ブランシュ公爵家とセドリック王子の間で結ばれた極秘の協力関係は、着実に大きなうねりを生み出していた。いまや、エドワード王太子とローザ・ガルニエたちによる不正の証拠はかなりの数が揃い、国王陛下に直接報告するための下準備は整いつつある。だが、それは同時に“最終決戦”の時が近いことを意味していた。何せ、第一王子たるエドワードを糾弾するというのは、王家の根幹を揺るがす一大事。たとえ十分な証拠があろうとも、一歩間違えればブランシュ家やセドリック王子が「謀反の徒」と見なされかねない危険を伴う。
それでも、リディア・ブランシュは恐れよりも決意を強くしていた。自身が被った汚名、不貞疑惑の真実、そしてこの国を正しい方向へ導くために、すべてを賭けようと思っている。王太子に切り捨てられたあの日の屈辱を無駄にしたくない。父グレゴリー公爵や、手を差し伸べてくれたセドリック王子のためにも、今度こそ“王宮の闇”を暴き、エドワードの罪を告発しなければ――。
実際の行動に移すきっかけは、ローザ・ガルニエに関する“ある噂”が決定打になった。彼女が、「近々、エドワード王太子との婚約を正式に発表する」 と豪語しているというのである。すでにリディアを追い出して王太子妃の座を空けた後は、あたかも自分が代わりの王妃候補になるかのように振る舞っており、ローザ自身も周囲の貴族たちを取り込もうと躍起になっているようだった。
このまま王太子とローザが婚約発表を強行し、不正な利権を握った者たちと結託すれば、国政はさらに混乱を極めることになるだろう。
――そこで、セドリック王子はブランシュ公爵家へ書簡を届け、「時期を逃すわけにはいかない。近いうちに王宮で“証拠”を公表し、国王陛下に全容を報告する場を作る」と告げてきた。誰が味方で、誰が敵か分からぬ厳しい状況だが、やるなら今しかない。リディアたちの覚悟は決まっていた。
一、王宮への帰還
ある晴れた午後、リディアはブランシュ公爵家の馬車に乗り、父グレゴリー公爵とともに王都へ向かった。再び王宮へ足を踏み入れるのは、あの追放以来初めてのことだ。あの門を出るときの惨めな気持ちが蘇り、胸がざわつく。しかし、もう何も恐れるまい――リディアはそう自分に言い聞かせる。
馬車の窓から見える景色には、多くの市民が行き交い、活気づいた店が並んでいる。以前は、リディアが王太子妃として華やかなドレスをまとう姿を見て、歓声を上げてくれた人々も少なくなかった。だが今、彼女は質素な装いに身を包んでいる。「追放された妃が戻ってきた」などという噂が流れれば、何か波乱の前兆を感じ取る人もいるだろう。それでも、視線を真っ直ぐ前へ向け、王宮の巨大な門が視界に入った瞬間、リディアはぎゅっと拳を握った。
「お嬢様、どうかお気を確かに……」
そばに控える侍女のイザベルがそっと声をかける。イザベル自身、気丈な様子を見せるリディアを心配しつつも、これ以上は止められないという覚悟を持って付き従っていた。リディアはかすかに微笑んで、「大丈夫よ」と小声で返す。
門番たちは、公爵家の紋章が刻まれた馬車を見て軽く敬礼をした。リディアの姿を見ても動揺することはない。どうやら事前にセドリック王子から通達が入っており、“ブランシュ公爵家の客人を城内へ案内せよ”との指示が出ているらしかった。かくして、リディアは正式な手続きのもと、再び王宮の敷地へ足を踏み入れる。
(……変わらないわね。あの日と同じ、広大な敷石、高い尖塔、手入れの行き届いた花壇……)
ひそかに息を飲む。懐かしさというよりは、複雑な苦味が込み上げてくる。あの晩餐会でエドワードから“破綻”を宣言され、不貞の汚名を着せられた記憶が鮮明だ。いまは花々が優美に咲き誇っていても、その光景はリディアの胸を痛ませる。だが彼女は足を止めず、セドリック王子の侍従が待つ玄関ホールへ向かって進んでいった。
二、セドリック王子の言葉
玄関ホールには、セドリック王子の侍従長フィリップが出迎えのために立っていた。彼はグレゴリー公爵とリディアに深く礼をすると、王宮の奥へと案内を始める。今日の会合は、「セドリック王子の主催する小さな茶会」という名目で開かれる予定だ。表向きはプライベートな集まりとして扱われるため、エドワード王太子やローザたちも、それほど大袈裟な警戒はしていないはずである。
通された部屋は、王族が小規模な客人を招く際に使う優雅なサロンだった。金糸の織物が飾られ、緩やかな陽光が差し込む窓辺には、高級な椅子とテーブルが並んでいる。かつてリディアも、王太子妃としてそうした空間で来客をもてなしたことがあったが、今は遠い日の思い出だ。
「ブランシュ公爵、そしてリディア。よくお越しくださいました」
すでにサロンの中央で待っていたのは、セドリック王子その人だ。周囲を警戒するかのように視線を走らせながら、しかし穏やかな微笑みを湛えて二人を出迎える。リディアたちは王子の前で軽く礼をしたが、セドリック王子は「形式ばらずに」とすぐさま止める。
