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第3話 記者たちの包囲、綾香が話題をさらう


前世の綾香は、この瞬間、橋本賢人に対して強い恐れを感じていた。横浜でも有数の名家を率いる権力者で、いつも冷徹な彼に、誰もが畏縮するものだ。


だが、五年にわたる結婚生活――特に後半の三年は毎日顔を合わせてきたのだ。どんなに冷たい相手でも、もう慣れてしまった。


男の不機嫌そうな視線を無視し、綾香はうつむいて娘にキスをした。「千雪、ママはこれから降りるからね。お利口さんに待ってて。」


千雪はコクコクと小さな頭を縦に振る。


ドアが開いて、すぐに閉まる。記者たちは獲物の匂いを嗅ぎつけたサメのように、フラッシュを浴びせて騒然となった。


橋本と綾香はボディガードに囲まれ、少しずつ前へ進む。


無数のマイクが押し寄せ、質問が矢継ぎ早に飛んでくる。


「橋本さん! 隣にいる方が一夜の相手ですか?」

「橋本社長! 婚姻届提出は世間の圧力によるものですか?」

「橋本さん! まるで現実のシンデレラですが、"王子"としてどう思いますか?」


ボディガードが声を張り上げる。「前を見て! 安全に気を付けてください! 足元注意!」


橋本は何も答えず、表情一つ変えない。綾香はその隣で、ブラウンのトレンチコート姿がよく映えていた。


そのとき、一つのマイクがボディガードの隙間を強引に突き抜け、綾香の口元へ。記者の声は鋭く苛烈だった。


「高橋さん! 一夜の関係で妊娠し、その子どもで橋本家を脅したと噂されていますが、まさに今日のために仕組んできたのでしょう? 正直に答えてください!」


ボディガードの輪が突然止まり、人波に塞がれた。記者はさらにマイクを押しつけ、しつこく同じ質問を繰り返す。


全てのカメラが綾香に向けられ、「答えてください!」との声が次々と響き渡る。


この突然の足止め、前世の綾香は単なる混雑だと思い込んでいた。今なら分かる――


隣の男の冷たい横顔を一瞥する。――わざとだ、この人! わざと自分を困らせるために、この質問を残したのだ。


前世で初めてこの場面に直面したとき、フラッシュで目が眩み、鋭い質問に戸惑い、しどろもどろの説明が切り取られて横浜中の笑いものになった……。


だが今は違う。橋本家の内情を五年も仕切り、数々の修羅場をくぐってきた綾香は、もはや昔の怯えた少女ではない。毒舌で有名なメディアにも、余裕で対応できる。


綾香は落ち着いて記者の方へ向き直り、マイクが下がらないようそっと手を添えた。穏やかで澄んだ声がマイクを通して場内に響く。


「まず、あの夜の件ですが、私も被害者です。事件の真相は必ず明らかにします。もし記者の皆さんがご協力くだされば、加害者を法廷に立たせた際、訴状の公開とともに皆さんへの感謝状も添えるつもりです。」


一夜の事件に裏が? 名家の奥様が記者に感謝状? 


一瞬にして場内は騒然となる。


「高橋さん! お聞かせください!」

「高橋さん!」

「綾香さん! ぜひ……」


記者たちは興奮し、さらに綾香へ押し寄せた。ボディガードが小声で「すぐ離れましょう」と警告する。


橋本は深い瞳で綾香を見つめる。こんな返しが来るとは思っていなかった。だが、あの晩自分も薬を盛られ、朦朧とする中、部屋に現れたのは綾香だった……。


事件後、何度も調べたが、薬の出どころもグラスに入った経緯も、全て彼女に繋がっていた。


どうしても疑念が消えない。今も信頼より疑いの方が強い。無言のまま、早くこの場を抜けようとした。


ふいに、冷たい手が彼の手首を掴んだ。橋本は立ち止まり、振り返る。


綾香の力は弱く、すぐに振りほどけそうだが、カメラの前で無理やり引き剥がすのは躊躇われた。


「皆さん、もう少し落ち着いてください。質問にはきちんとお答えします。」


綾香は変わらず穏やかな声で、記者のマイクが再び下がらないよう支えてやる。記者は腕がしびれて苦しそうだが、下げることもできない。


「先ほどのご質問ですが――」綾香はカメラを見据え、毅然とした口調で続けた。「"私生児"という言葉を使われましたが、今日からはもう、そんな呼び方で私の娘を傷つけないでください。」


少し間をおき、運命を受け入れるかのように静かに語る。「"上昇婚"についてですが――仕組んだ人間は確かに許せません。でも、どんな出会いであれ、人の縁は不思議なものです。」


そう言って、橋本と指を絡めた手を高く掲げる。フラッシュが一斉に焚かれ、二人はまるで映画の主人公のように輝いていた。綾香は横顔を見せて、優雅に微笑む。


「今、私たちはとても幸せです。皆さん、ご心配ありがとうございます。」


橋本の手には何も残らず、彼女の薬指には宗一郎から贈られた大きなダイヤの指輪だけが、強い光を反射していた。


騒然とする中、橋本は思わず綾香に目をやる。白い光の中、彼女の輪郭が美しく浮かび上がっている。


記者たちは興奮の極みに達した。警備が厳しい取材現場で、こんな爆弾発言が飛び出すとは――綾香の堂々たる応対、カメラ映えする美しさ。今週のトップ記事は間違いなしだと、記者たちは確信した。


区役所の扉が閉まり、騒ぎは完全に遮断された。


中に入ると、橋本はすぐ手を引き、手首をさするようにして嫌悪を隠そうともしない。


そんな様子を見て、綾香は遠慮なく目をそらす。


――あの人、前世の後半は毎晩のように私を抱きしめ、離さなかったくせに!


娘の将来のため、橋本家の安泰のため、今日は記者の前で「仲睦まじい夫婦」を演じきったのだ。


「お二人とも、こちらへどうぞ。」職員が案内し、二人は内側の窓口へ。


手続きは至ってシンプル。書類を提出し、婚姻届にサインするだけ。


車に戻ると、プライバシーガラスのカーテンが閉じられていた。千雪はおとなしく座り、丸い手で顔を隠しながら、指の隙間から大きな目でこちらを見つめている。


「千雪、ママ戻ったよ~。ちゃんといい子にしてた?」綾香は娘を抱き上げ、婚姻届の受理証明書を無造作にセンターコンソールに置いた。


運転手は肝を冷やし、書類が傷つかないかと慌てる。


ルームミラー越しに、橋本が無言で証明書を取り、丁寧に自分の書類カバンへしまうのを見ていた。

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