松本美月は甘ったるい声で、いかにも心配そうに尋ねた。
「お義母様、賢人お兄様が最近ご結婚された奥様は?お見かけしませんけど。新しいお義姉様はあまり良いご出身じゃないと聞きましたが、お義母様がそばで礼儀でも教えてあげたらいかがですか?」
橋本真希の表情が途端に複雑になる。綾香の前でお義母様としての威厳を見せつけたいのはやまやまだった。
けれど、あの晩の家族会で賢人から「千雪のことを頼む、誰にもいじめられないように」と念を押されていた。
子どもをいじめるなんて誰もしないだろうが、その言葉は明らかに「綾香を大事にしてやってくれ」という意味だった。
息子にあそこまで言われて、これ以上小言を言えば自分が損をするだけ。時が経てば、怒りも自然とおさまる。
「その話はやめておきましょう。」
橋本真希は口を尖らせて言う。
「賢人が後で戻るからって。あの子の大事な嫁さん、私には手に負えないわ。」
こうなってしまった以上、綾香はお祖父様も認めた長男の嫁で、息子も守ろうとしている。わざわざ他人のために息子と揉める必要なんてない。
松本美月は目を伏せ、不満を隠す。
綾香なんて、何がそんなに大事なの?私こそが選ばれしヒロインなのに!
そして再び驚いたような顔をして言った。
「えっ、賢人お兄様、後で戻って来るんですか?やっぱりご縁がありますね。ちょうどお会いできるなんて。」
橋本真希は深読みせず、にこやかに答える。
「本当にご縁があるわね。小さい頃から見てきた妹みたいなものだし、実の妹と変わらないわ。」
ちょうどその時、橋本賢人が敷地の奥から姿を見せる。
背の高い彼は、手に黒いベルベットのジュエリーボックスを二つ持ち、夕陽に照らされてやわらかい光をまとっていた。その姿は冷たさを和らげ、光と影が交わるたびに、一層洗練された雰囲気を際立たせている。
松本美月は慌てて前髪を整える。今日、橋本賢人が本家に戻ることは知っていた。小説にはぼんやりとしか書かれていなかったが、この場面で彼が「一目惚れする相手」に出会うとあったからだ。
庭にいるのは、使用人以外では自分と橋本真希だけ。
タイミングを見計らい、入念に着飾ってきたのも、橋本賢人に好印象を与えるため。
自分の容姿には絶対の自信がある。
橋本賢人は足を止め、涼亭に視線を向けた。夕陽を受けて表情ははっきりと見えない。
松本美月は可愛らしい顔立ちで、今は特に意識して魅力的に見せている。
一方、涼亭の左手の小道では、綾香が千雪と遊んでいる。正確には、山本和子が千雪を抱いて、綾香の“襲撃”から逃げ回っていた。
「大きな恐竜が来たぞ〜がおー!」と、綾香が恐竜のぬいぐるみを振り回して娘をからかう。
千雪は怖がりつつも興奮し、山本和子の腕の中でケラケラと笑いながら、何度も体をバタバタさせている。山本和子の力がなければ、元気いっぱいのこの子を支えきれないだろう。
「降りる、降りる!」
千雪は自分で歩きたがり、綾香は笑顔で山本和子に降ろすよう促した。
小さな体でよろよろと立ち上がると、「ママ、追いかけて!ママ、追いかけて!」と元気に叫ぶ。
「よーし、大きな恐竜が捕まえに行くぞ〜」
「きゃははは……」千雪は笑いながら走り出し、数歩で「ドテッ」と芝生に転んだ。
綾香は思わず大笑いした。
山本和子は驚いて駆け寄ろうとしたが、綾香に手で制される。
「大丈夫、自分で立てるから。」
涼亭の人々も、賑やかな声に気付いて視線を向けた。
オレンジ色に染まる夕焼けの下、綾香の笑顔は実に明るく、夕陽よりも輝いていた。
普段はどこか近寄りがたい顔立ちだが、今はその優しい表情が親しみやすさを増し、美しさが際立っている。
松本美月はテーブルの下で手をギュッと握りしめる。
この女、まさか綾香?まるで小悪魔みたいな顔で、笑い方もまともじゃない!
まさか賢人お兄様は、あの人を見ているんじゃ……?
松本美月は慌てて顔を向けたが、橋本賢人はすでに涼亭へ向かって歩き出しており、視線が自分に向いていない。
ほっと胸をなでおろす。考えすぎよ。賢人お兄様が私以外なんて見るはずがない!
