり、今もなお彼女を慕い、支えてくれている。リディアは振り返り、かすかに微笑もうとしたが、その笑みは痛々しいほど弱々しいものだった。


「イザベル……」


「お父様が、書斎でお待ちです。先日から取り掛かられていた“ある件”で、お嬢様に話があるのだとか……」


 イザベルは言葉を濁しながら、心配そうにリディアを見つめる。リディアは一度軽くうなずいたものの、内心で胸が高鳴るのを感じていた。父であるグレゴリー公爵は、リディアが帰郷した当初こそ「ゆっくり休め」と言って彼女に干渉しないようにしていたが、どうやら最近は王宮での離縁騒動の背景や真相を探るため、水面下でかなり活発に動いているらしい。公爵家といえば王国でも随一の財力と人脈を誇るのだ。大々的に矛を構えるのは政治的リスクがあるにせよ、情報を集めるくらいは容易いはずだ。


 そしてグレゴリー公爵は、あの騒動を「ただの噂や偶然で終わらせるつもりはない」とリディアに断言していた。愛娘が不貞などという汚名を着せられ、一方的に追い出されたのだ。親としてこのまま放置できるはずがない。ましてや、公爵家は代々王家を支えてきた名門である。自らの名誉にも関わる以上、到底黙って受け流すことはできない。


「……わかったわ。すぐに行く」


 リディアはそう言って、少しだけ乱れた髪を手櫛で整えると、うつむき加減だった表情を引き締め、椅子から立ち上がった。胸の奥底に小さな不安と期待が混ざり合う。自分がエドワードから着せられた濡れ衣と嘲笑を、父がどうにか覆してくれるかもしれない。あるいは少なくとも、真実を暴く一歩が踏み出せるのではないか――そんな淡い予感が、リディアの足に力を与えていた。


 廊下を抜け、書斎の扉をそっと開けると、重厚な家具と革張りの椅子が並ぶ室内の奥に、グレゴリー公爵が背を向けて立っていた。窓から差し込む午後の陽光が、公爵の肩越しに長い影を落としている。


「お父様、リディアです」


 その声に、グレゴリー公爵は静かに振り向いた。厳格で鋭い眼差し。だが、娘を慈しむ愛情は、どこかにじんでいるようにも見える。公爵は無言で手招きし、机の上に広げられた書類へとリディアの視線を誘導した。そこには何通もの手紙や報告書が散らばっている。


「よく来たな、リディア。……おまえの話を聞いてから、王宮内外で起きている出来事を探らせてみた。その結果、思っていた以上に“裏”があることがわかったぞ」


「裏……?」


 リディアは近づきながら、広げられた書面の中身をちらりと覗き込む。そこにはいくつもの名前や金銭の流れ、そして王宮の重臣たちの動向が細かく記されており、どうやらグレゴリー公爵の独自ルートによって集められた情報のようだ。王宮を去ったリディアにとっては未知の事柄ばかりが並んでいる。特に目につくのは、**「ローザ・ガルニエ」**という名前。リディアははっと胸が騒いだ。


「ローザ・ガルニエ……。あの、エドワード殿下が“想い人”として噂されていた女性の名ですね。確かガルニエ子爵家の方で……」


「そうだ。私も名前程度しか知らなかったが、どうやらガルニエ子爵家は裏でいろいろな商人との取引を行っているらしい。いや、取引自体は貴族なら珍しくないが、問題はその中身だ。穀物や鉱石の密輸に関与しているという話がある。そして、その利益が一部、王宮の人間にも流れている形跡があるのだよ」


「え……?」


 グレゴリー公爵の口からあまりに物騒な言葉が飛び出し、リディアは思わず息を呑む。ガルニエ家はそれほど大きな領地を持たない下級貴族だが、奇妙に財力を蓄えているという噂はリディアも耳にしたことがあった。しかし、まさか密輸という犯罪行為に手を染めている可能性があるとは。


「ローザ・ガルニエは、その一連の疑惑の中心にいると言ってもいい。彼女が取引相手と王宮をつなぐ連絡役を担っているらしく、その対価として甘い汁を啜っているという話だ。そして……おそらくエドワード殿下もそこに深く関わっている」