「まずは、お二人の勇気に感謝します。私の招きに応じてくださるのは、きっと簡単な決断ではなかったでしょう。……リディア、ご気分はいかがですか?」
問われたリディアは、はっきりとした声で答えた。
「お気遣いありがとうございます。私は……もう迷いはありません。どうか、私たちの持ってきた証拠をしっかりとご覧になっていただきたいです。そして、もし可能ならば、国王陛下にお取り次ぎを」
セドリック王子は真剣な表情でうなずき、「もちろんです」と応える。
「実は、父上(国王陛下)は最近、体調が優れないようで、公務を一部セドリック王子が代行しているという話を耳にしましたが……」
グレゴリー公爵が問いかけると、セドリック王子は少し苦い顔を見せた。
「兄上……エドワード殿下が何かと強引に政務を取り仕切ろうとしているのです。父上が体調不良のため執務が遅れがちになると、それを“権力拡大”のチャンスと捉えているのかもしれません。私はあくまで補佐役として、父上の負担を減らしているに過ぎませんが」
「……なるほど。となると、国王陛下は現状を把握しづらいというわけですね」
「ええ。そこで、私が父上に直接“ある話”があると言って、少し時間をもらうつもりです。その席に公爵とリディアを同席させ、証拠の数々を提示する。……ただ、問題は兄上がそれを察知し、邪魔をしてこないかどうか、です」
セドリック王子がそう言い終わらぬうちに、フィリップ侍従長が低い声で言った。
「すでに王太子側は、今日の茶会にブランシュ公爵がいらっしゃることを知っている可能性があります。城内の動きがどこか落ち着かず、あちらこちらで警戒態勢のようなものが敷かれている印象です。ローザ・ガルニエの取り巻きが、おそらく兄上(王太子)に動向を報告しているのでしょう」
「……そうか。ならば、そう遠くないうちに動きがあるかもしれませんね」
グレゴリー公爵が静かな闘志を燃やす。リディアも緊張感を覚えながら、思わず視線を落とす。自分の無実を証明するためにも、ここで退くわけにはいかない。エドワードやローザたちの邪魔が入ろうとも、正面から立ち向かうしかないのだ。
「はい。ですが、危険は承知のうえです。必ず、国王陛下にお会いし、すべてをお伝えします」
リディアが決意を示すと、セドリック王子は微かに目を細めて微笑んだ。その眼差しには“あなたを信じています”という思いがこもっているように感じられ、リディアの胸に小さな安堵が広がる。
三、王太子の罠
しかし、事態はそれほど甘くはなかった。王宮内での茶会が始まってまだ間もないというのに、突如としてセドリック王子のもとに“兄からの呼び出し”が届いたのだ。侍従を通じてエドワード王太子が告げてきたのは、「久方ぶりに弟と会食したい。親睦を深めるために、今すぐ執務室へ来てくれないか」という主旨の言葉。普段から弟に無関心に近かったエドワードが、こんなタイミングで声をかけてくるなど不自然すぎる。
「これは、兄上がこちらの動きを察知して、何らかの牽制に出たのでしょうね」
セドリック王子は憂いを帯びた表情でそう呟く。何か裏があるに違いないが、呼び出しを無視するわけにはいかない。王太子としての権力を行使されれば、セドリックを謀反の疑いで拘束することも可能なのだから。
フィリップ侍従長は警戒しつつも、「ここで断れば余計に怪しまれます」と苦渋の表情を浮かべている。グレゴリー公爵も「セドリック王子が無事に戻れるかが肝要だ」と語り、リディアは心配そうに唇を噛んだ。
「王子……。私たちはここでお待ちしていたほうがよろしいでしょうか?」
「そうですね。父上にお会いする予定はもう少し後ですし……私が執務室で兄上と話をしている間、どうか騒ぎを起こさず待っていてください。万一、私が戻れないようなことがあれば、フィリップを通じて脱出の手段を確保していただきたい」
「ですが、それでは……」
「大丈夫。兄上は私を排除する気なら、もっと直接的な手段を使ってくるはず。わざわざ“会食”などと体裁を整えて呼び出すのは、こちらの情報を引き出す狙いか、あるいは牽制が目的でしょう。ならば逆に、私は何も知らないふりをして相手の腹を探ってみます」
セドリック王子の言葉には、ゆるぎない落ち着きがあった。リディアは不安を拭えないまま、王子に深く礼をした。
「どうか、お気をつけて……」
「ええ。必ず戻ります。あなたを含め、皆さんがここで無事に待っていると信じて」
そう言って王子は微笑み、フィリップ侍従長を伴ってサロンを後にした。その背中を見送るリディアの胸には、複雑な思いが渦巻いている。セドリック王子とほんの短い言葉を交わすだけで、安堵を覚える自分がいる一方、彼の身に危険が及ぶ可能性を想像してしまうのだ。心細さを感じながらも、今は彼の無事を信じるしかない――。
セドリック王子がサロンを出て行ってから、しばらくの間は静寂な時が流れた。グレゴリー公爵が持参した資料を再確認しながら、どのように国王陛下に提出するかの打ち合わせを進める。リディアはその作業に集中し、気を紛らわせようとするが、やはり胸はざわついて落ち着かない。
