彼の瞳は暗く沈み込んでいた。
彼女の視線は虚ろに死んでいる。
ガレージの空気が凍りついたように重い。
車内で短髪の少女——
灯里の目が、鋭く刺すような痛みに襲われた。
彼女は視線を外し、車に乗り込み、エンジンをかけて走り出した。
最後まで、あの二人を振り返ることはなかった。
家に帰って間もなく、再びエンジン音が下から聞こえてきた。
灯里がクローゼットでネックレスを外していると、不意に背後から大きな体が迫ってきた。
圧倒的な気配が一瞬で彼女を包み込む。
湊斗は両手をガラスの棚に置き、身を屈めて彼女を覗き込む。
「怒ってるのか」
灯里は彼を見ず、ゆっくりとネックレスを片付けながら、淡々と言った。
「殺したくなるほど頭にきてるから、気をつけた方がいいよ」
湊斗はしばらく黙っていたが、再び口を開いた。
「戸崎家が暁星プロジェクトに興味を持っていて、このところ長男の戸崎亮介と連絡を取ってる。夜亜は彼の妹だ」
「ふーん。じゃあその妹に付き添わないと、プロジェクトが駄目になるわけ?」
灯里は皮肉っぽく返した。
「灯里!ちゃんと説明してるんだ、そんな嫌味を言うな!」
「説明なんて必要ないと思うけど」
灯里はようやく顔を向け、冷たい視線で彼を射抜いた。
「湊斗、もし飽きたなら、新しい奥さんに席を譲るよ」
湊斗の顔色が一気に暗くなる。
「何言ってんだ」
灯里は小さくため息をついた。
「つまり、離婚しようってこと」
彼女はその場を離れようとしたが、強く引き留められた。
湊斗は彼女の顎を掴み、低く警告する。
「そんな考え、絶対に持つな」
灯里は黙り込んだ。
でも、彼女はすでに思っただけでなく、実行に移していた。
彼女は、もう彼を求めていなかった。
湊斗はその夜も遅くまで家に残っていたが、一本の電話で呼び出された。
電話の向こうの甘ったるい女性の声が泣きそうな響きで聞こえた。
翌朝、離婚手続きを担当している弁護士であり、友人でもある宮部清美からメッセージが届いた。
戸崎夜亜の最新のSNS投稿。
夜明け前の山頂で撮られた写真。
大きな手と小さな手がハートを作っている。
「朝焼けの優しさに包まれて、互いの鼓動を感じている」だって。
灯里は、一目でその大きな手が誰のものか分かった。
彼女は水の入ったグラスを持ったまま、しばらく動けなかった。
グラスを置いた瞬間、底がテーブルに当たり、乾いた音が響いた。
心の中の何かが、また一つ欠けていく気がした。
その後数日、湊斗は家に戻ってこなかった。
二人は会社の会議で顔を合わせるだけで、
灯里は他の幹部たちと並んで座り、彼と目を合わせることもなかった。
灯里も、彼を探そうとはしなかった。
空いた時間は新しい住まいを探し、これまで湊斗から贈られた記念日のプレゼントや誕生日、バレンタイン――
すべての贈り物、そして結婚指輪までも処分していた。
もう彼を手放すと決めたのに、思い出の残骸なんて必要ない。
夜、スカイクラブのオーナーである山本晴香に誘われた。
夜十一時近く、正直行く気はなかったが、離婚後の起業のためには人脈が必要だと考え、足を運んだ。
クラブに入ってすぐ、晴香と鉢合わせた。
「晴香さん、わざわざ迎えに来なくてもいいのに」
「道に迷われたら困るでしょ?初めてだもんね」
晴香は親しげに灯里の腕を取り、
上階の和風のついたてで仕切られた個室に案内する。
ついたての向こうに人影が見えるのを感じたが、晴香は人の少ない側の席へ案内した。
そこにはどこか見覚えのある女性が一人。
どうやら湊斗の友人のパートナーらしい。
女性は灯里を見ると、少し気まずそうにしながらもぎこちなく微笑んだ。
灯里が上着を脱いで座ると、晴香はまた席を外した。
ドリンクを一口飲み、ついたての向こう側の賑やかな会話がだんだん耳に入ってきた。
話題は、いつの間にか自分のことになっていた。
「最近、湊斗はもう奥さんを連れて来なくなったよな」
「そりゃそうでしょ。戸崎さんは若くて可愛いし、どこに行くにも一緒だったな」
「湊斗もやっと新しい趣味見つけたってことか」
「奥さんがどんなに美人でも、八年も一緒にいたら飽きるよな」
「ほんと馬鹿な女だよな。あんなに長く付き合って、最後にはただの都合のいい女扱い。……いっそ湊斗に捨てられたら、俺が慰めてやろうかな?あの細い腰、ずっと気になってたんだよね……」
灯里の目が、氷のように冷たく光る。
声の主が湊斗の友人だと気づいた。
普段は「奥さん」とへつらっていた相手だ。
同席していた女性は気まずさで視線をそらし、灯里が席を立つのではと心配していた。
だが、灯里は軽く咳払いをして、グラスを手に悠然とついたての向こうへと歩み寄る。
堂々と壁際に寄りかかりながら、何食わぬ顔で会話に割って入った。
「みなさん、それは違うと思いますよ。湊斗と付き合い始めた時、彼だってまだ何も知らない可愛い少年だった。私だって八年間、無料で楽しませたようなもんじゃない?」
個室は静まり返った。
ソファにいた全員が、彼女を驚愕の目で見つめていた。
そしてちょうどその時、個室のドアが開き、背の高い二人の男性が入ってきた。
全員が灯里を見て、そして彼女の背後にいる人物を見て、場の空気は完全に凍りついた。