母親の呼びかけに、千雪はすぐさま蝶々を追うのをやめ、けらけらと笑いながら小さな白い歯を見せて、よたよたと綾香の腕の中に飛び込んだ。
千雪はベンチの後ろに立つ見知らぬ大きな男を見上げ、顔には不安と少しの恐怖が浮かんでいた。
この人はとても大きくて、ママやおばあちゃんよりずっと背が高い。しかも、千雪に微笑みかけてくれない。まるで家の中にいる怖い大人たちみたい。千雪はこの人が好きじゃなかった。
「千雪、いい子ね。この人はパパよ、“パパ”って呼んでごらん。」綾香が娘を少し高く抱き上げ、優しくあやした。
千雪は新しい遊びでも始まるのかと思い、ますます笑顔を見せた。
母の後ろにいるその人を見つめながら、“パパ”という言葉の意味もわからず、ただ誰かを呼ぶ合図だと思っただけだった。
ママに言われたから、ちゃんとご挨拶しなきゃ。
「パパ!」千雪は無邪気な声でそう呼んだ。
けれど、“パパ”と呼ばれたその人は、振り向きもせず、返事もしてくれなかった。笑ってもくれない。
千雪はつぶらな瞳をパチパチさせながら賢人を見つめ、やがて小さな口を尖らせて、しょんぼりと綾香の肩口に顔をうずめた。
ここは全然楽しくない。おばあちゃんがいれば良かったのに。おばあちゃんなら笑ってくれるし、お菓子もくれるのに。
賢人の視線は、綾香の腕の中で抱かれている白くて丸い小さな女の子に注がれていた。
澄んだ声で響いた「パパ」という呼びかけに、胸の奥にわずかな動揺が走ったが、すぐに冷たい感情でかき消された。
子どもに罪はない。しかし、この女の手口はあまりにも計算高くて、どうしても受け入れがたい。
賢人は無言で背を向け、母屋へと歩き出した。綾香のことなど、もう見たくもなかった。
その後ろから、母娘のやりとりが聞こえてきた。
「みんな悪い人だよ。」千雪が小さな声で訴える。
「違うのよ、千雪。」綾香は娘を抱きしめて優しく微笑む。「パパはね、声が出せないの。千雪はいい子だから、きっと分かってくれるよね?」
パパは声が出せないから、呼ばれても返事ができない――そんなふうに、綾香は娘をあやす。
賢人の後ろを歩いていた健太は、この会話にぎょっとし、思わず足をもつれさせて転びそうになった。
賢人は冷たく一瞥をくれ、視線の端でベンチ脇の母娘を見やったが、何も言わず歩を止めなかった。
健太はすっかり萎縮し、必死で賢人に付いていった。
あの“未来の社長夫人”、何を言い出すか分からない。自分はとても口を挟めない。
賢人が母屋に入って間もなく、真希の怒りと泣き声が屋敷中に響き、秋風に乗って庭へと流れてきた。
綾香の唇には、うっすらと皮肉な笑みが浮かぶ。
前の人生でも、真希は綾香の家柄を理由に、礼儀知らずだとよく嫌味を言っていた。しかし、実際に一番感情的で取り乱しやすいのは、この“ご婦人”だった。
秋の午後の庭園。陽射しは穏やかで、綾香は千雪の手を引きながら花の間をゆっくり歩いた。色とりどりの花が咲き誇り、大輪の芙蓉と墨色の菊が競い合っている。緑と赤が美しく調和していた。
子どもは鮮やかな色が大好きだ。綾香も娘と一緒にゆっくり過ごす時間を楽しんでいた。
心の奥では分かっていた。このまま何も変わらなければ、やがてこの庭は和美の花粉症のせいで取り壊される運命だ。その時はまた、新たな騒動が起きるだろう。
時が過ぎ、庭の小道に再び重い足音が響いた。
綾香が千雪を支えながら歩かせていると、ふと顔を上げて賢人の冷たい視線とぶつかった。
屋敷に入る前よりも、彼の雰囲気は一層冷え切っていた。
「行くぞ。」短く冷たい一言。まるで余計な言葉は一切不要とでも言うような口ぶりだった。
綾香はすぐに察した。宗一郎が応接間で反対を押し切り、二人に入籍届を出すよう決定したのだろう。両腕で力を込め、重たい千雪をしっかり抱き上げた。祖母に甘やかされた娘は、ずっしりと重い。
賢人は、子どもを連れて行くことに明らかに納得していない様子だった。この騒動はすでに世間の注目を集めており、区役所には記者が集まっているはずだ。
彼が制止しようとしたその時、庭の左手から声がかかった。
「お兄さん……高橋さんもご一緒なんですね。」
現れたのは、ふっくらとしたお腹を抱えた女性だった。妊娠六、七ヶ月ほどか。その隣には三、四歳くらいの男の子が手を引かれている。
彼女はにこやかに言った。「お兄さん、高橋さん、これからお出かけなんですね。よかったら千雪ちゃん、私が預かりますよ。健太もちょうど妹と遊べますし。」
綾香は千雪を抱き直し、その光景に思わず前世の記憶が蘇る――あの時と全く同じ道で、妊娠中の花音と出会ったのだ。
前世、賢人は千雪を連れていくことを許さず、綾香は花音に娘を預けた。その結果、花音の息子・健太は乱暴者で、その日、入籍の手続きから戻ってきた時には千雪が泣きじゃくり、手のひらには転んで擦りむいた傷が残っていた。
今度は、二度と娘を預けたりしない。
「大丈夫です。」綾香は柔らかく、しかしはっきりと言い切った。「私が千雪と一緒にいたいんです。」――本当は、千雪が離れたくないのではなく、綾香自身が離れたくなかった。
賢人はわずかに眉をひそめた。この女は、いつもこんなふうに穏やかな調子で言いながら、妙に人を苛立たせる。
花音の笑顔が一瞬固まった。せっかくの親切を、こんなにもあっさり断るなんて――やはり無知な家の出身は違う、と内心で鼻で笑った。
賢人は綾香を一瞥し、低い声で注意した。「メディアが待ち構えている。子どもを連れて行くのは良くない。」
「千雪は大丈夫です。車の中で待たせるので。」綾香はきっぱりと答え、娘を抱いたまま別邸の門へと向かった。そして背後に向かって一言、「早く行きましょう。」
「……」
車は静かにうんせい別邸を離れた。
千雪は綾香の腕の中で窓の外の景色を見ながら、嬉しそうに足をバタバタさせていた。「ママ!おうち帰るの?」
「違うのよ、千雪。ママとパパはちょっと用事を済ませてくるから、千雪は車の中で運転手さんとお留守番しててね。いい子にしてたら、帰りにおばあちゃんのところへ寄ろうか?」
長い説明を聞き終えた千雪は、すぐに満面の笑みでうなずいた。二重あごまでも嬉しそうに緩んでいる。
綾香は娘と遊びながら、ときおり隣を見る。賢人は車の中でもノートパソコンに向かい、冷たい顔で仕事を続けていた。
無愛想な男。娘が「パパ」と呼んでも一言も返さないなんて。
もし前世の記憶がなかったら、そして後でこの男が娘に優しくなると知らなかったら、今すぐにでもひっぱたいてやりたいくらいだ。
車が横浜市役所に到着した。
濃いスモークガラス越しに、既に記者たちが群がっているのが見える。まるで血の匂いを嗅ぎつけたサメのようだ。
ボディーガードたちが素早く車と記者の間に壁を作る。
賢人は綾香に明らかに不満げな視線を送る――彼女が娘を連れてきたことに、いまだに納得していないのは明らかだった。