そんな状況に変化をもたらしたのが、突然サロンの扉をノックする音だった。控えめな音だが、空気が張り詰まる。侍女のイザベルが「はい」と応じると、扉の向こうにいたのは見知らぬ女官だった。どこか怯えた表情を浮かべ、リディアの姿を確認すると、そっと声を潜めてこう言う。
「リディア・ブランシュ様……でしょうか。少し、お耳に入れたいことがございます」
リディアは怪訝な面持ちでうなずいた。グレゴリー公爵も警戒の色を隠せないが、女官の表情には敵意らしきものは見当たらない。むしろ切迫感がにじみ出ている。リディアはグレゴリー公爵に軽く目配せし、「話を聞きます」と告げると、女官は安堵のため息をついた。
「ありがとうございます。実は……エドワード殿下が、兄弟水入らずの会食などという名目でセドリック王子様を呼び出し、実際には“拘束”に近い形で引き止めているのです。さらにローザ・ガルニエが同席して、“不審な動きをする者は排除せよ”と、騎士たちに命じているとか」
「なっ……!」
リディアは驚きと焦りを露わにする。まさか、すぐさまセドリック王子が拘束される事態に陥るとは予想外だった。グレゴリー公爵も表情を険しくして立ち上がる。
「その情報は確かか?」
「はい。私の知人がその場に居合わせ、耳にしたそうです。エドワード殿下は“セドリックが妙な動きをしているのは、ブランシュ家の差し金だろう”と疑っているとのこと。いまセドリック王子様は執務室に留め置かれ、近くの部屋でローザや騎士団が相談をしているようです」
女官が伝えてくれた情報は、まさに一触即発の危機を意味している。もしセドリック王子が正式に“謀反”の疑いをかけられれば、王太子の権限のもと、裁判すら開かれずに幽閉される可能性もある。そうなれば、リディアやグレゴリー公爵が抱える証拠を国王陛下に届ける道は断たれてしまうだろう。
「これを知ってしまった私は、じっと見過ごすことができませんでした。……私だって王宮で働く身。殿下やローザに目をつけられるのは怖いのですが、それでもセドリック王子様があまりに気の毒で……」
女官はそう言って涙ぐみそうになっている。リディアはその善意に感謝の思いを抱きながら、緊迫感を伴う声で尋ねた。
「ありがとうございます。王子が囚われている執務室は……確か西翼の二階ですよね。そこへ私たちが直接行っても、会えない可能性が高いでしょうか?」
「今のところ、殿下とローザ以外の者の立ち入りは固く禁じられているようです。ですが……セドリック王子様のお身体に危害を加えるとまでは聞いていません。おそらく、まずは“どこまで証拠を掴んでいるのか”を探るのが目的かと」
リディアは奥歯を噛んだ。セドリック王子の安全が確保されているのであれば、こちらも下手に強行して騒ぎを起こすより、王子が戻ってくるのを待ったほうがいいのかもしれない。だが、時間が経てば経つほどエドワード側も策を練えるはずで、最悪の場合、王子を口封じする方向に舵を切る可能性も否定できない。
グレゴリー公爵は苦渋に満ちた表情で、書類の束を抱きしめるように腕を組む。
「今ここで動けば、下手をすればセドリック王子を人質に取られ、我々は説得する手段を失う。かといって、ただ待っていては相手の思う壺だ……。困ったな」
王宮内にはエドワードを支持する者が多い。万一、衝突が起これば、力ずくでブランシュ家を排除される恐れもある。リディアは立ち尽くしながら、どうにか手立てはないかと必死に頭を働かせた。
(このままでは、セドリック王子が危ない。彼を助け出せなければ、国王陛下への道も閉ざされてしまう。……何とかして、エドワード殿下が王子を解放せざるを得ないように仕向けなければ)
考えた末、リディアはふと自分が持つ書類――“王家の名を使った密輸取引”に関する決定的なメモや証言書――に視線を移した。もしこれをエドワードが知れば、“一刻も早くリディアを潰さねば”と焦るかもしれない。だが逆に言えば、“今はまだ潰すに潰せない”という判断をさせられる材料になり得る。
つまり、“私たちは圧倒的な証拠を握っている。セドリック王子を解放しなければ、それを公にする”という形でエドワードを揺さぶることができるのではないか。もちろん、脅しのような形になるが、彼もローザも既にこちらを陥れようとしているのだから、相手に情けをかけている余裕はない。
「……お父様、私に一案があります」
リディアはグレゴリー公爵に向き直り、提案を始めた。その内容を聞いた公爵は、しばらく沈黙したが、やがて決意したようにうなずく。
「なるほど。上手く運べば、王太子がこちらに直接出てくるかもしれん。だが、非常に危ういやり方だぞ。最悪の場合、拘束されるのはおまえになる」
「構いません。ここで王子を見捨てるわけにはいきませんし、もともと追放された身。これ以上失うものはありませんわ」
リディアの瞳には強い光が宿っている。グレゴリー公爵もそんな娘の覚悟を受け止め、「わかった」と一言だけ答えた。そして二人は、女官と侍女を交え、急ぎ作戦のすり合わせを行い始める。