「殿下も……?」


 リディアは信じたくないという気持ちと、どこか腑に落ちる感覚を同時に覚えた。思えば、王宮にいた頃からエドワードの周囲には不可解な気配が漂っていた。荒々しい言動、やたらと護衛騎士と言い争っていた場面、侍従が不自然に口を噤む場面を何度か目撃している。彼が単にリディアへの愛情を欠いていたというだけでなく、もっと大きな“秘密”を抱えていたのかもしれない。


「殿下が密輸などに関与している証拠は……見つかっているのですか?」


 震える声で問うリディアに、公爵は苦い顔でうなずいた。


「今のところ決定的な証拠ではない。しかし、金の流れや文書に残った痕跡を辿ると、殿下の名前が暗号のように使われている節がある。直接本人が指揮を執っているかどうかはわからないが、少なくともエドワード殿下が黙認しているか、あるいは利用している可能性は高い」


「そんな……。もしそれが事実なら、国にとって重大な問題です。殿下は次期国王の座を担う存在。そんな方が不正な取引に手を染めているなんて、許されるはずがない」


 リディアは声を荒げそうになりながらも、何とか感情を抑える。思い出すのは、エドワードがリディアに対して激しい拒絶感を示していた理由だ。もしかしたら、王太子妃として王宮に馴染もうとするリディアが、この秘密に気づくことを恐れたのかもしれない。あるいはローザの存在を隠すために、リディアを“妃の座から追い出す”必要があったのではないか。そう考えると、不貞疑惑を“捏造”された流れが合点がいく気がする。


 グレゴリー公爵は続ける。


「さらに言えば、あの“ハンカチ騒動”――あれもローザ陣営の仕業だろうという話が浮上してきた。おまえを追放することで、ローザ自身が正妃の座に就こうとしていたとも噂されている。王太子妃が失脚すれば、殿下に愛されるローザが王妃候補として浮上してくるからな」


「……やはり。私が王宮で聞いた“エドワード殿下には長年お慕いしている女性がいる”という噂が、本当に彼女だったのですね。ならば……私を追い落とすために、あの不貞疑惑を利用した、ということでしょうか」


「おそらくな。もっとも、エドワード殿下がどの段階から仕組んでいたかはわからない。少なくとも、自分のもとへ嫁いできたブランシュ家の令嬢など最初から邪魔だった――そう考えても不思議ではない」


 それを聞いて、リディアの胸中には怒りと切なさ、そしてわずかな安堵が交錯した。疑惑が晴れたわけではないが、少なくとも「自分が悪かったわけではない」と証明されつつあるからだ。自分を押し出してまで不正に手を染め、ローザと通じ合っていたエドワード。そんな人物が次期国王になるなど、到底認められない。


「しかし、これほどまでの不正をどうして国王陛下が黙認しているのか、私には理解できません。陛下なら、正しい情報を掴んだ時点で動かれると思うのですが……」


 リディアが首をかしげると、公爵はさらに厳しい表情を浮かべる。


「今の国王陛下はご高齢で、王宮の政治はかなり複雑化しているのだ。エドワード殿下は次期国王の有力候補として大勢の貴族を従えており、陛下にとっても“息子を簡単に疑う”という行為は重い決断を要する。陛下が真実を知らない可能性もあるし、ある程度知っていても、簡単に動けないのかもしれん」


「……そう、ですよね。王家の体面もありますし、殿下は第一王子。外部から糾弾される形になれば、王家の権威自体が揺らぎかねない」


「だからこそ、我々のような“外部”が情報を集め、決定的な証拠を握る必要がある。ブランシュ公爵家は、歴史ある名門であり、国にとっても大切な地位にあるからな。私が睨んだところで、そう容易には潰されないだろう。そして、この件を暴けば、結果としてエドワード殿下を失脚させることになるかもしれない。――それでも、おまえは構わないのか?」


 グレゴリー公爵の問いに、リディアは強い意志を込めて頷いた。もはやエドワードに対する未練はほとんど残っていない。むしろ、あの男の不正を暴き、国を危険に晒すような行為を止めることこそ、自分の責務ではないかと思える。


「構いません、お父様。私には……このまま黙って見過ごすことなどできません。私を追放し、罪を擦り付けたうえで、あのような不正に手を染めて国を混乱させるのなら――王太子としての資格はないと、そう思います」


