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第5話 威厳を示す


本邸の田中春代は指示を受けて、前に出て子どもを抱き上げようとした。「お嬢様をお部屋で休ませましょうか。」


綾香は身をかわし、「千雪は寝入ったばかりだから、抱き方を変えると起きてしまうの。」


「では、お部屋までご案内します。」


部屋?あの家政婦部屋に、もう二度と足を踏み入れる気はなかった。


「ええ、お願い。」綾香は穏やかに微笑み、やさしい声で続けた。「でも千雪は汗をかいているから、部屋のバスルームに着いたら、清潔なタオルを一枚持ってきてもらえる?拭いてあげたいの。」


彼女の静かな声は、居間にしっかり響き渡った。


橋本真希ははっとして田中春代を見た――あの部屋にバスルームなんてない。ただの、採光も通風も悪い小部屋だ。


田中春代も顔色が変わり、真希と目を素早く合わせてから、うつむいて黙り込んだ。


「どうしたの?タオルがないの?」綾香はやわらかく、追い打ちをかけるように問いかけ、沈黙で逃げる隙を与えない。


居間の視線が一斉に集まり、田中春代は耐えきれず、顔を青ざめさせながら口ごもった。「上の部屋は急いで用意したので…バスルームは…ありません。でも、廊下の先に共用のが…」


「馬鹿なこと言ってんじゃないよ!」


話の途中で、橋本和美が鋭い声で遮った。「うちの別邸ほど大きな家で、長男の嫁にバスルーム付きの部屋も用意できないなんて、あり得ないでしょ!」


田中春代は叱責に震え上がり、二度と口を開かなかった。


「そんなに大騒ぎしなくてもいいでしょ!」橋本真希は和美をにらみつけ、不満げに言い訳した。「臨時で用意した部屋だから、いずれ空きが出たらちゃんとした部屋に替えるわよ!」


長年家を仕切り、五人の子を産んだ自信もあって、真希は強気だった。綾香は息子に好かれていない、姑として嫁をしつけるのは当然、この程度のことがバレたってどうってことないと思っていた。


綾香は無表情で真希を一瞥し、その思惑をすっかり見抜いていた。相手がここまで強気なら、こちらも遠慮する必要はない。


「私はどこでも構いませんが…」綾香は少し怯えたような声で、「ただ千雪だけは…夜中にトイレに起きることが多いので、バスルームが遠いと不便かと…」


「何が不便なの!」


綾香が弱気に出ると、真希はますます強気になり、心の声がつい口をついて出た。「千雪はこれからお父さんと一緒に寝ればいいでしょ!この部屋はあなたのためのものよ!」


カタン――


茶碗がテーブルに強く置かれ、橋本宗一郎の目に怒りが浮かぶ。


空気が一気に凍りついた。


真希は自分の失言にすぐ気づいた。この言葉は心の中だけにしておくべきで、口に出したらただの嫌味だ。


彼女は慌てて夫の弘樹の手をつかみ、取り繕おうとした。


だが和美がすかさず言った。「聞いた?今の発言。娘は父親と、母親は姑と住むって?自分の嫁をもらったつもり?」


これで真希の面目は丸つぶれだった。


義父の怒りを前に、真希は和美に反論する気力もなく、弘樹の手をぎゅっと握りしめた。


弘樹が妻をかばおうとした。「真希はそんなつもりじゃ…」


「祖父。」ずっと黙っていた橋本賢人が、冷たい声で割って入った。視線は真希に向けられている。


その目は、祖父の怒りよりずっと冷たく、真希の心を震わせた。ぞっとするほど冷たい。


彼女には五人の子がいるが、下の美月と航生はまだ学生で頼りにならない。次男達也と四男春樹は遊び人で役に立たない。


頼みの綱は長男、賢人だけ。彼に嫌われることだけは絶対に避けたい。


「賢人…お母さんはそんなつもりじゃ…」真希は必死で弁解しようとしたが、賢人は再び冷たくさえぎった。「祖父、僕たちはたけかぜ邸に戻ります。」


賢人は綾香たちを連れて部屋を出ていった。真希はソファに崩れ落ち、目の前が真っ暗になり、ため息ばかり。嫁いだばかりで姑の私にここまで楯突くなんて、先が思いやられる…。


