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第2話

石野夏末が食器を取る前に、「ご苦労様」と執事に言った。


小林執事は少し驚いた様子だった。


「奥様、お気遣いありがとうございます。あくまでも私の仕事です」


おかしい。


奥様はどうもいつもと様子が違う。


旦那様の在宅時と不在時で、まるで別人のように振る舞い、使用人の前ではいつも女主人としての威厳を見せつけていたのに。


今日は「ご苦労様」と言うとは、しかもその表情は……とても素直そうに見える?


小林が不思議に思っていたところへ、「小林執事、お食事はもうお済みですか? よかったら一緒にいかが?」と夏末が尋ねた。


食卓には料理が山盛りで、一人で食べるのはあまりにも贅沢に感じた夏末は、そう「親切に」誘ったのだった。


執事は恐縮して、慌てて手を振った。


「い、いえ……結構です、奥様」


ますますおかしい。


もしかして、反抗期真っ盛りの若様に手を焼いて、奥様の性格まで変わってしまったのだろうか?


まるで人が入れ替わったようだ。


…そういえば今日は金曜日。


若様は友人を連れて帰ると言っていた。


今は上機嫌の奥様も、後で怒ってドアを叩き閉めるかもしれない。


そう思うと、小林執事の目に一瞬、同情の色が走った。


夏末が継母として苦労するのを気の毒に思いつつ、若様の扱いにくい性格をどうしようもなく思うのだった。


メイドが夏末の食事が終わったのを見て、「奥様、お風呂は昨日のご指示通りにご用意しております」と少しお辞儀をしながら近づいた。


「?」


夏末は顔を上げて。


昨日?


これはおそらく、自分が転生する前に、元の夏末が手配したものだろう。


メイドに導かれて、夏末は主寝室の浴室へと向かった。


浴室一つで、前世に住んでいた家全体よりも広い。


ざっと二百平米はある。


巨大な窓の外には緑が生い茂り、ガラスは片面ミラーになっているので、外の景色は見えても、中が外から見える心配はない。


小さなプールのような浴槽には、丁度良い湯加減のお湯が張られ、湯気がゆらゆらと立ち上り、甘く清々しい香りが空気に漂っている。


そばの陶器の皿には季節の果物。


そして、黒くて、まるでところてんが溶けたようなトロリとした液体が入った一椀。


夏末は椀を手に取り、近づいて匂いを嗅いだ。


強い苦味がした。


薬のようだ。


ほんの少し吸い込んだだけで、眉をひそめ、鼻をつまんで椀を遠ざけた。


何なのかまったく見当がつかない。


夏末が鼻をつまんでいるのを見て、メイドが恭しい姿勢で適切なタイミングで近づいた。


「奥様、お薬は少々お口に苦いかと存じます。甘いものを別途ご用意しておきました。」

「エッセンシャルオイルはオレンジブロッサムを選びました。お疲れを癒やしてくれますように」とメイドは声をひそめ、少し忍びやかな口調で続けた。


「どうか奥様のご念願叶い、一日も早く石野家に可愛い赤ちゃんが生まれますように。」

お世辞めいた言葉を添えると、メイドはそっと後ずさりして出ていった。


残された夏末は、やっと事情を飲み込み、気まずそうに瞬きした。


疲れを癒やす???


赤ちゃんを生む???


この黒い液体は、時代劇に出てくる安産祈願の薬みたいなものだったのか…


元の夏末は、昨夜こそ石野卓也を手なずけられると確信し、その後の体の保養まで用意していたらしい。


途中で中身が入れ替わってしまったのだ。


夏末は唇を軽く噛むと、その薬を流しに捨てた。


ふと、本の中で語られていたこの結婚の成り行きを思い出した。


ある偶然で、元の夏末が意識を失って道に倒れた石野卓也の祖母を助け、その後、卓也の祖母に気に入られて孫との縁談を強く勧められたのだ。


元の夏末は卓也に一目惚れしたが、卓也の方は気が進まなかった。


そこで元の夏末は卓也に直談判し、契約結婚の提案を持ちかける。


卓也にとっては、夏末と結婚すれば祖母の望みが叶うことになるので、承諾したのだった。


条件は月五十万円の生活費、そして祖母が亡くなった後は円満に別れ、その際にさらに多額の慰謝料を支払うというものだった。


鏡の前。


夏末は、前世の自分とまったく同じこの顔をじっと見つめ、少しぼんやりした。


以前から美人だと言われることが多かったが、長年仕事に打ち込んでいるわりには独身だと知ると、冗談めかして言われることもあった。


「あなたみたいな美人なら、若いうちにいい相手を見つけて、一生衣食に困らない生活をしたほうがいいよ。朝から晩まで働くなんて割に合わない。美しさこそが一番貴重な資源なんだから」


