灯里は石を静かに取り上げた。
五目並べは一局勝負。
しかし、戸崎夜亜は負けを認めず、むきになって言い張った。
「長浜さんが先に勝ったって、私だって五つ並んだもん!私も勝ってた!」
そう言って、すでに四つ並んでいるところに無理やりもう一石置いた。
灯里は呆れたように数秒夜亜を見つめると、
「へえ、じゃあ私も続けていいの?」
そう言ってさらに一石を置き、また五つを繋げてみせた。
一分も経たないうちに灯里は次々と石を並べ、盤上をほぼ制圧した。
夜亜にはもう勝ち目がない。
夜亜の顔はみるみる赤くなり、泣きそうな声で「もう一回!」と叫ぶ。
二局目、三局目、四局目……
灯里は時にゆっくりと、時にさっと決着をつけ、夜亜をまるで子ども扱いして遊ぶように勝ち続けた。
ついに夜亜は悔し泣きしてしまう。
「もういい!」
湊斗が灯里の碁石箱を奪い取り、冷たい視線が場を支配する。
夜亜はすぐに湊斗の胸に飛び込み、大泣きしながらしがみついた。
陽子も近づき、夜亜をなだめつつ、灯里をきつく叱りつけた。
「たかが五目並べでそこまで真剣になること?やっぱり育ちが違うと、器も小さいわね。嫉妬ばかりして」
三人の声が灯里の耳の中で雑音のように遠ざかっていく。
湊斗の顔は、色あせた古い写真のようにしか見えなかった。
かつての輝きは歪み、ただの影に変わる。
もういい。
あと二十日だ。
灯里は無表情で手の中の石を盤上にばらまき、そのまま立ち上がった。
その動きに合わせて、数滴の血が盤面に落ちた。
外に出てようやく指先が冷たく、手のひらに爪の跡が残り血が滲んでいるのに気づいた。
「灯里!」
湊斗の声がようやく緊張を帯びる。
が、彼が立ち上がろうとしたその時、
夜亜がさらに強く彼の腰にしがみつき、泣き声はますます激しくなる。
灯里は車を走らせ、橘川家の屋敷をあとにした。
スマホが何度も鳴る。
湊斗からの電話だが、そのまま着信拒否にした。
そして、陽子にメッセージを送る。
【225億円。1円でも足りなければ、必ず後悔させてあげます】
窓の外は、いつの間にか雨雲が垂れ込め、細い雨が降り始めていた。
灯里の思考はぼんやりと漂う。
突然、黄色いバイクが目の前を横切った。
心臓が跳ね上がり、とっさにブレーキを踏む。
次の瞬間——
「ガンッ!」という音とともに、後ろから強い衝撃。
額をハンドルにぶつけ、鋭い痛みが広がった。
顔を上げると、ぼやけた雨の向こうに真っ赤な視界。
慌ててティッシュで目元を拭うと、血が滲んでいた。
後ろの車に追突されたが、
あの黄色いバイクはすでにどこかへ消えていた。
「コンコン」
窓が叩かれる。
窓を下げ、外には五十代ほどの上品な紳士が黒い傘を差して立っていた。
「申し訳ありません、お嬢さん。こちらの過失です。うちの若が急いでおりますので、まずはご連絡先を交換させていただけませんか?補償は必ずいたします」
「警察を呼びます」
灯里は冷たい声で答える。
ドアを開けて車の後ろを確認すると、車に追突されてバンパーが凹んでいた。
写真を撮り、証拠を残しながら警察に連絡する。
紳士は肩をすくめ、センチュリーの後部座席へ戻った。
「雅貴様、この女性は警察を呼ぶそうです」
車内では、男が無造作にシートに身を預けていた。
ワイパーが必死に雨を拭き取っても、すぐにまた雨粒で覆われる。
男の視線は、片手で額を押さえながら電話をかける灯里の姿に向けられていた。
深い失意が彼女を包み込み、濡れた白いシャツが肌に張り付いている。
長いまつげに雨粒が絡み、震えるたびに唇へと落ちていく……
「雅貴様?」
伊藤正が小声で呼ぶ。
男は腕時計をちらりと見て、
「小林がもうすぐ来る。俺は先に行く。あとは頼んだ」
「かしこまりました」
灯里は自分の車へ戻り、
しばらくして、パトカーともう一台の高級車がほぼ同時に到着した。
再び車を降りる。
同時に、後ろの車から伊藤正のほかに、背の高い、どこか気品ある男性が現れた。
透き通るような白い肌、深く切れ長の瞳。
灯里の視線に気づくと、彼も鋭く見返してきた。
その目には、不思議な威圧感があった。
なぜか、心の奥で知っているような感覚が走る……
「渡して」
男は腕にかけていたジャケットを伊藤に手渡し、振り返ることなく高級車に乗り込んだ。
「お嬢さん、シャツが濡れてしまっています。どうぞ、これを」
灯里は下を向き、自分のシャツがほぼ透けているのにようやく気づいた。
恥ずかしさを隠しながらジャケットを受け取り、素早く羽織る。
「ありがとうございます」
伊藤は警察に事情を説明しながら、灯里にそれ以上何も言わず、
高級車は雨を切って去っていった。
灯里は一瞬だけ、車窓に映る男の横顔を目にした。
ジャケットには彼の体温がまだ残っている。
落ち着いたウッディな香りが、雨の冷たさをやわらげてくれる。
事故の処理はすぐに終わった。
伊藤は灯里の額の傷のために病院まで同行を申し出たが、
灯里はそれを断り、さきほどの態度を詫びた。
「先ほどは……私の機嫌が悪かっただけで、申し訳ございません。ジャケットはクリーニングしてお返しします」
伊藤は穏やかにうなずき、それ以上は何も言わず、
灯里は一人で病院へ向かった。
一方その頃、灯里と連絡が取れず、
しかも激しい雨の中、湊斗の不安は頂点に達していた。
そんな時、彼のもとに灯里の事故の知らせが届く。