四、決闘の舞台
リディアの作戦はシンプルだった。
まず、リディアがわざと“王太子に会いたい”と騒ぎ立てる。そのうえで、“国王陛下に重大な証拠をお渡しするつもりだ”と周囲に聞こえるように話し、王太子一派の耳に届かせる。そうすれば、エドワードは「リディアが余計なことをする前に始末せねば」と考え、何かしら行動を起こすはずだ。
一方、グレゴリー公爵はセドリック王子が拘束されている執務室付近へ向かい、“万一何かが起これば、すぐに王太子と直接対峙する”準備を整える。その際、エドワードがセドリック王子を人質にして脅してくるなら、逆にリディアが握る“決定的な証拠”で切り返す――という算段だ。危険な賭けではあるが、今はそれしか方法が見当たらない。
早速、リディアは王宮の廊下へ飛び出し、わざと大きな声で周囲の者に向かって呼びかけた。
「私は王太子エドワード殿下にお会いしたいのです! 重大な用件があるとお伝えください! もしお会いいただけないなら、いまから国王陛下に直接ご報告申し上げますわ!」
その様子を見た通行人たちは驚き、ざわめく。中には、リディアを“追放された妃”と知っている者もいるだろう。だが構うことはない――とにかく声を上げて存在を誇示するのだ。案の定、ローザの取り巻きらしき女官や騎士が、険しい顔でリディアを取り囲み始める。
「ブランシュ公爵令嬢……いや、前妃殿下。あなたが勝手に王太子殿下に面会を求めるなど、許されるはずがありません。お引き取りを」
「これはただごとではありませんわ。どうしてもお目通りしたいのです。それとも、殿下に不都合がおありで? このままでは私、陛下のもとへ向かってしまいますけれど?」
あからさまな挑発を混ぜ込んだ口調に、取り囲んだ者たちは露骨に苛立ちを見せる。リディアの言葉を否定したいところだろうが、勝手に力ずくで排除すれば余計に目立ってしまう。それこそ国王陛下の耳に入れば大問題になる。取り巻きたちは判断に迷い、一旦引き上げるかどうか逡巡していた。
すると、廊下の奥から急ぎ足でやって来たのは、ローザ・ガルニエ本人だった。彼女は豪華なドレスに身を包み、宝石を散りばめた髪飾りを揺らしながらリディアを睨みつける。その表情には嫉妬と憎悪が混じり、かつてリディアが王太子妃として王宮を歩いていたころには見せなかった生々しい負の感情が浮かんでいる。
「あなた……久しぶりね、リディア・ブランシュ。まさか、また王宮に戻ってくるとは。これは一体どういうつもり?」
「こちらの台詞ですわ。私が追放された後、あなたがこの王宮でどんなことをしているのか――すでに掴んでいます。密輸に手を染め、王太子の権力を笠に私腹を肥やし、挙句の果てに次期妃の座を狙っているとか」
リディアが一気にまくし立てると、周囲は一斉に息を呑む。ローザは舌打ちしそうなほど苛立ちを露わにしながら、取り巻きに「ここは私が話す」と合図する。憎たらしいほど妖艶な微笑みを作り、リディアに顔を近づけて囁いた。
「そう……それが噂というものよ。でも、証拠があるわけ? あなたごときが手に入れられるような代物は、所詮噂レベルなんじゃないかしら?」
「いいえ。しっかりとした書類も証言も揃っています。ガルニエ家が密輸している現場を押さえた者だっている。王太子殿下がその利権を黙認していることも、もう隠し通せないでしょう」
リディアは堂々と宣言した。ローザは一瞬言葉を失ったように見えたが、すぐに鼻で笑う。
「ふふ、なるほど。だからわざわざ私の前で大声を張り上げていたのね。“王太子殿下に面会しないと、国王陛下に証拠を差し出す”と。脅しのつもり? あなたが何を言おうが、結局国王陛下が動かなければどうにもならないわ。陛下は今、あまり体調が思わしくなく、政治の実権は殿下が握っているのよ」
「それでも、私は陛下に直接お会いする気です。殿下がそれを阻むなら、ここで私を力ずくで排除するしかありませんわ。してごらんなさいな? その瞬間、私は“身を守るため”に証拠を外部に送り出します。……なに、手は打ってありますから」
リディアは決然とした口調でそう告げ、ローザの目を真正面から見据える。そこには一切の怯えがない。ブランシュ公爵家の血筋、そして長らく王太子妃として磨かれた威厳が、今になって花開いているかのようだ。
「…………!」
ローザが明らかに動揺した顔をする。もしリディアが本当に外部へ証拠を流したら、ガルニエ家も王太子の地位も大きく揺らぐ。ここまで騒ぎ立てられてしまった以上、下手にリディアを捕まえれば「口封じ」だと騒がれるのは必至。ローザとしては、どうにか丸め込んで証拠を闇に葬り去りたいが、その機会を失いつつある。
「……わかったわ。とりあえず、王太子殿下に報告するわ。あなたは勝手に動かないでちょうだい」
「待っているわ。それで、殿下がお会いしてくださらないなら、私は陛下のもとへ向かいますから」