前世の夏末はそんな言葉を鼻で笑っていた。


まさか、本の中に転生して、噂に聞いた通りの人間になるとは。


鏡に映るのは、整った瓜実顔。


切れ長の狐のような目が色っぽくて、鼻筋は小さくすっきりと通っている。


浴室の湯気でほんのりと頬が紅潮し、肌はますます雪のように白く滑らかに映っていた。


笑うと、眉が三日月のように弧を描き、頬に小さなえくぼが浮かび、その明るい美貌が美しさによる攻撃性を和らげる。


鏡の中に映った彼女は眉間にしわを寄せていた。


元の夏末の悲惨な末路を思い、転生してきた現在の夏末はため息をついた。


「はあ…」


元の夏末の悲劇は全て、恋愛が最優先という考えに支配され、必死に石野卓也の妻になろうとしたせいだ。


幸い、今の夏末はそうではない。


偽りの夫と継子の間で騒ぎを起こさず、余計なことをしなければ。


悲惨な結末は避けられ、ただの平凡な金持ちの奥様でいられるはず?


継子のことを考え、彼女の表情は幾分険しくなった。


すぐに真剣な面持ちでスマートフォンを開いた。


様々な掲示板を調べ、この子育てなどに関する知らない情報を勉強しようと、付け焼刃の勉強を始める。


【継母と継子の接し方、必ず覚えておくべき6つの心得】

【継母として、どう家族関係をうまく築くか?】

【反抗期の子供への継母の対応術」


数時間後。


夏末は読み疲れ、台所からデザートを取って部屋に戻ろうとした。


ちょうど二階に差し掛かった時、玄関の方から元気な若者たちの声が聞こえてきた。


「石野くんの家、すごい豪邸だな! 初めて来たよ!」


「ねえ石野くん、今日、君の継母さん、家にいるんじゃないよね?」


「石野くんの継母さん、まだ見たことないんだ。君より11歳しか年上じゃないんだよね?」


声に足を止めた夏末は、二階の手すりに寄りかかりながら、手にした小さな銀のスプーンをかき混ぜ、好奇心がムクムクと湧き上がった。


小説はたくさん読んだし、ドラマもたくさん見てきた。


小説の主人公である石野琉生は、一体どんな顔をしているのだろう?


石野邸は広く、高校生たちが玄関で靴を履き替える間に、夏末の継母像について様々な憶測が飛び交った。


「石野くんの継母さん、きっと美人なんだろうな」


「美人かどうかは知らんけど、したたかで、絶対に手強いタイプだと思うぜ」


「俺もそう思う。多分、美人であればあるほど、心は冷たいんじゃないか」


そんな雑談の中、一人の整った顔立ちの少年が夏末の視界に入った。


石野琉生は、十六、七歳の高校生たちの中でも、ひときわ目立つ存在感があった。


学園小説の主人公のよくある顔をしている。


整った顔立ちに少し不良っぽさが混ざり、刺のある冷めた目をしている。


身長は少なくとも185cmはあるだろう。


シンプルなロゴの入った濃いグレーのTシャツを着て、額には赤いスポーツバンド。


憂いと明るさが調和よくあり、当時流行のスタイルだった。


はあ。


夏末が琉生を観察しながら、内心で笑った。


小説の主人公も、登場当初から完成形じゃないんだな。


思春期の主人公は、どんなにイケメンでも、体つきはまだひょろっとしている。


夏末の目には、まだまだ子供にしか映らなかった。


考えていると、また別の、細くて震えを含んだ声が二階まで届いてきた。


「あの…えっと、琉生くん、君の継母さんってすごく怖い人? 私、ちょっと怖いんだけど…」


夏末は眉をひそめ、声の主を見た。


喋ったのは、ストレートの黒髪を長く伸ばした女子。


ピュアな顔立ちだが、その眼差しは決してピュアではない。


おどおどしながら指をもじもじさせて琉生を見上げていた。


夏末はその様子を見て、長年の経験で培った見る目を働かせ、即座に警戒心が走った。


すると、別の声がその女子に答えた。


「怖がることないよ! 聞いた話じゃ、石野くんの継母さん、平凡な出身らしいぜ? 石野くんに逆らったりできるわけないだろ」



「そうそう! ここは石野くんの家なんだ。あの女の顔色を伺う必要なんてどこにもないぜ」誰かが同意した。


「その通りだ。もし後で継母さんに会ったら、俺は絶対に相手にしない。いつまでも石野くんの味方だ」


「俺もな」


「オレもだ」


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