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第9話 深夜の威厳


松本健太のスーツのズボンの裾には、まだ草がついていた。頭を胸元に埋めるようにして、うなだれている。

もし橋本賢人に問い詰められると分かっていたら、あんな風に足をくじいて転んだりしなかったのに。社長に怪しまれるくらいなら、その場で気絶した方がマシだった。


「奥様が……」

健太は、綾香と山本和子の会話を手短に報告し、再び俯いて気配を消した。奥様が社長のことを「口もきけない」だの、今度は「汚いもの」だのと……。退職手続きの流れまで頭をよぎる。


橋本賢人は話を聞き終え、たけかぜ邸に向かっていた足をピタリと止め、踵を返して屋敷の門へと歩き出した。

慌てて健太も追いかける。「橋本さん、奥様への贈り物は……?」

「誰が渡すって言った? 写真を多く撮りすぎただけだ。」

「……」


翌朝、午前四時。夜明け前の暗闇の中、まだいくつかの星が空に残っている。たけかぜ邸の主寝室のドアが、激しくノックされた。

「お目覚めください!」


主寝室の扉がギイと開き、綾香が眠そうな顔で、眉間に深いしわを寄せて立っていた。訪ねてきたのが真希の側近・田中春代だと分かると、苛立ちを隠さずに言った。「朝の四時に何してるの? 寝ないで人の部屋を叩きに来るなんて、頭おかしいんじゃないの?」


田中春代は顔を強張らせ、きつい口調で言った。「お若様、すぐに本邸へ行き、奥様の朝食のお世話をしてください。橋本家の長男の嫁としての務めを果たしなさい!」


朝四時から世話をしろって? 

綾香は眠気で頭がぼんやりしながらも、つい自嘲した——前世で呪いでもかかってたのか? 橋本真希とこの意地悪な使用人に五年も耐えていたなんて。


彼女は田中春代の顔の前に指を突きつけた。田中は驚いて思わず頭を引っ込め、もう少しで目を突かれるところだった。


田中春代は怒りをあらわにした。「礼儀ってものを知らないの?」

「知らないわよ。」

綾香は鋭い目つきで見上げ、不機嫌を隠さない。「私だって母に甘やかされて育ったのよ。わざわざ橋本家に来て、あなたたちのルールに従う理由なんてないでしょ?」


眉を上げ、優しげな声ながらも、背筋が寒くなるような響きで言った。「次にまたドアを叩いて騒いだら、舌を切って犬に食わせるわよ。」


「な、なによ……」

田中春代は後退りし、息もできないほど驚いていた。

この女、いったい何者? 地方出身の母子家庭、母親は小さな食堂をやってるって聞いたけど、本当ならもっとおとなしいはずじゃないの?

どうしてこんなことが言えるの? 虚勢? それとも本気?


田中春代は自分を奮い立たせた——食堂の娘がそんな度胸あるはずない。ただのハッタリに違いない。再び顎を上げ、鼻で笑う。「食堂での乱暴が通用すると思わないで。ここは橋本家よ!」


「そう?」綾香は目を細めた。「じゃあ、どれだけ通用しないか試してみようか。」


彼女は扉の外にいる山本和子と、物音で目を覚ました数人の使用人たちに目をやった。「縄を持ってきて、この人を縛って。」


田中春代は信じられない思いで固まった——奥様の伝言で来たのに、綾香に逆らわれるなんて?

だが、数人の使用人が素早く彼女を押さえつけた。田中春代は暴れて怒鳴ったが、到底敵わない。


山本和子が下の物置から太い縄を持ってきて、あっという間に田中春代を階段の手すりに縛りつけた。


「この裏切り者ども! あんな小娘の言うことを聞いて、奥様に逆らう気なのか……」

田中春代はわめき散らした。


「頬をひっぱたいて。」綾香が淡々と指示する。

山本和子が両手で往復ビンタをし、田中春代の頬はみるみる赤く腫れ、呻いて声も出ない。


「口を塞いで。」

山本和子はタオルを丸めて口に押し込み、鼻だけはしっかり出しておいた。


「もういいわ、みんな戻って寝て。」綾香が手を振ると、皆素直に下がっていった。


田中春代は恨めしげに彼女たちの背中を睨みつけた——ここはたけかぜ邸、使用人たちの給料もこちらから出ている。どちらにもいい顔をするより、従った方が得策だ。


綾香はドアを閉め、子ども用ベッドで眠る娘を一瞥し、ベッドに倒れ込んだ。舌を切るなんて、ただの脅し文句。昨夜見た時代劇のセリフを真似しただけなのに、あの婆さん、まったく空気が読めない。


力で片付くなら、わざわざ言い争う気もない。


朝八時、秋風が枯れ葉を舞い上げ、朝日が空に昇っていく。

本邸の小さなダイニングで、橋本真希は泣きじゃくる田中春代を呆然と見つめていた。


「本当に綾香がやったの?」

田中春代は顔を覆いながら泣き叫ぶ。「奥様、本当です! 見てください、この顔、まだ腫れてるじゃないですか! 舌を切るって脅されましたよ! 奥様のことなんて全然怖がってません!」


橋本真希は怒りでスプーンを思いきり器に叩きつけ、澄んだ音が食堂中に響いた。

朝食の相手をさせるつもりで、七時八時でも起きてこないどころか、家の人間を殴るなんて。綾香は一体何様のつもり?


昨日、橋本賢人は戻ってきてすぐ出て行った。贈り物も渡さず、たけかぜ邸にも寄らなかった。

もしかして、二人はケンカでもしたの? それとも、息子が綾香をかばっているのは、ただの自分の思い込み?


昨夜、田中春代にそそのかされて、今朝こそ綾香に礼儀を教えてやるつもりだったのに、まさか逆らわれるとは!


「行きなさい! もう一度呼んで来なさい!私の前で手を出せるものなら、やってみなさい!」

真希は激しく言い放つ。「人数を増やしてでも、引きずってここまで連れてきなさい……」


言い終わる前に、ダイニングの扉から足音が聞こえてきた。

綾香は大きな花瓶を避けて、ゆったりと中に入ってきた。シンプルなリネンのワンピース姿が、どこかクラシックな気品を漂わせている。


「わざわざ呼ばなくても大丈夫です。何かご用でしょうか?」綾香は柔らかな声で、しかし堂々とした態度で立つ。微塵も怯えていない。


「奥様」——その呼び方は丁寧だが、「お母様」とは決して呼ばないのね。

橋本真希は一瞬言葉に詰まり、スプーンで燕の巣のお粥をかき回しながら、ようやく気を取り直した。「田中春代を呼びに行かせたのに、あなたは人を殴るだけでなく、舌を切るとまで脅したですって?」


綾香は微笑んだ。

「朝の四時に叩き起こされたら、誰だって機嫌悪くなりますよ。田中さんが話も通じず、暴言まで吐くなら、当然の報いでしょう? 本人が望んだことをしてあげただけです。」


橋本真希はきょとんとして、「朝の四時?一体どういうこと?」

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