ビリビリと火花を散らすような視線を交わし合ったあと、ローザは踵を返して取り巻きを従えながら去っていく。その背中を見送るリディアは、肝が冷えるような思いだった。しかし、ここで怯んでは何も変わらない。自分の意志を貫き通すしかないのだ。
五、最後の対峙
リディアの“挑発”から数刻後、結局、エドワード王太子は“リディアとブランシュ公爵を執務室に呼び出す”という形で動いた。セドリック王子を拘束している同じ場所へ招き入れ、“一気に解決”を図るつもりなのだろう。エドワードにしてみれば、密室で証拠を握るリディアと公爵をどうにかして黙らせられれば、セドリック王子に対しても徹底的な追及が可能になる。
「お嬢様……本当に大丈夫ですか?」
執務室への廊下を進みながら、イザベルが心配そうに声をかける。リディアは足を止めずに、「ありがとう、でも平気よ」と答える。続くグレゴリー公爵も一切動じた様子はなく、「最悪の場合は私がどうにかする」とだけ呟いた。
やがて、重厚な扉の前で騎士たちが待ち受ける。彼らは無言のまま中へ通した。扉が開くと、そこにはエドワード王太子とローザ・ガルニエ、そして背後には厳つい顔つきの騎士たちが数名控えている。脇にはセドリック王子の姿もあったが、椅子に座らされ、両腕を軽く拘束されていた。まさしく囚われの身だ。
「セドリック王子……!」
リディアが駆け寄ろうとすると、騎士の一人が剣の柄に手をかけて威嚇する。彼女は悔しさを噛み締めながら足を止め、セドリック王子の無事を確認。王子は大きな外傷はないようだが、疲労困憊の面持ちで、すまなそうな視線をリディアに向けていた。
「リディア……公爵……申し訳ない」
そうつぶやく王子をよそに、エドワードが冷たく言い放つ。
「フン、わざわざ自分から来てくれるとは。手間が省けた。ブランシュ公爵、そしてリディア・ブランシュ……おまえたちが密かに私の不正を掴んでいるそうじゃないか。さっさと証拠とやらを差し出せ。そうすれば、セドリックを解放してやらんでもない」
圧倒的な自信に満ちた口調。背後の騎士たちの視線も凄惨で、リディアとグレゴリー公爵を今にも捕らえようとしているようだ。ローザは傲然と微笑み、勝ち誇ったように腕を組んでいる。
「証拠を差し出したところで、あなたが誠実に受け取るとは思えませんけれど? どうせ破棄し、私たちを幽閉なり処分なりするおつもりでしょう」
リディアが睨み据えるように言うと、エドワードは鼻で笑う。
「そういう物言いをするなら、おまえたちに選択肢はない。セドリックはもう私の手の内にある。父上が動けない今、私を止める者は誰もいないのだ。さあ、どうする?」
圧倒的な立場を誇示する王太子――しかし、ここまでリディアが乗り込んできたのは、その強権の裏側を暴くためだ。グレゴリー公爵が一歩前へ出て、低く響く声で応じた。
「王太子殿下、あなたがそのように脅しをかけるほど焦っておられるということは、やはり“覚え”がおありというわけですな。すべてを無実と言い切れるのであれば、堂々と国王陛下の前で決着をつけられるはずだ」
「ふざけるな。私に命令するのは父上と母上くらいのものだ。ブランシュ公爵、貴様こそ謀反の罪で処分できる身分であることを忘れるな」
エドワードが声を荒げると、騎士たちが剣を引き抜きかける。緊迫する空気のなか、ローザが甘ったるい声をあげて横槍を入れた。
「いいじゃない、殿下。証拠とやらを出させて、私たちの前で破棄して差し上げましょうよ。ついでに、ブランシュ公爵家など二度と立ち上がれなくなるように」
周囲が邪悪な笑いに包まれかけた、その瞬間。リディアは意を決して、胸元から一通の書簡を取り出した。エドワードとローザはそれを狙うように目を光らせる。リディアは書簡を振りかざしながら、はっきり宣言した。
「これが、私たちが握る“証拠”の一部ですわ。密輸の現場を押さえた証言書、そしてガルニエ家に流れ込んだ金の記録。実はコピーを数通作成してあり、私の仲間たちが王都のあちこちで保管しています。私がここで倒れても、必ず国王陛下や他国の要人に届くようになっているの」
それは完全なブラフではない。すでに公爵の部下が別口で重要書類を隠し持っているのは事実だが、「王都のあちこち」「他国の要人」というのは多少誇張を含む。だが、エドワードたちにすれば、リディアの言葉を無視することはできない。
「なっ……! まさか、そこまで根回しをしているというのか……」
エドワードが目を剝いて驚愕している。セドリック王子は微かに笑みを浮かべ、「よくやった」と口の動きだけでリディアに伝えている。
「殿下、これ以上暴力的な手段に訴えるなら、あなたの悪行は全世界に知れ渡ります。ローザ・ガルニエの密輸も、あなたがその利権を黙認していることも、全部明るみに出るでしょう。……それでも構わないのですか?」
リディアは怯まず言葉を続ける。ローザは顔を歪ませ、エドワードに助けを求めるような視線を送るが、王太子は一瞬うろたえた様子を見せ、騎士たちに「剣を収めろ」と小声で命じた。
ギリギリと歯ぎしりするような沈黙。エドワードは怒りを押し殺した声音で言う。