「よかろう。では、遠慮なく動くとしよう。おまえにも協力してもらう場面があるはずだ。その時は、心してかかるのだぞ」


「はい」


 リディアは深く頭を下げた。久々に胸の奥から力が湧いてくるのを感じる。絶望の淵に突き落とされて以降、ずっと自分を責め、うちひしがれてきた。だが、今ようやく、前を向くきっかけを得た気がする。もしこの状況を打破できれば、自分に着せられた不名誉も晴らせるだろう。そして、国の未来を正しい方向へ導く手助けにもなるかもしれない。


 グレゴリー公爵は机の上の書類をまとめながら、さらに続けた。


「まずは決定的な証拠を集めることだ。ローザ・ガルニエの周囲にはいくつか鍵を握る人物がいると睨んでいる。特に、ローザの兄が運営している商会“ガルニエ・トレード”の動きが怪しい。そこが密輸の拠点になっているとの情報がある。王都で大規模に商売を展開しているらしいから、調べる余地はあるだろう」


「なるほど。確かローザには兄がいたと……。どうやってそこに近づけばいいのでしょうか?」


「私の部下を何名か王都に向かわせ、商人たちに接触させるつもりだ。やつらの裏の取引がどこで行われているかがわかれば、現場を押さえられるかもしれん。あるいは“おまえの名誉回復を望む重臣”が極秘で協力してくれる可能性もある」


 名誉回復――その言葉がリディアの耳に心地よく響く。なんとしてでも、あの不貞疑惑を覆さなければならない。自分は潔白であることを知ってほしいし、ブランシュ家に泥を塗られたままというのも耐え難い。


「わかりました、お父様。私も何かできることがあれば、力を尽くします。……正直、ずっと部屋にこもって塞ぎ込んでいるのは、もういやですから」


 その言葉に、公爵はわずかに口元をほころばせた。


「おまえがそう言ってくれて何よりだ。私も、あのまま何もせずにおまえが萎れていく姿を見るのは忍びなかったよ。……では、ここから先は私たち親子の反撃といこう」


 グレゴリー公爵が差し出す手に、リディアは恐る恐る重ねた。親娘としての固い絆の再確認。温かい手のぬくもりを感じながら、リディアは目を瞑り、自分の胸に問いかける。――“本当に、ここから先は戦いになるかもしれない。それでも、逃げ出さない”と。


 答えは決まっている。今はただ、毅然と前を向くのだ。


 リディアが父の指示で“小さな仕事”を依頼されたのは、それから数日後のことだった。公爵の部下たちが集めてきた情報を整理し、細かい文書を読み解き、その中に不正の証拠が紛れ込んでいないか確認する――いわば裏方の作業である。リディアは王太子妃時代に王宮の書庫で行政文書を扱った経験があり、そうした書類の読み解きにはある程度慣れていた。それを知っていたグレゴリー公爵は、リディアの“頭脳”を高く買っている。


「お嬢様、こちらの会計記録をご覧になってください。妙に日付が飛んでいる箇所がございます」


「どれどれ……。あら、確かに変ですね。普通なら月毎に記載があるはずなのに、何か抜け落ちていますね」


 イザベルが手渡した書類を覗き込みながら、リディアは眉をひそめる。現実的に考えて、一時的に計上を飛ばすという行為は税金や関税を誤魔化す時に使われる手口だ。商売自体は表向きに出していても、特定の期間だけ記録を残さないことで“闇取引”の数字を隠している。これが“ガルニエ・トレード”の会計記録であることを考えると、密輸との関連を疑わざるを得ない。


「さらに、この記録が書かれた筆跡と、別のページの筆跡が微妙に違うように見えます。おそらく後から書き足したか、もしくは別人が書いたか……。数字の端が不自然に歪んでいますし、なんだか取り繕っているような印象を受けます」


「私もそう思っていました。もしや、別の真っ当な取引帳簿に見せかけて、不正な内容を一部だけ紛れ込ませているのではないかと……」


「ええ。ここを徹底的に洗い出せば、何かしらの矛盾を突けるかもしれません。……イザベル、手伝ってくれてありがとう。私一人では手が足りないわ」


 リディアが微笑みかけると、イザベルも安心したように笑みを返す。彼女はリディアの幼馴染のような存在であり、リディアが落ち込んでいた時期もずっと支えてくれた。今、こうして再び目標に向かって行動するリディアの姿を見て、少しだけ安心しているのだろう。


