灯里が治療室で額の傷を手当てしてもらってる頃、
突然、ドアが勢いよく開かれ、湊斗が冷たい空気をまとって飛び込んできた。
その剣幕に、医者まで思わず身を引いた。
灯里は振り返り、淡々とした口調で言う。
「大丈夫です。彼は……職場の上司です」
「夫」という言葉が喉元で引っかかったが、飲み込んだ。
湊斗は喉を鳴らして詰まるような表情を浮かべ、医者に詰め寄る。
「そのケガ……大丈夫ですか」
「外傷ですので、心配いりません」
医者は二人の関係には興味を示さず、処置を終えて外用薬を渡した。
灯里は礼を言って立ち上がり、湊斗はすぐ後を追った。
彼女が会計に行こうとすれば先に支払いを済ませ、薬を受け取ろうとすると彼女より先に手に取る。
その姿はまるで模範的な夫そのものだった。
灯里はもう何も言う気になれない。
病院を出るとタクシーを呼ぼうとした。
だが湊斗はすかさず彼女を無理やり駐車場へと連れて行く。
助手席のドアを乱暴に開け、灯里を押し込むと、
自分も運転席に回り、ドアを力任せに閉めた。
閉ざされた車内は一気に外界と切り離され、重苦しい空気が立ち込める。
「俺をブロックして、自殺でもして仕返しするつもりかっ」
湊斗が鋭い目で見つめてくる。
顔には苛立ちと怒りが混じっていた。
灯里は黙ったまま彼を見返す。
その馬鹿げた非難に、思わず苦笑がこぼれる。
胸の痛みまで、彼の身勝手な言葉に少しだけ和らいだ気がした。
裏切ったのは彼の方なのに、自分はそれを罰するために死のうとしたとでも思ってるのか。
なんと滑稽な自己愛だろう。
「心配しなくていい。あなたにそんな資格ないわ」
「……今日、嘘をついたのは認める。でも泣かせた君も悪いだろ。あの子は甘やかされて育ったから、言葉がきつくなっただけだ。そんなに目くじら立てなくてもいいだろう」
彼の詭弁、戸崎夜亜をかばう言葉、自然とにじむ甘さ……。
この男、自分がどれほど醜くなったか、わかっているの?
しばらく沈黙のあと、灯里は冷え切った声で口を開いた。
「今後は彼女に意地悪もしないし、あなたたちに口出しするつもりもない。ただ、ちゃんと彼女を管理して。もう二度と私の前で失礼な真似をさせないで」
「……俺にとって夜亜は妹みたいな存在だ。君が思ってるような関係じゃない」
湊斗は眉をひそめて弁解する。
「そう、妹ね」
灯里は証拠を突きつけようとする衝動を必死に押し殺し、
「私が悪かった。思い込んでしまって。おめでとう、新しい“妹”までできて」
と皮肉を込めて言い放つ。
「……」
「早く運転して」
骨の髄まで冷えきった気がして、灯里は無意識に身を寄せていたスーツをぎゅっと抱きしめる。
襟元からほのかに漂う香りが、再び鼻先をくすぐった。
その時、湊斗は灯里が羽織っている上質なメンズスーツに目を留めた。
明らかに高級なオーダーメイド品だ。
「誰の?」声が急に冷たくなる。
灯里は顔を背け、窓の外を見ながら皮肉っぽく答えた。
「兄の。さっき知り合ったばかりだけど」
湊斗の目が鋭く光る。
彼は勢いよくそのスーツを脱がせると、窓の外に投げ捨てた。
「何すんの!」
灯里は驚きと怒りで車のドアを開け、スーツを拾いに行こうとする。
だが、湊斗は彼女を引き戻し、身を乗り出して激しく唇を奪った。
灯里は歯を食いしばって抵抗するが、
彼はその抵抗を力ずくでこじ開け、強引に彼女を支配していく。
十分に満足するまで唇を離さず、ようやく顔を離すと熱い吐息が灯里の頬にかかった。
「そんな手で俺を試すな。自分が何を招くか、よく考えろ」
灯里はただ呆れるしかなかった。
結局、あのスーツは拾えなかった。
約束していた「きれいにして返す」も、ただの空約束となった。
*
週末の騒動のあと、灯里はその夜、ひどい熱を出した。
湊斗は珍しく外出せず、おかゆを作ったり薬を飲ませたり、甲斐甲斐しく世話をした。
その一時的な優しさに、まるでまだ自分を愛しているのではと錯覚しそうになる。
夜中になっても熱は下がらず、灯里は意識がもうろうとする。
「ジジジジ……」
枕元の湊斗のスマホが、突然大きく震え始めた。
灯里は力を振り絞って起き上がり、同時に彼も画面に目をやる。
時刻は0時35分。
表示されている名前は「夜亜」。
あまりにも親しげな呼び名……。
静まり返った夜に響く着信音と振動は、まるで枕元ではなく、二人の張り詰めた神経を直接揺さぶるようだった。