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第5話 事故

灯里は石を静かに取り上げた。


五目並べは一局勝負。

しかし、戸崎夜亜は負けを認めず、むきになって言い張った。


「長浜さんが先に勝ったって、私だって五つ並んだもん!私も勝ってた!」


そう言って、すでに四つ並んでいるところに無理やりもう一石置いた。

灯里は呆れたように数秒夜亜を見つめると、


「へえ、じゃあ私も続けていいの?」


そう言ってさらに一石を置き、また五つを繋げてみせた。

一分も経たないうちに灯里は次々と石を並べ、盤上をほぼ制圧した。

夜亜にはもう勝ち目がない。


夜亜の顔はみるみる赤くなり、泣きそうな声で「もう一回!」と叫ぶ。


二局目、三局目、四局目……


灯里は時にゆっくりと、時にさっと決着をつけ、夜亜をまるで子ども扱いして遊ぶように勝ち続けた。

ついに夜亜は悔し泣きしてしまう。


「もういい!」


湊斗が灯里の碁石箱を奪い取り、冷たい視線が場を支配する。

夜亜はすぐに湊斗の胸に飛び込み、大泣きしながらしがみついた。


陽子も近づき、夜亜をなだめつつ、灯里をきつく叱りつけた。


「たかが五目並べでそこまで真剣になること?やっぱり育ちが違うと、器も小さいわね。嫉妬ばかりして」



三人の声が灯里の耳の中で雑音のように遠ざかっていく。

湊斗の顔は、色あせた古い写真のようにしか見えなかった。

かつての輝きは歪み、ただの影に変わる。


もういい。

あと二十日だ。


灯里は無表情で手の中の石を盤上にばらまき、そのまま立ち上がった。


その動きに合わせて、数滴の血が盤面に落ちた。

外に出てようやく指先が冷たく、手のひらに爪の跡が残り血が滲んでいるのに気づいた。


「灯里!」


湊斗の声がようやく緊張を帯びる。


が、彼が立ち上がろうとしたその時、

夜亜がさらに強く彼の腰にしがみつき、泣き声はますます激しくなる。


灯里は車を走らせ、橘川家の屋敷をあとにした。

スマホが何度も鳴る。

湊斗からの電話だが、そのまま着信拒否にした。


そして、陽子にメッセージを送る。


【225億円。1円でも足りなければ、必ず後悔させてあげます】


窓の外は、いつの間にか雨雲が垂れ込め、細い雨が降り始めていた。

灯里の思考はぼんやりと漂う。


突然、黄色いバイクが目の前を横切った。

心臓が跳ね上がり、とっさにブレーキを踏む。


次の瞬間——


「ガンッ!」という音とともに、後ろから強い衝撃。

額をハンドルにぶつけ、鋭い痛みが広がった。


顔を上げると、ぼやけた雨の向こうに真っ赤な視界。

慌ててティッシュで目元を拭うと、血が滲んでいた。


後ろの車に追突されたが、

あの黄色いバイクはすでにどこかへ消えていた。


「コンコン」


窓が叩かれる。


窓を下げ、外には五十代ほどの上品な紳士が黒い傘を差して立っていた。


「申し訳ありません、お嬢さん。こちらの過失です。うちの若が急いでおりますので、まずはご連絡先を交換させていただけませんか?補償は必ずいたします」


「警察を呼びます」

灯里は冷たい声で答える。


ドアを開けて車の後ろを確認すると、車に追突されてバンパーが凹んでいた。

写真を撮り、証拠を残しながら警察に連絡する。


紳士は肩をすくめ、センチュリーの後部座席へ戻った。


「雅貴様、この女性は警察を呼ぶそうです」


車内では、男が無造作にシートに身を預けていた。

ワイパーが必死に雨を拭き取っても、すぐにまた雨粒で覆われる。

男の視線は、片手で額を押さえながら電話をかける灯里の姿に向けられていた。


深い失意が彼女を包み込み、濡れた白いシャツが肌に張り付いている。

長いまつげに雨粒が絡み、震えるたびに唇へと落ちていく……


「雅貴様?」


伊藤正が小声で呼ぶ。


男は腕時計をちらりと見て、

「小林がもうすぐ来る。俺は先に行く。あとは頼んだ」

「かしこまりました」


灯里は自分の車へ戻り、

しばらくして、パトカーともう一台の高級車がほぼ同時に到着した。


再び車を降りる。


同時に、後ろの車から伊藤正のほかに、背の高い、どこか気品ある男性が現れた。

透き通るような白い肌、深く切れ長の瞳。

灯里の視線に気づくと、彼も鋭く見返してきた。

その目には、不思議な威圧感があった。


なぜか、心の奥で知っているような感覚が走る……


「渡して」


男は腕にかけていたジャケットを伊藤に手渡し、振り返ることなく高級車に乗り込んだ。


「お嬢さん、シャツが濡れてしまっています。どうぞ、これを」


灯里は下を向き、自分のシャツがほぼ透けているのにようやく気づいた。

恥ずかしさを隠しながらジャケットを受け取り、素早く羽織る。


「ありがとうございます」


伊藤は警察に事情を説明しながら、灯里にそれ以上何も言わず、

高級車は雨を切って去っていった。


灯里は一瞬だけ、車窓に映る男の横顔を目にした。


ジャケットには彼の体温がまだ残っている。

落ち着いたウッディな香りが、雨の冷たさをやわらげてくれる。


事故の処理はすぐに終わった。


伊藤は灯里の額の傷のために病院まで同行を申し出たが、

灯里はそれを断り、さきほどの態度を詫びた。


「先ほどは……私の機嫌が悪かっただけで、申し訳ございません。ジャケットはクリーニングしてお返しします」


伊藤は穏やかにうなずき、それ以上は何も言わず、

灯里は一人で病院へ向かった。


一方その頃、灯里と連絡が取れず、

しかも激しい雨の中、湊斗の不安は頂点に達していた。


そんな時、彼のもとに灯里の事故の知らせが届く。


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