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第10話 山を揺らして虎を驚かす、ずる賢い使用人の屈服


橋本真希は不思議そうに田中を見やった。──確かに田中には七時に起こすよう頼んだはずなのに、なぜか午前四時に起こされたのだ。


田中は首をすくめ、目を合わせようとしない。


綾香にはすぐに裏の事情が見えた。これまで橋本真希がやらかしてきた愚かな行動の多くは、このずる賢い使用人が焚きつけていたのだ。


前世、綾香は苦労して田中の本性を暴き、屋敷から追い出した。しかし結局、橋本真希は「昔からの付き合いだから」と綾香を冷たいと陰で恨んでいた。


今回は、橋本真希自身にこの“オオカミ”の正体を見せてやるつもりだった。噛まれて痛い思いをすれば、もう未練を持たなくなるだろう。


だが、それは今ではない。今日は橋本真希に一発警鐘を鳴らしに来たのだ。この年配の女性が自分を甘く見ないように。


綾香はスマートフォンを橋本真希の前に差し出した。画面には株価のグラフがはっきりと映っている。


橋本真希は戸惑った。「いきなりこんなものを見せて、どういうつもり?」


「星輝ホールディングスの株価の推移です。」綾香は画面を指し、落ち着いたが揺るがない口調で続けた。「私がメディアの前で橋本賢人との夫婦仲の良さをアピールしてから、会社の株価は世間の批判から持ち直したんです。」


橋本真希は反論しようとしたが、綾香が先に口を開く。「責任転嫁はやめてください。これから言うことは一度だけ、そして最後です。」


「卒業旅行の夜、私は酔った勢いで橋本賢人と関係を持ち、その後北海道に帰りました。三年後にメディアに追われて初めて千雪の父親が誰かを知ったんです。」綾香は橋本真希を真っ直ぐ見据えた。「もし本当に出世のために娘を連れて押しかけるつもりなら、妊娠した時点で橋本宗一郎さんに直接会いに行く方がよほど確実だったでしょう?」


「マスコミがどれだけ厄介かは、あなたの方が痛感しているはず。私と千雪は巻き込まれただけです。うちの母の蕎麦屋も、今でも記者に囲まれてまともに営業できていません。」


橋本真希は言葉を失った。綾香の視点で語られるのは初めてで、どう返せばいいのか分からない。


綾香は手を振りながら続けた。「確かに橋本家は千雪にとって良い環境です。もうこうなった以上、表向きは橋本賢人と仲の良い夫婦を演じて、会社や株価を守ります。家の中でお互い穏やかに過ごせるなら、私はあなたを年長者としてきちんと敬います。」


「でも、もし何度も問題を起こすつもりなら、私も黙ってはいません。橋本宗一郎さんも賢人も、そんな騒ぎを望まないでしょう。」


橋本真希は口を開こうとしたが、綾香の迫力に圧倒されて言葉が出てこなかった。


この女は頭の回転も、口も達者だ。要点を的確に突き、もし自分だったら一生こんなに筋道立てて言えない。


ネットで綾香のインタビューが「橋本家の株を上げた」と言われていたのも、まんざら嘘じゃなさそうだ。


綾香は席を立ち、帰り際に一言付け加えた。「それと、夜中の四時にドアを叩くなんて、もうやめてください。千雪が怯えて泣き止まなくなりましたよ。賢人が家にいたら、どれだけ怒ったか分かりません。親孝行は、あなたが認めたお嫁さんに任せてください。」


そう言い残して、綾香はそのまま去っていった。橋本真希は呆然と立ち尽くすしかなかった。


橋本真希は短気だが、根に持つタイプではない。何よりも橋本賢人のことを一番に考えている。


綾香の言葉は筋も通っているし、何より“息子と孫”という弱点をしっかり押さえていた。


納得できない気持ちが残っていても、これからは軽々しく怒りをぶつけることはできないだろう。


それが綾香の本当の狙いだった。田中を叩くのはついでにすぎない。橋本真希が田中にどう対処しようと、綾香の知ったことではない。


屋敷の外では、こっそり聞き耳を立てていた使用人たちが綾香の後ろ姿を見送り、目を輝かせていた。大旦那以外で、あの奥様を言い負かして怒らせずに黙らせた人は初めてだ、と感心しきりだった。


屋敷に秘密はない。その日の出来事はたちまち各部屋に広まった。橋本宗一郎は噂を聞くと、ひげを撫でてにやりと笑い、何も言わなかった。橋本花音は慌てて詳細を聞き回り、他の義姉たちは特に反応しなかった。


二日後の午後、「たけかぜてい」のチャイムが鳴った。リビングでは千雪がテレビの「ペッパピッグ」を見ながらソファで跳ねている。「ママ、泥んこジャンプしよう!」


綾香はラグに座り、図面を描いていた。チャイムの音に顔を上げる──誰だろう?


すぐに山本が客を案内してきた。なんと田中だった。


前回の威張った態度とは打って変わって、田中は深々と頭を下げ、必死な様子で申し出る。「奥様にお詫びを申し上げたく参りました。あの日は私の不手際です。どうかお許しいただけませんでしょうか。」


「分かったわ、もう帰っていいですよ。」綾香はあっさり答え、図面に視線を戻した。その口調はこれ以上ないほど素っ気なかった。


田中の謝罪など、綾香には何の価値もない。この手の裏表のある人間に、感情を割く必要はない。橋本真希と田中の間に確執が生まれたのは間違いない。でなければ、あの橋本真希が田中を下手に出させるはずがない。


田中は冷たい対応に困惑しつつも、食い下がることはできなかった。ただうつむいたまま、さらに言葉を続ける。「奥様が、お嬢様と一緒に本宅で夕食を共にしてほしいと申しておりますが、ご都合はいかがでしょうか。」


綾香は田中をじっと見つめ、田中の膝が震え始めたのを見て、くすっと笑いながら千雪に声をかけた。「千雪、今夜はおばあちゃんの家でご飯食べるの、どう?」


「おばあちゃん?」千雪はソファから転がり落ち、綾香のそばに寄ってきた。おばあちゃんが誰なのか、はっきり覚えてはいないが、いつも怖い顔をしていた気がして、少し不安そうに見上げている。


綾香は千雪のほっぺを軽くつまみ、「山本にも一緒に行ってもらうから、もし嫌だったらいつでも山本に抱っこして帰ってきても大丈夫よ」と優しく言った。


「ママは行かないの?」


「ママはお仕事があるから、千雪が行きたいなら一人で行っておいで。」

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