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第4話 パパなんて大嫌い!


綾香は隣にいるあの人の表情なんて気にも留めず、頭の中は娘のことでいっぱいだった。

手際よくトレンチコートのポケットからチーズスティックを取り出し、包装を破って、腕の中の愛しい我が子に一口ずつ優しく食べさせる。

ぽっちゃり娘はお昼ごはんをしっかり食べたはずなのに、まだまだ食いしん坊で、口元にはよだれまで垂らしている。

「ママ、ママ……」千雪が口いっぱいにもごもごと呟く。

綾香は微笑みながらティッシュを取り、娘の口元をそっと拭う。「ほら、自分で食べてね。よだれがついたら、ママは食べられないよ。」

千雪は意味がわかったのかどうか、きゃっきゃと笑い、小さな白い歯を見せながら、ふっくらした手で自分のお腹を自慢げにぽんぽんと叩く。


ふと視線を隣の橋本賢人に向けると、千雪の顔から一瞬で笑みが消えた。

小さな頭をそっぽ向けて、綾香の胸元へ深く潜り込む。ただ頑なに、彼にまるい後頭部を見せつけるだけ。

怖いパパなんて、いらない!


橋本賢人「……」


小さな子どもは、お腹がいっぱいになるとすぐに眠くなるものだ。帰り道の後半、千雪は綾香の腕の中でぐっすり寝入っていた。

寝ている子どもを抱くのは、起きているときよりもずっと重い。全体重が腕にずしりとのしかかる。

綾香は何度も腕を交代したが、どちらも痺れてきた。こんなに長く娘を抱っこするのは久しぶりだった。


前の人生では、千雪が幼稚園に通うようになってから、橋本賢人も母娘への態度が少しは和らいだ。

専門の育児スタッフもつけてくれたし、送り迎えの車にはチャイルドシートも設置された。でも、今生では「小さなおもり」を抱っこする感覚をまた味わっている。

腕の痛みより、綾香の心には感謝の気持ちが大きかった。

もう一度やり直せる機会をくれた神様に感謝している。今度こそ、娘を幸せに育ててみせる。

前の人生のように、小さなうちから厳しい家のしきたりに押し潰されて、泣くこともできない可哀想な子にだけは絶対させない。


「真ん中で寝かせればいいだろう。」

橋本賢人が突然口を開いた。冷たく感情のない声だった。

綾香はその言葉に振り返り、彼の厳しい横顔を見つめた。思考はまだ過去の記憶にとらわれていて、すぐには状況が飲み込めなかった。

つい、少し甘えるような調子で言ってしまう。「腕がもう限界よ。少し千雪を抱っこしててくれない?」

橋本賢人は一瞬動揺し、すぐに表情を引き締めた。子どもを理由に彼に甘えるなんて、この女は一体何を考えているのか。

その声色には、どこか懐かしさのようなものがかすかによぎったが、すぐに打ち消され、不思議な違和感だけが残った。

橋本賢人はますます不機嫌になり、前だけを見て黙り込んでしまう。


車内の空気が一瞬で張り詰めた。

運転席のドライバーと助手席の松本健太は、息をひそめ静かにしている。


綾香はようやく、目の前のこの三十歳の「氷の人」を、前世で三十五歳になってやっと少し人間味の出た「おじさん」と勘違いしてしまったことに気付いた。

でも、綾香自身は全く気まずさを感じていなかったし、橋本賢人の機嫌なんてどうでもよかった。

ほんの少し眉を上げ、柔らかいが棘のある口調で、「真ん中に寝かせたら揺れるでしょ。嫌なら抱っこしなくていいよ。」と返す。


橋本賢人は、またしても「柔らかい言葉で刺される」感覚を味わうこととなる。


うんせい別邸に着いた時には、すでに夕方だった。分厚い黒雲が空を覆い、横浜の夏から秋にかけての多雨の季節、今にも大雨が降りそうな雰囲気だ。


本邸の応接間に入ると、綾香が娘を抱いたまま玄関をくぐったとたん、鋭い視線が突き刺さる。

目を上げると、先ほど入籍届のことで言い争っていた親族たちがまだ居残っていた。そして、今まさに綾香を睨みつけているのは橋本真希だった。


「帰ったか。」まず口を開いたのは橋本宗一郎だ。