「おまえたち、私を脅しているつもりか。セドリックを解放しろと言うのなら、それだけで済む話ではあるまい。何が目的だ?」
その問いに、グレゴリー公爵がきっぱりと答える。
「第一に、セドリック王子の安全を保証していただくこと。第二に、私たちを国王陛下のもとへ通すことです。そこで陛下にすべてを報告し、事実関係を明らかにしたい」
「ば、馬鹿げている! そんなことをすれば、私がどうなるか……」
エドワードは取り繕うように言葉を詰まらせるが、リディアは冷たく言い放つ。
「あなたが潔白だと信じられるなら、王宮の正当な場で無実を主張すればよろしいではありませんか。もしそれが叶わないのは、あなたがやましいことをしている証拠。その場合、あなたには王太子の資格などないはずですわ」
胸の奥から湧き上がる強い感情が、リディアの言葉をさらに硬質なものにする。かつては王太子に冷たく扱われていた自分が、まるで今は相手を追い詰める立場に立っている……。思わず、遠い日の苦しさが甦り、目頭が熱くなりそうになるが、耐え抜く。
「くっ……」
エドワードは視線をさ迷わせ、今にもリディアに飛びかかりたい衝動を必死に抑えているようだ。ローザは苛立ちと恐怖が混じった顔で、「殿下、ここで折れては……」と唇を震わすが、エドワードも八方塞がりの様子だった。
その時、ふとセドリック王子が静かに声を上げた。
「兄上……これ以上、醜態を晒すのはおやめください。仮にも国王の後継者と目されるお方が、こんな形で弟を拘束し、貴族を脅し、密輸なんていう陰謀に巻き込まれているのでは、国民を守れるはずがない……」
肩を揺らしながら、セドリック王子は続ける。
「私も、兄上を追い落とすような真似は本意ではありませんでした。けれど、これが事実なら――国を愛する者として、兄上をこのまま王太子に据えておくわけにはいかない。今からでも遅くはありません、正直に王宮の裁定を受け、しかるべき処罰を受けてください。そうすれば、私だって兄上を……一族として、見捨てるわけにはいかないのです」
その言葉に、エドワードは一瞬だけ悲しそうな目を見せる。しかし、すぐに拳を握りしめ、「うるさい!」と怒鳴り声を上げた。
「弟のおまえに説教されるなど屈辱だ……。私が何をしたっていいだろう、この国のトップに立つのは私なのだ。おまえも、リディアも、公爵も……皆私に逆らうな!」
しかし、その咆哮は空しく響くばかり。すでに騎士たちの表情も戸惑いを含んでおり、王太子としての威光が薄れつつあるのを感じ取れる。エドワードがどれだけ怒りをぶつけようとも、今ここでリディアたちを殺したり拘束したりするのはリスクが大きすぎる。彼らが外部に証拠を拡散している可能性を無視できないからだ。
やがて、エドワードは疲れ果てたように椅子へ倒れこむ。ローザもどう動くべきか分からず、しゃがみ込んだままうろたえている。気配を察した騎士たちがセドリック王子の拘束を解き、セドリックはゆっくりと立ち上がった。
「兄上……あなたも、どこかで“やり直したい”という気持ちがあるなら、私たちはあなたを決して見放しはしません。問題は、何が正しく、何が悪なのかということ。その判断を、国王陛下の御前で受けてください」
「くっ……」
エドワードは悔しそうに目を伏せ、ローザは肩を震わせている。どうやら、ここでの直接衝突は回避されたようだ。リディアとグレゴリー公爵はほっと胸をなで下ろしながら、セドリック王子を支えて扉の方へ歩を進める。
――今のやり取りで、エドワードの不正を全員の前で完全に暴いたわけではない。だが、王太子がセドリックを幽閉し続ける大義名分は失われ、リディアとブランシュ公爵が握る証拠を黙殺することも不可能になった。次は、国王陛下の前で公式に“審理”を行う段階へ進むだろう。
六、ざまあ、そして新たな未来
エドワードとローザが王太子の権力を振りかざし、ブランシュ公爵家とセドリック王子を押さえつけようとした企みは、結果的に失敗に終わった。審理の過程で、ブランシュ家が集めた数々の証拠――密輸の記録、関係者の証言――が提示されると、国王陛下も衝撃を隠せず、エドワードとローザは弁明に窮する。とりわけ、ガルニエ家の子爵やその取り巻きが“不正を認める”形で証言したのが決定打となり、ローザの計画が白日の下に曝されたのだった。
王太子としてのエドワードの地位は完全に揺らぎ、ついには王位継承権剥奪と、王宮からの事実上の追放が言い渡された。いずれは王族としての称号そのものが剝奪され、遠方の領地へ配流される可能性もあるという。ローザもまたガルニエ家の不正により罪を問われ、その後は愛人関係と噂された仲間ともども国境付近へ追いやられていった。
こうして“王太子失脚”という空前の大騒動を引き起こしたエドワードとローザは、王宮を離れる。その姿は、かつてリディアが追放される際に味わった屈辱をはるかに上回る惨めさだったろう。そしてついに、セドリック王子が新たな正式な王太子に指名されることになる。国王陛下は、自身の病床でエドワードの闇を知り、深い悲しみと責任を感じていたが、最後の気力を振り絞ってこの国の未来を託す人物を選んだのだった。
