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第4話 攻防

灯里が橘川家の屋敷に到着したのは、すでに昼近くだった。


玄関で出迎えた執事は、思わず目を見張った。

客が来るとは聞いていたが、それが灯里だとは知らなかったのだ。


しかも今、湊斗は戸崎夜亜とリビングにいる。

執事の額にじんわりと汗が滲む。


湊斗と灯里が密かに結婚していることを知っているのは、両家の親と、ごく近しい田中翔、そしてこの執事くらいだ。


「どうぞ、こちらへ」


執事は覚悟を決めて案内することにした。

リビングに近づくと、弾んだ女の子の声が聞こえてきた。


「また私の勝ち!湊斗ぅ、もしかしてわざと負けてくれてる?」


灯里は足を止め、一瞬の沈黙の後、すべてを悟った。


「ふーん」


思わず冷笑が漏れ、そしてそのままリビングへと歩を進める。


今日の灯里は、引っ越しのために化粧もせず、白いシャツにジーンズというラフな格好。


髪も無造作にまとめていたが、雪のような肌と整った顔立ち、そのままでも十分に輝いていた。

垂れた前髪が、どこか気だるげで清楚な雰囲気を添えていた。


リビングに入ると、湊斗が驚きの視線を向けてきた。


「どうして……」

「お義母さんに呼ばれて来たのよ」


灯里は淡々と答え、視線には皮肉がにじむ。


「ふぅん?香港にいるはずじゃなかったっけ?まさか瞬間移動でも覚えたの?」

「……」


湊斗の目に一瞬、後ろめたさがよぎる。

ソファに座っていた戸崎夜亜が立ち上がり、灯里の前に出て手を差し出した。


「初めまして、戸崎夜亜と申します」


灯里はその手を無視し、視線をすっと逸らす。

そのとき、橘川陽子が部屋に入ってきた。

灯里に一瞥をくれると、夜亜の手を親しげに取った。


「夜亜ちゃん、ここを自分の家だと思って、ゆっくりしてね」


そう言ってから、灯里を紹介する。


「こちらはうちの会社の長浜。ちょっと用があって来てもらったの」


「会社の人間」であることを強調するその言い方は、あからさまだ。

灯里を嫁として認めていないだけでなく、戸崎家との縁談に何の障害もないと夜亜に伝えている。


戸崎夜亜は得意げに顔を上げる。


「なーんだ、ただの社員か」


灯里は二人に目もくれず、じっと湊斗の顔を見つめた。

彼がどう反応するか、見てみたかった。


だが、湊斗は冷たい表情のまま、何も言わない。

彼女の立場を守る気など、全くないのだ。


「橘川さん、お話って?」


灯里は陽子の方を向いた。


「仕事の話はいいわ。せっかく来たんだから、食事でも?」

「結構です。まだ用事がありますんで」


灯里は背を向けて出ていこうとした。

その背中に、陽子の鋭い声が飛ぶ。


「年長者が残れと言っているのに、その態度は何?全く、礼儀も知らないのね!」


灯里は振り返り、凛とした目で陽子を見つめる。


「わかりました。残ります。ただし、後悔しないでください」


そう言うと、ひとり用のソファに静かに座った。

夜亜は堂々と湊斗の隣に腰かけ、彼の腕を抱きしめる。


「湊斗、続きやろうよ」


湊斗はその腕をそっと引き抜き、灯里に目を向けた。


「長浜さんは、囲碁とかできるんですか?」


夜亜も灯里に視線を向ける。


テーブルの上には高級な碁石が並ぶ盤だが、並べられているのは五目並べ。


こんなお遊びでも、湊斗は負けるということは……。

人を喜ばせるのが下手なんじゃないんだ。


ただ自分を喜ばせる気がないだけ。


灯里は湊斗を見上げ、冷たい微笑みを浮かべる。


「できますよ。戸崎さん、一緒にやります?」


湊斗の目に警告の色が浮かぶ。

夜亜は自信満々に石を並べ直す。


「長浜さんは白と黒、どっちがいいですか?」

「黒で」


夜亜は先手を取る。


しばらく打ち続けると、陽子は夜亜の手がしっかりしているのに対し、灯里は無計画に見えた。

陽子は湊斗に目配せし、「これが本物のお嬢様よ」と言いたげだったが、湊斗は無表情のままだった。


やがて盤が埋まり、夜亜はあと一歩で勝てると何度も思ったが、

そのたびに灯里に止められ、次第に焦りが募る。


せめて引き分けに持ち込みたい――そう思いながらも、動揺が隠せない。


「あなたの番よ」


灯里が声をかける。

夜亜は自分の石が三つ並んでいる場所に、あと一つ置けば勝てると思い、平静を装って石を置く。


そして、灯里が気づいていないと確信し、違う場所に石を置いたのを見て、思わず声を上げた。


「やったー!もう私の勝ちね!」


陽子もすぐに拍手する。

だが次の瞬間、灯里の白い指が、盤上の石をひとつずつ静かに集め始めた。


そのときになって初めて、二人は気づいた。

灯里の黒の石が、すでに五つ一直線に並んでいたことに。


二人の表情が、瞬時にこわばった。

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