 このように、書類を精査していく作業は地道ではあるが、着実に成果を挙げていた。会計記録の矛盾を掘り下げると、いくつかの商品の輸出入に“謎の空白期間”があったり、税関を通さずに処理されている節が見つかったりする。そこへグレゴリー公爵の部下が持ち帰った情報――「どの港でどれほどの積み荷が降ろされたか」という証言――を組み合わせれば、だんだんと“密輸”の全貌が浮かび上がってきた。


「この積み荷……表向きは王家へ献上すると記載されているけれど、実際に王宮の倉庫へ入った形跡がないですね。殿下が管理しているはずの倉庫番号も記載されているのに、そこには在庫が記録されていない……」


 リディアが書類を指しながら呟くと、隣で聞いていたグレゴリー公爵が頷く。


「つまり、表向き“王家への献上品”として運んでいるように見せかけて、実際には闇で転売している可能性があるわけだな。こうなると、もはや殿下の名を利用した詐欺行為だ。しかし、そこに殿下本人が一枚噛んでいるのかどうか……」


「そこが問題ですね。もし“殿下は何も知らなかった”という言い訳をされれば、真相解明は難しくなるかも……」


「ふん。まあ、本人がまったく知らないというのは考えにくいが……。いずれにせよ、確かな証拠を掴んで国王陛下に直訴できるような状態を作らねばならん」


 グレゴリー公爵は腕組みをして考え込む。王家の恥部にもなり得る不祥事である以上、国王陛下へ直接報告するからには「動かざるを得ない」ほどの強固な裏づけが必要だ。生半可な証拠を持ち込んでも、王太子の権勢に潰される可能性もある。そればかりか、逆にブランシュ家が謀反を企んでいると誤解されるリスクすら存在するのだ。


 そこで鍵となるのが、第二王子セドリックの存在だった。グレゴリー公爵が集めた情報によると、セドリック王子は公務こそ多くはないが、王都や地方を頻繁に視察し、実直に人々の意見を取り入れているという。派手な行動は控える一方で、人望はそれなりに高く、貴族や市民からも好印象を持たれているらしい。王位継承は第一王子が優先されるのが通例だが、もし第一王子エドワードが失脚すれば、セドリックが次の王太子候補になるだろう――そう囁かれている。


「おまえが王宮にいた頃、セドリック王子と面識はあったのか?」


 グレゴリー公爵が問うと、リディアは少し目を伏せながら答えた。


「ほとんど……挨拶程度でした。殿下(エドワード)の周囲ばかりを気にしていて、セドリック様とは深いお話をしたことはありません。でも、お見かけした時には、とても穏やかな方だという印象を受けました。私には敬意を払ってくださって、いつも優しく微笑んでくださいました」


「なるほどな。やはり人となりは悪くないか。それなら、こちらが動きを見せた時に協力を仰ぐ可能性があるな。セドリック王子が“エドワード殿下の闇”に興味を持ち、王家として正しい判断を下そうと考えるなら、王子と手を組むこともできる。……そのほうが陛下に話を通しやすいだろう」


「ええ。ただ、私の口から“殿下が不正に手を染めている”などとお伝えしても、最初は信じていただけないかもしれません。立場上、兄王子を告発することはセドリック様にとっても大きなリスクですもの」


「そこは時間をかけて足元を固めるしかない。……おまえにいずれ会ってもらうことになるかもしれんが、今は焦るでないぞ」


 グレゴリー公爵はそう言って、机の上にある大量の書類をトントンと整えた。リディアも「はい」と軽く息をつく。これだけの資料をまとめるだけでも容易ではない。だが、今まで失意に沈んでいた彼女にとっては、久々に達成感を得られる作業だった。


 かつて王宮で学んだ知識が役に立っている。それがどこか嬉しかった。王太子妃としては報われなかったが、すべてが無駄だったわけではないのだ。その思いが、リディアの足を前へと進ませる大きな原動力になっていた。