「みんなに伝えて、今夜は本邸で家族の食事会をする。長男の嫁を、みんなに紹介しておけ。」宗一郎は真希の嘆きなど意に介さず、手を振って皆を追い払った。「もういい、解散。見ていると腹が立つ。」


「メディアの記事を持ってきなさい。」


老執事がタブレットを差し出すと、そこには綾香が役所の前で記者に対応する動画が映っていた。


宗一郎は見終えると、ひげを動かし、珍しく口元に笑みを浮かべた。「なかなかやるな。動じず、筋道立てて話せている。賢人の嫁は悪くない。」


その言葉に、階段を上がっていた真希は足がもつれ、危うく倒れそうになる。弘樹が素早く支えなければ危なかった。


二階の寝室に戻ると、真希はようやく抑えていた感情を爆発させ、涙ながらに訴えた。


「弘樹!私はあなたと結婚してもう四十年近いのよ。橋本家のためにどれだけ苦労したと思ってるの?お義父さんが一度でも私を褒めてくれたことがあった?一度だってないわ!」


「今や嫁一人すら仕切れず、小姑にまで責められて…」


一方、綾香は娘を抱いて邸宅の奥へ。橋本家の本邸は広大で、各家族ごとに小さな棟がある。


賢人が選んだ「たけかぜ邸」は邸宅の裏手、竹林に囲まれていて、一年中緑に包まれている。静かで落ち着いた場所だった。


宗一郎が孫にここを勧めたのも、この竹林の風情が良いからだと言われていた。


けれど綾香は、花が咲き誇る庭のほうが好きだった。


道すがら、綾香は何度も娘を持ち替え、腕がすっかりだるくなった。


千雪はもう少しおやつを控えさせたほうがいいかもしれない。このままでは小さなぽっちゃりさんになってしまう。


賢人は何度も横目で見ていたが、とうとう足を止めて、「俺が抱く」と静かに言った。


綾香は少し驚いて顔を上げた。賢人は小さく咳払いしながらも、相変わらず無表情だった。「まだ距離があるから。」


単に、綾香が力尽きて千雪を落とすのが心配だっただけ――彼女はひ弱に見えるし、それ以上の意味はない。


綾香も彼の意図を何となく察し、実際に腕が限界だったので、素直に身を引いて道を開けた。


受け渡しのとき、賢人のひじが柔らかな感触に触れた。


彼の体は一瞬ぴくりと固まる。しかし綾香は全く気にせず、「何度か抱けば慣れるから、あまり緊張しないで。千雪が肩で寝るとき、固いと寝心地悪いから」と声をかけた。


賢人は無言のまま、千雪を抱いて先を歩き出す。


綾香は理由がわからなかったが、彼の機嫌など気にせず、手が空いたことに内心ほっとしながら後をついていった。


手が自由になると、綾香は習慣でスマホを取り出し、久しぶりにX(旧Twitter)にログイン。大きなアカウントでは炎上リスクが高いため、サブ垢に切り替える。


案の定、今日のトレンドには自分に関する話題が上がっていた。


#綾香の手腕バズる

#シンデレラ嫁セレブ婚


前世では悪意に満ちた世論に押しつぶされ、X(旧Twitter)はおろか、スマホのネット接続すら怖かった。今も耐性は低いが、仕事上ネットは欠かせない。X(旧Twitter)はトレンドをチェックするだけで、嫌な書き込みが目に入ればすぐ離れる。


トレンドの一番上には、インタビュー動画の切り抜きが上がっていた。


画面の中の女性は、茶色のロングコートを着て、同系色のベルトでウエストをきゅっと絞っていた。

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