橋本賢人は近づき、書類袋から入籍届の受理証明を取り出して手渡す。

橋本宗一郎はそれをちらりと確認し、うなずいた。「よし。これからは二人でしっかりやっていきなさい。」彼は「無理やり結ばれた縁は実らない」などとは考えない。

ここまで来た以上、入籍届を出すことは後継者である橋本賢人にとって最善の判断だと考えていた。

彼と妻も見合い結婚だったが、愛情は結婚後に育まれたものだ。それに、綾香についても調査済み。名門大学卒業、かつて札幌市のトップで、一等功を受けた英雄の遺児、母親に育てられたしっかり者だ。

祖父様が一代で築き上げた家に、何の取り柄もない「灰かぶり姫」など世間が何を言おうと入れるはずがない。


橋本真希はまだ納得しておらず、入籍届の受理証明を一瞥して鼻で大きく息を吐いた。

しかしその音は、橋本和美の愉快そうな笑い声にかき消された。

真希が睨むと、和美はスマホを手に大笑いしながら、わざと画面を真希に見せつける。

「お姉さま、これ見てよ。メディアの見出しが面白すぎて!」和美はスマホを揺らし、真希が怒りで見落とさないように、わざと声に出して読む。

横浜市エンタメ速報:

「綾香が娘を連れてダイヤの独身貴族を陥落、橋本家に新たな家族誕生!」


「アハハハハ……」

和美は涙が出るほど笑い、「さっき私が同じこと言ったら怒ってたのに、見てよこのタイトル!世間はみんなこう思ってるって……」


「どこのメディアよ!誰がそんなデタラメを許したの!」真希は怒り心頭でスマホを奪い取ろうとする。息子は若くして有能で、望めば名家の娘たちが行列を作るほどの男なのに、メディアに笑いものにされてたまるか!

綾香を悪く書くのは構わないが、息子を馬鹿にされるのは許せない。「調べなさい!どこの社か突き止めて、絶対に許さないから!」と、つい叫ぶ。


和美は巧みに身をかわし、さらに笑いながら「言論の自由よ、やることやって笑われるのが嫌なの?」と返す。そして少し離れた橋本賢人に視線を向け、「賢人、伯母さんはあなたに文句があるわけじゃないのよ。高橋さんとあなたはお似合いだし、伯母さんも嬉しいの。」とフォローを入れる。真希には遠慮なく当たるが、賢人にはさすがに逆らえない。


真希は怒りで手が震え、さらに言い争おうとするが、

宗一郎が厳しい声で遮る。「もういい!二人とも、いい加減にしてくれ。」

祖父様が口を挟むと、真希はぐっと怒りを飲み込み、和美を睨みつけ、ついでに綾香にも鋭い視線を投げる――このままでは済まさない、という思いが込められていた。


場はようやく一時的に落ち着いた。


「子どもは寝ているのか?」宗一郎は綾香の腕の中で眠る千雪を見つめ、「ベッドに寝かせてあげなさい。」と声をかける。

真希もすぐに「二階に部屋を用意してあるわよ。」と付け加える。

和美は驚いたように真希を見た。真希にしてみれば、決して善意で言っているわけではない。綾香は娘を抱く手に思わず力が入る。


だが、確かに二階には部屋が用意されている――真希がわざわざ指示を出して掃除させたのだ。奥まった場所の小部屋で、独立したバスルームもない。

そこに住めば、真希の専属お手伝いとして扱われるのは目に見えている。毎朝早くに起きて三食の世話、家中の雑事を押し付けられるのだ。


真希は「家のことを任せる」とは言うが、実際は権限も金も与えず、ただの使用人としてこき使うだけだった。前世の綾香は愚かにも彼女に怯えて、女中部屋に二年も閉じ込められ、苦労の連続だった。

真希は「教育」と称して、千雪のいる後ろの部屋に近づくことすら許さなかった。「千雪に庶民の悪い癖をつけさせてはいけない」と言い訳しながら。


綾香が一番許せないのは、まさにこの点だった。

真希のせいで、千雪の大切な成長の時期を失ってしまった。今度こそ、絶対に同じ過ちは繰り返さない――彼女はそう心に誓った。

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