 そんな日々が続いて数週間後、グレゴリー公爵の調査網はついに“重大な証拠”を入手するに至る。密輸の現場を押さえた者が現れたのだ。公爵の部下であるシルバンという元騎士が、王都から離れた港町で、ガルニエ家が闇取引をしている様子を目撃し、しかもこっそりとそれを記録に収めることに成功したらしい。


「具体的には、夜中に船が入港し、その積み荷を通関手続きなしで荷下ろししていた。近くの倉庫には“王家から派遣されたらしい人物”が現れ、何やら書類を確認しつつも“特別扱い”だと言って通していたそうだ」


 グレゴリー公爵は、シルバンから提出された報告書をリディアに見せながら説明する。その“王家から派遣された人物”の詳細は不明だが、少なくとも普通の官吏ではないとのこと。しかも、その現場には“R・G”というイニシャルが刻まれた木箱が多数あったと報告されている。“R・G”――ローザ・ガルニエ、あるいはガルニエ家を示すイニシャルの可能性が極めて高い。


「まだ完全な確証を得るには足りないが、この目撃証言と荷物に残されたイニシャルは決定打になり得る。さらに、シルバンは密かに木箱の一部から商品サンプルを持ち帰ってきた。極めて高額で取引されるはずの宝石や薬草が混ざっているらしい。正式に輸入されれば多額の関税がかかるはずだが、それを完全にすり抜けている」


 リディアは報告書に目を走らせながら、唇を結んだ。エドワードがどこまで関わっているかはまだ定かではない。しかし、ローザとその家が不正を働いていることはほぼ確実といえるだろう。自分を追放したあの一族は、王家の名誉を踏みにじり、多大な私利を貪っている。考えるだけで怒りがこみ上げてくるが、ここは冷静に進めなければならない。


「ですが、お父様。これだけの証拠があっても、王宮に切り出すタイミングが肝心です。下手に動いて証拠を握りつぶされては元も子もありません」


「わかっている。だからこそ、セドリック王子を味方につける算段を進めているのだ。実は、王子の側近と密かに連絡を取ることに成功してな。日を改めて会合を持てそうだ」


「本当ですか……?」


 リディアの目が見開く。セドリック王子との会合――それはすなわち、“エドワードへの不正疑惑”を王家内部に訴えるための第一歩となり得る。セドリックが疑惑を共有し、国王陛下に取り次いでくれれば、一気に形勢を逆転できるかもしれない。


「この話をセドリック王子がどう受け止めるかは未知数だが、少なくとも王子の側近は『それが国のためになるなら、王子は耳を傾けるだろう』と前向きに話しているらしい。……当日、おまえも同行してくれ。ローザやエドワードとの経緯を、直接王子に語るのだ」


「わかりました。私にできる限り、事実を包み隠さずお伝えします」


 リディアはきっぱりと答えた。胸の奥に不安はある。自分がどれほど必死に訴えても、セドリック王子が“兄の名誉”を守るために拒絶する可能性もあるからだ。だが、思い出すのは、王宮でちらりと会った王子の優しい眼差し。あの人なら、きっと真摯に話を受け止めてくれるのではないだろうか――そんな淡い期待が、リディアを支えていた。


 やがて数日後、グレゴリー公爵はリディアを伴い、王都の外れにある狩猟小屋へ向かった。そこは貴族や王族が狩りの際に使う隠れ家的な建物で、今はほとんど使われていない。ここなら人目を避けて会合ができるというわけだ。


 馬車を降り、木立の中を少し進むと、身なりのいい男性が二人待っていた。片方はセドリック王子の侍従長であるフィリップという人物で、グレゴリー公爵の部下が連絡を取っていた相手。もう一人は――浅黒い髪を持ち、落ち着いた面差しが印象的な青年。見覚えのある顔立ちに、リディアはすぐに悟る。


(セドリック王子……!)