一方、リディア・ブランシュの名誉も完全に回復された。王太子(当時)エドワードから不貞の疑いをかけられた件については、王宮で正式に「リディアには罪はなく、すべてはローザ一派の捏造によるもの」との公表が行われたのである。こうして“裏切りの妃”などという汚名は晴れ、むしろ勇敢に国の危機を救った女性として、国民からは感謝と称賛を受けるようになった。
「お嬢様……! 本当によかったですね……!」
ブランシュ公爵家の屋敷では、侍女のイザベルが目に涙を浮かべてリディアに駆け寄った。リディアも込み上げる感情を抑えきれず、少し潤んだ瞳をあげる。
「ええ……長かった。でも、やっと終わったのね。私を追放したあの方たちが、今度は自分たちが追い出されるだなんて……これが、“ざまあ”というものなのかしら」
その声音には、晴れやかな笑いが混じる。皮肉にも、リディアはエドワードとローザの失脚を自らの手で導いた形になる。あの苦しみを思えば、もう少し溜飲を下げてもよいだろう。だが、リディアはむしろ安堵感のほうが大きく、過度な“勝利感”は感じていなかった。むしろ、“やっと過去から解放された”という思いが強かったのだ。
「お父様も、随分と大変な思いをさせてしまったわね」
リディアは書斎にいるグレゴリー公爵を訪ね、そう言って頭を下げた。公爵は苦笑しながら「馬鹿を言うな」と答える。
「おまえは何も悪くない。むしろ、あの場で怯まずに踏みとどまったことを誇りに思う。……私は公爵家当主として動いただけだ。だが、おまえを追放したあの王太子を引きずり下ろし、国に安寧を取り戻す手助けができた。これほどの喜びはないよ」
「お父様……ありがとう」
そうして親娘は穏やかに笑い合う。やっと、本当の平和が訪れたのだと実感できた。
七、真実の幸福を求めて
騒動が落ち着き、リディアはブランシュ公爵家で静かな日々を過ごし始めた。もう王宮に仕える義務はないし、自ら望むのでなければ、また政治の表舞台に出る必要もない。父は「領地を継いでくれてもいいし、新しい道を探してもいい」と言ってくれるが、今のリディアはまず“自分が何をしたいか”を考えたい気持ちが強かった。
そこへ訪れたのが、いまや正式に王太子となったセドリックの使者。手紙には「一度、ゆっくり話す機会が欲しい」と記されていた。リディアは少し戸惑いつつも、「あの方の言葉ならば聞きたい」と素直に思い、これを受け入れる。
約束の日、王太子としての公務を一段落させたセドリックが、ブランシュ公爵家を極秘で訪ねてきた。公爵も歓迎し、使用人たちも張り切ってお茶の用意をするが、セドリックは「なるべく人目を避けたい」とこじんまりとした一室に案内を願い出る。こうして二人きりの時間が生まれた。
「お久しぶりです、リディア。……あの騒動が片付いて、本当に安心しました」
落ち着いた声に、リディアは胸を打たれる。この人はあの危機的状況でも慌てず、堂々と自分の信念を貫いた。だからこそ王太子の座を掴んだのだ。リディアは、小さく笑みを浮かべて返す。
「王太子様こそ……大変でしたね。エドワード殿下とのあのやり取りは、私も目を離せませんでした。けれど、あなたは最後まで毅然としていた」
セドリックは少し照れたように目を伏せる。
「正直、怖かったのです。兄上に囚われて、もしあのまま幽閉されていれば、国自体がどうなっていたか……。でも、あなたとブランシュ公爵が勇気を持って動いてくれたおかげで、私はまだここで王子として生きている」
「私も、あなたが諦めずに立ち向かってくれたから、こうして名誉を回復できました。お礼を言わせてください」
リディアが深く頭を下げようとすると、セドリックは慌ててそれを制し、近づく。ふわりと淡い花の香りが漂い、互いの距離が少し縮まった。
「王太子としてこの国に尽くすのは、私の使命です。だけど、それ以前に……リディア、あなたが苦しむ姿をこれ以上見たくなかった。そんな私的な感情が、私をあそこまで突き動かしていたのだと思います」
「え……?」
リディアは思わず息を呑む。セドリックの表情はまっすぐで、誤魔化しの欠片もない。その瞳には、深い思いが宿っているように感じられた。
「私は、あなたが王太子妃として王宮にいた頃から、どこか惹かれるものがありました。しかし、あなたは兄上の婚約者。私には何もできなかったし、あなたが追放されてしまった時も、何も力になれずに歯がゆい思いをした。それが今度こそ、あなたを守りたいという原動力になったのです」
「王子様……」
リディアの胸が熱くなる。そんなふうに想われていたなんて、王太子妃だった頃の彼女は一度も気づかなかった。あの頃はエドワードに拒絶され、自分の居場所を守るだけで精一杯。セドリック王子の視線や気遣いに目を向ける余裕など皆無だったのだ。
セドリックはさらに一歩近づき、リディアの手を取る。その手は驚くほど温かく、リディアの鼓動が高まっていくのを感じる。