「早く千雪ちゃんを抱き上げてあげなさい!」
橋本真希が咄嗟に使用人に指示を飛ばす。
「綾香、子どもの面倒の見方がなってないわ。転んだのに笑うなんて、全く気が利かない!」
その言葉が終わらないうちに、千雪は小さなお尻を突き出して、ゆっくりと自分で立ち上がり、顔をぬぐって綾香に向かってにっこり笑った。
橋本真希は少し驚いた様子だ。
健太はもう四歳なのに、転んだらすぐ泣いて、いつもお手伝いさんに抱っこされるのに、この千雪はなかなかしっかりしている。
家族会の夜は腹が立って、綾香母娘の全てが気に入らなかったけれど、今思えば、千雪は二歳でご飯もきれいに食べるし、賢人に似て小さい頃から賢い子だ。
綾香も、涼亭にいる人たち、そして今到着した橋本賢人の姿に気付く。
視線が松本美月の横顔をかすめ、少し眉をひそめると、千雪を抱き上げてその場を離れた。
山本和子が慌てて追いかける。
「奥様、千雪ちゃんも一緒に涼亭で遊ばせませんか?奥様もご主人様もいらっしゃいますよ。」
「結構よ、あそこはなんだか嫌な感じがするから。」
綾香は振り返りもせずに答えた。
ちょうどその時、橋本賢人の書類を車に取りに行き、小道を通りかかった松本健太が、その言葉を聞いて足を滑らせ、見事に芝生に転んだ。
社長夫人に会う時は、なぜかいつも失敗ばかりだ。
綾香は通りかかりに不思議そうに彼を一瞥した。
「松本さん、足元に気をつけてね。お疲れさま。」
二度目の転倒じゃない?前世ではそんな話聞かなかったけど。
松本健太はあわてて立ち上がり、深く頭を下げる。
「お気遣いありがとうございます、奥様。大丈夫です。」
心の中では「ついてないな」とため息をついていた。
涼亭では、橋本真希が口を尖らせて賢人に愚痴る。
「あなたの奥さんね、ずっと千雪ちゃんを連れて私に会わせに来ないじゃないの。」
「そのうち、慣れるさ。」
賢人は小道を見つめていた視線を戻し、一つのジュエリーボックスを橋本真希の前に差し出した。
「お母さんへのプレゼント。」
橋本真希は一気に機嫌が良くなり、頬が緩む。
外の人がどんなに持ち上げても、やっぱり息子がこうして気を使ってくれる方が嬉しい。
ルビーのジュエリーセットは、彼女の好みにぴったりだった。どこかで見覚えがあると思ったら、Aオークションの出品だった。数日前、招待状を受け取ったが、その時は気分が悪くて競りには行かなかった。それを息子が覚えていてくれるなんて。
橋本真希の心の中のわだかまりは一気に消え、彼の手にあるもう一つの箱に目をやり、にこやかに言った。
「行ってらっしゃい、ちょうど今出て行ったところよ。」
橋本賢人はうなずき、涼亭を出ようとする。
「賢人お兄様!」
松本美月が慌てて声をかける。
「賢人お兄様は事業も成功して、お母様にも孝行だなんて、だからお義母様もいつも嬉しそうにあなたのことを褒めていらっしゃるんですね。」
橋本賢人は目も合わせず、足を止めることなく返す。
「名前で呼んでくれ。」
その冷たさは、むしろ失礼なほどだ。
松本美月は呆然とする。彼ってこんな人だったっけ?小説では「クールだけど本当は優しい」って書いてあったのに。
この三年間、彼女はほとんど海外で過ごしていて、三年前の計画が失敗した夜以外、橋本賢人に接する機会はほとんどなかった。
今日の態度には、正直ショックを受けている。
橋本真希は気にした様子もなく、果物を勧めながら笑顔で言う。
「美月、果物でも食べて。賢人はあんな性格だから、気にしないで。これからもよく遊びに来て、少しずつ慣れていけばいいのよ。」
松本美月は無理に微笑みながら、心の中でシステムに橋本賢人の好感度を調べさせる。
システムは渋々、橋本賢人にバインドされており、機械的な音が鈍く響いた。
【橋本賢人の現在の好感度:5%】
「なにそれ?!」
松本美月は思わず声を上げる。
「さっきの“運命の出会い”で、好感度たったの5%?絶対おかしいでしょ!」
システムは内心「さっき橋本賢人は君を見ていなかったし、普通は初対面なら好感度20%くらいあるものなのに、これはかなり低い」と思ったが、口には出さなかった。下手に言うと、彼女のやる気を削ぎそうだったからだ。
一方その頃、橋本賢人は松本健太と出会う。
「さっき、彼女は何と言っていた?」
橋本賢人は単刀直入に尋ねた。