 以前王宮で遠巻きに見た時よりも、やや痩せたようにも感じるが、その瞳には知性と優しさが宿っている。リディアが急いで礼を取ろうとすると、セドリック王子は柔らかな声でそれを制した。


「どうぞ、そのままで……。お久しぶりです、リディア・ブランシュ。こんな場所までわざわざ来ていただき、ありがとうございます」


 王子はそう言って、一度リディアに視線を合わせ、すぐにグレゴリー公爵へと向き直る。おそらく、リディアが深々と頭を下げるのを好まないのだろう。そこには王族らしい尊大さは感じられず、むしろ気遣いを滲ませる態度があった。


「公爵殿、ここにお呼びくださった理由は存じ上げております。兄上――エドワード殿下の不正疑惑と、ブランシュ家の受けた理不尽な処遇の件ですね」


 フィリップ侍従長が「まさにその通りです」と補足するように言い、グレゴリー公爵はうなずいた。そして、セドリック王子に向かって深く礼をする。


「王子に直接お目通りいただき、感謝いたします。私としては、ブランシュ家の名誉を回復するためにも、そして何よりこの国の将来を守るためにも、殿下の不正を見過ごすわけにはいきません。……この書類をご覧ください」


 グレゴリー公爵が持参した書類の束を広げると、セドリック王子は真剣な面持ちで一つひとつ目を通し始めた。リディアはその横で息を詰める。彼がどんな反応を示すか――それは今後の運命を左右する大事な瞬間だ。


 書類には、ローザ・ガルニエとガルニエ子爵家の密輸疑惑、闇取引の記録、関係者の証言などが克明にまとめられている。さらに“王家の名”がどのように利用されているか、その時に“エドワード殿下”の関与が疑われる根拠なども列挙されていた。王子は難しい顔をしながらページをめくり、時折フィリップ侍従長と短く言葉を交わす。


「もしこれらの情報が真実なら、極めて重大な問題です。兄上が直接手を染めているのであれ、見逃しているのであれ、国の根幹を揺るがす不正行為に他なりません。ブランシュ公爵、この証拠の信憑性は?」


「調査には私の精鋭を使っています。裏取りもできるだけ行っております。まだ兄上の関与を断言できる段階ではないかもしれませんが、ガルニエ家が闇取引を行っているのはまず間違いありません。かつ、その背後に王家をかたる何者かがいる――これは事実です」


 公爵の言葉に、セドリック王子は唸るように息を吐く。そして、視線をリディアへ移した。


「……リディア。あなたは、兄上から不貞の罪を着せられて追放されたと聞いています。あれほど高潔なあなたが、不貞など働くはずがないのに、と私も内心では疑問を抱いていました。なのに、あの時は何もできなくて、申し訳ありません」


 その言葉に、リディアは思わず目を伏せる。セドリック王子が自分を案じてくれていたとは、意外だった。しかし、その優しさに甘えるわけにはいかない。この場は、あくまで“事実”を伝えるための場所だ。


「いいえ……王子に謝られるようなことではありません。あれは私の力不足です。ですが、私の名誉を回復するかどうかを抜きにしても、ローザという女性とガルニエ家が関わっている不正行為が、この国のためにならないのは明白です。王子は、それを知ってもなお、兄上を庇われますか?」


 リディアは勇気を振り絞って問いかける。セドリック王子の答え次第では、すべてが瓦解するかもしれない。だが、その返事は穏やかで、力強かった。


「いいえ。このような不正が本当に行われていると知った以上、王家としても放置はできません。たとえ相手が実の兄上であろうと、正すべきは正さなければ、国が崩壊する。……私も、王家の一員としてそれくらいの覚悟はあります」


 その言葉を聞いた瞬間、リディアの胸に熱いものが込み上げる。セドリック王子は兄に対する情よりも、国の未来を優先する意思を示したのだ。そして、同時に“リディアを見捨てるつもりはない”という決意も感じられた。


 王子は改めて公爵が提出した資料をパラパラとめくり、時折侍従長と目配せを交わしている。おそらく、これらの証拠をどうやって国王に提出するか、兄王子エドワードにどう対処すべきかを考えているのだろう。


「ここまで明確な疑惑があるならば、近いうちに父上――国王陛下に直接お目通り願い、報告させていただくべきでしょう。ただ、兄上が何らかの手を打ってくる可能性もある。どうか公爵とリディアは注意を怠らず、さらなる証拠の確保にも努めていただきたい」


