灯里が橘川家の屋敷に到着したのは、すでに昼近くだった。
玄関で出迎えた執事は、思わず目を見張った。
客が来るとは聞いていたが、それが灯里だとは知らなかったのだ。
しかも今、湊斗は戸崎夜亜とリビングにいる。
執事の額にじんわりと汗が滲む。
湊斗と灯里が密かに結婚していることを知っているのは、両家の親と、ごく近しい田中翔、そしてこの執事くらいだ。
「どうぞ、こちらへ」
執事は覚悟を決めて案内することにした。
リビングに近づくと、弾んだ女の子の声が聞こえてきた。
「また私の勝ち!湊斗ぅ、もしかしてわざと負けてくれてる?」
灯里は足を止め、一瞬の沈黙の後、すべてを悟った。
「ふーん」
思わず冷笑が漏れ、そしてそのままリビングへと歩を進める。
今日の灯里は、引っ越しのために化粧もせず、白いシャツにジーンズというラフな格好。
髪も無造作にまとめていたが、雪のような肌と整った顔立ち、そのままでも十分に輝いていた。
垂れた前髪が、どこか気だるげで清楚な雰囲気を添えていた。
リビングに入ると、湊斗が驚きの視線を向けてきた。
「どうして……」
「お義母さんに呼ばれて来たのよ」
灯里は淡々と答え、視線には皮肉がにじむ。
「ふぅん?香港にいるはずじゃなかったっけ?まさか瞬間移動でも覚えたの?」
「……」
湊斗の目に一瞬、後ろめたさがよぎる。
ソファに座っていた戸崎夜亜が立ち上がり、灯里の前に出て手を差し出した。
「初めまして、戸崎夜亜と申します」
灯里はその手を無視し、視線をすっと逸らす。
そのとき、橘川陽子が部屋に入ってきた。
灯里に一瞥をくれると、夜亜の手を親しげに取った。
「夜亜ちゃん、ここを自分の家だと思って、ゆっくりしてね」
そう言ってから、灯里を紹介する。
「こちらはうちの会社の長浜。ちょっと用があって来てもらったの」
「会社の人間」であることを強調するその言い方は、あからさまだ。
灯里を嫁として認めていないだけでなく、戸崎家との縁談に何の障害もないと夜亜に伝えている。
戸崎夜亜は得意げに顔を上げる。
「なーんだ、ただの社員か」
灯里は二人に目もくれず、じっと湊斗の顔を見つめた。
彼がどう反応するか、見てみたかった。
だが、湊斗は冷たい表情のまま、何も言わない。
彼女の立場を守る気など、全くないのだ。
「橘川さん、お話って?」
灯里は陽子の方を向いた。
「仕事の話はいいわ。せっかく来たんだから、食事でも?」
「結構です。まだ用事がありますんで」
灯里は背を向けて出ていこうとした。
その背中に、陽子の鋭い声が飛ぶ。
「年長者が残れと言っているのに、その態度は何?全く、礼儀も知らないのね!」
灯里は振り返り、凛とした目で陽子を見つめる。
「わかりました。残ります。ただし、後悔しないでください」
そう言うと、ひとり用のソファに静かに座った。
夜亜は堂々と湊斗の隣に腰かけ、彼の腕を抱きしめる。
「湊斗、続きやろうよ」
湊斗はその腕をそっと引き抜き、灯里に目を向けた。
「長浜さんは、囲碁とかできるんですか?」
夜亜も灯里に視線を向ける。
テーブルの上には高級な碁石が並ぶ盤だが、並べられているのは五目並べ。
こんなお遊びでも、湊斗は負けるということは……。
人を喜ばせるのが下手なんじゃないんだ。
ただ自分を喜ばせる気がないだけ。
灯里は湊斗を見上げ、冷たい微笑みを浮かべる。
「できますよ。戸崎さん、一緒にやります?」
湊斗の目に警告の色が浮かぶ。
夜亜は自信満々に石を並べ直す。
「長浜さんは白と黒、どっちがいいですか?」
「黒で」
夜亜は先手を取る。
しばらく打ち続けると、陽子は夜亜の手がしっかりしているのに対し、灯里は無計画に見えた。
陽子は湊斗に目配せし、「これが本物のお嬢様よ」と言いたげだったが、湊斗は無表情のままだった。
やがて盤が埋まり、夜亜はあと一歩で勝てると何度も思ったが、
そのたびに灯里に止められ、次第に焦りが募る。
せめて引き分けに持ち込みたい――そう思いながらも、動揺が隠せない。
「あなたの番よ」
灯里が声をかける。
夜亜は自分の石が三つ並んでいる場所に、あと一つ置けば勝てると思い、平静を装って石を置く。
そして、灯里が気づいていないと確信し、違う場所に石を置いたのを見て、思わず声を上げた。
「やったー!もう私の勝ちね!」
陽子もすぐに拍手する。
だが次の瞬間、灯里の白い指が、盤上の石をひとつずつ静かに集め始めた。
そのときになって初めて、二人は気づいた。
灯里の黒の石が、すでに五つ一直線に並んでいたことに。
二人の表情が、瞬時にこわばった。