「リディア。あなたがこの先、どう生きたいかはあなた自身が決めることです。けれど私は、あなたの選ぶ道に寄り添う形で支えていきたいと思っています。もしよければ、私と……この国を共に支えてもらえないでしょうか」
それは、遠回しな求婚の言葉と言ってもいいだろう。リディアは一瞬、戸惑いに似た感情を抱く。かつてエドワードという“王太子”と結婚して不幸になった経験が、彼女の心にわずかな影を落としていた。しかし、今目の前にいるセドリックは、あの傲慢な兄王子とはまったく違う。彼は人を大切にし、国を思い、何よりリディア自身を敬意と誠実さを持って見てくれる。
「私……。また、“王太子妃”という立場になるのが怖いのかもしれません。過去にとらわれて、あなたの申し出を素直に受け取る勇気が出ないなんて……」
そう小さく漏らすリディアを、セドリックは優しく見つめ、「わかります」と言った。
「だから、今すぐ結論を迫るつもりはありません。私だって、先にやるべきことがたくさんある。国王陛下の体調もあるし、この国の政治を立て直すという急務も待っている。……あなたは少し休んで、自分の意思を固めてほしい。それでも、あなたが私の隣に立ってくれるなら、私は心から嬉しく思います」
「王子様……ありがとうございます」
リディアはセドリックの手を握り返し、瞳を閉じる。そう、大切なのは“自分が本当に望むかどうか”。セドリックにとっても同じだろう。形だけの政略結婚ではなく、互いの気持ちを尊重して決めたいのだ。今度こそ、リディアは“本当の幸福”というものを見つけたい。
八、エピローグ:真のパートナーとして
それから幾月かのち、ブランシュ公爵家の領地では、以前にも増して平和な日常が戻っていた。リディアは父の補佐をしながら、領民たちとの交流を楽しみ、時折王都へ出向いては慈善活動や商会の支援などを行っている。王太子を継いだセドリックは忙しく国政を改革しつつ、リディアへの想いを少しずつ言葉にしてくるようになった。
「あなたが支えてくれると、私は本当に心強い。共に国を変えていきたい」
セドリックのそんな言葉に、リディアはかつて味わった冷たい結婚生活を思い出し、ほんの少し怖くなることがある。だが、同時に彼なら大丈夫だと信じたい自分もいる。――人生の苦しみを経て、今度は幸せを掴んでもいいはずだ。
“ざまあ”とはいえ、エドワードやローザが落ちぶれていく姿を見て、リディアは痛快さよりも空しさを覚えた。復讐の歓びというより、「自分がいた場所から、あの人たちは遠ざかっていったのだ」という感慨が強かった。しかし、そのおかげでリディアは自由を得た。エドワードから離れ、ブランシュ家に戻り、そしてセドリックと出会い直すという転機を迎えたのだから。
これから先、リディアが“次期王妃”となるかどうかは、まだ定まっていない。彼女自身も答えを急ぐつもりはなく、セドリックもまた何度かの逡巡を経ながら、国政に邁進している。だが、王宮や貴族たちの間では「セドリック王子がリディアを正式に妃候補として迎えるのは時間の問題だ」という見方が広がっていた。
ある日の夕刻、リディアはブランシュ家のバルコニーに立ち、沈む夕陽を眺めていた。黄金色に染まる空を見上げると、穏やかな風が髪を揺らし、どこからか甘い草花の香りが鼻をくすぐる。
――昔は、この時間になると胸が痛むだけだった。王太子妃として愛されず、名ばかりの結婚生活の中でひとり孤独を噛み締めていた。しかし、もうあの頃のリディアはいない。自分の人生を切り拓く手段を知ったから。自分を陥れた者たちを“ざまあ”させたからといって、それがすべてではない。今のリディアは、過去に縛られずに自分の望む未来を見つめられる。
バルコニーの扉が開いて、イザベルが顔を出す。
「お嬢様、セドリック王子から書簡が届きましたよ。今度の王都での式典に、ぜひご出席をお願いしたいとのことです」
「……そう。わかったわ。返事は『伺います』と伝えて」
リディアは静かに微笑み、イザベルにそう頼む。あの人のいる場所へ、今度は自分の意思で足を運ぶ。もう誰かに強制されるわけじゃない。
きっと、そこから先には真の幸福が待っている――そう信じながら、リディアは夕陽の中で穏やかに目を細めた。
そして物語は、新たな幕開けへ
捨てられた妃から、国の危機を救う“勇者”へ。リディア・ブランシュが辿った道は苦難の連続だったが、今や名誉は回復され、新しい道が目の前に広がっている。セドリック王子を助け、エドワードの不正を暴いた結果、彼女は王家の人々や国民からも大いに感謝される存在となった。
次期王妃として、セドリックと共にこの国を治めるか。それとも、公爵家の令嬢として自立した生き方を選ぶか。その選択権はリディアの手の中にある。
だが、もう迷いはない。“白い結婚”で傷ついた過去を抱えながらも、リディアの心は確かに未来へ向かっている。いつの日か、誠実な愛を得られるなら――もう一度、誰かの隣で笑っていたい。
空を見上げると、どこまでも広がる青が、新しい明日を予感させる。