「承知しております。こちらでも万全を期して動くつもりです」


 グレゴリー公爵が深々と頭を下げる。セドリック王子はまたリディアを見て、小さく微笑んだ。


「リディア、あなたには辛い思いをさせたね。兄上の振る舞い、そして周囲の中傷……あなたが受けた仕打ちは余りにも大きい。もしあなたにまだ王宮で成し遂げたいことがあるなら、私ができる限りの協力をしよう」


「……ありがとうございます、王子」


 リディアの目から熱いものがこみ上げ、あふれそうになる。王族の一人にこうして真摯な言葉をかけてもらえるなど、追放された身としては思いもよらなかった。それは単なる同情ではなく、心からリディアを気遣う誠意だと感じられた。


(やっぱりこの方は、兄王子とは全く違う……。どうして今まで気づかなかったのだろう)


 王太子妃として嫁いだ時期、リディアはエドワードの機嫌を取ることに精一杯で、セドリック王子に目を向ける余裕がまるでなかった。だが今、ようやく二人が正面から言葉を交わすことになり、リディアはセドリック王子の人柄に触れる。そこには穏やかながらも芯の通った気高さがあり、その存在感に不思議と胸がときめくのを覚えた。


 一方、セドリック王子もまた、リディアの毅然とした態度や凛とした表情に、一瞬だけ息を呑んだ様子を見せる。そして軽く咳払いし、視線をさっとそらす。それを間近で見ていた侍従長フィリップは、微笑ましそうに口角を上げたが、何も言わなかった。


「では、詳しい打ち合わせはフィリップを通じて行いましょう。私も可能な限り、王宮内の動向を探っておきます。兄上やガルニエ家がこれ以上何かを企んでいても、気づけるようにしておかないと……」


 そう言ってセドリック王子は、資料の束を大事そうに携える。その姿には、たしかに“王家”としての威厳や決意が感じられ、リディアはしみじみと感嘆した。もしこの王子が次代の王位を継ぐことになれば、国はきっと穏やかに、まっとうに導かれるのではないか――そんな期待が膨らむ。


 こうして、公爵家とセドリック王子の間で“不正告発”に向けた協力体制が固まった。エドワード王太子の闇を暴き、国王にその実態を示すという大きな挑戦。失敗すれば、ブランシュ家やセドリック王子自身に甚大な打撃が及ぶだろう。だが、もう後には引けない。リディアは覚悟を定める。


(私はこのまま終わりたくない。真実を明らかにして、国を守る手助けをしたい。そして……私を追放したあの人たちに、“ざまあ”と言ってやりたい)


 握り締めた拳に力がこもる。リディアの目には、もうあの頃のような絶望の色はない。代わりに、真摯な決意と燃えるような情熱が宿っていた。


 その後、ブランシュ公爵家とセドリック王子が動き出したことで、王宮内は微妙にざわつき始める。まだ表立って行動しているわけではないが、敏感な貴族たちは何かの予兆を感じ取っていた。エドワード王太子もまた、リディアを追放して以降、ローザ・ガルニエを連れて王宮の一部を“私物化”しているとの噂があり、重臣たちの中には苦々しい表情を隠せない者も多い。


「王太子がローザを王妃候補にしようとしている、などという話もありますが……。あれが本当なら、いずれ公に発表するはず。そうなる前に、我々は証拠を揃えて一気に動く必要がありますね」


 グレゴリー公爵がそう言い、リディアは強くうなずいた。今はまさに機が熟すのを待つ段階だ。いつでも動けるように準備を万全にしておく。もう一度、あの王宮に乗り込む日が来るのだろう――だが、今度は“追放される女”ではなく、“正義を携えた告発者”として。


 この瞬間、リディアは心のどこかで確信していた。――必ずや、あの冷酷な王太子と、その取り巻きが企む不正を白日の下に曝してみせる。自分が味わった屈辱や苦しみは、決して無駄にはしない。そして最後に、言ってやりたい。

“これが私のざまあよ”――と。


 それはまだ、氷山の一角にすぎない。だが確実に、エドワード王太子が歩む道は暗い影を孕み始めていた。ローザ・ガルニエもまた、闇取引が近く暴かれることを知らぬまま、王太子妃の座を射止めようと躍起になっている。運命の歯車は大きく回転し、いずれ回避不能な“破滅”へと繋がっていく――。





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