黙り込んでいた灯里に、
湊斗の穏やかな顔には、わずかな動揺が隠されている。
スマホはしつこく震え続け、着信からビデオ通話、挙げ句の果てには次々とメッセージが届き、騒がしく画面を埋め尽くしていく。
部屋の空気は、張り詰めた糸のように緊張していた。
「出ないの?」
灯里の声は、初冬の霜のように冷たかった。
湊斗はようやく手を伸ばし、スマホを手に取ると、
画面を見ることもなく電源を切り、ベッドサイドに戻した。
そして、灯里の額にそっと手を当てる。
「まだ熱あるな。もう寝よう。俺がそばにいるから」
灯里は黙って横になり、目を閉じた。
一時間ほど経ち、彼女の呼吸は穏やかで規則正しくなり、ようやく眠りについてたようだった。
湊斗はそっとスマホを手に取り、電源を入れながら足早にバルコニーへ向かった。
メッセージを確認した後、すぐに電話をかける。
声を抑え、ひそやかに囁く。
「もう大丈夫……すぐ行くから……」
部屋に戻ると、上着を手に取って足早に家を出た。
扉が閉まる音が響いた瞬間、灯里は目を開けた。
彼女は一度も眠ってなどいなかった。
自分でも嫌悪していた、わずかな期待の灯火が、完全に消え去ってしまった。
裏切る男なんて、腐った果実のように、日に日に醜くなっていくばかりだ――
午前四時半。
湊斗が帰宅した。
灯里が「眠っている」姿を見て、ほっと息をつき、そっと額に手を当てる。
熱はもう下がっていた。
身を翻し、風呂場へ向かう。
ほどなくして、バスローブ姿で戻ってきた湊斗は、灯里の背後からいつものように腰に手を回して横になった。
やがて彼の呼吸が静かになり、深い眠りに落ちる。
灯里は静かにその手を外し、起き上がる。
冷たい目で眠る男の顔を見つめた。
整った顔立ち、薄い唇、くっきりとした喉元のライン――
視線は、彼の鎖骨に残る細かく新しい噛み跡にとどまる。
胸の奥に鋭い痛みが走った。
今、彼女の脳裏には狂気じみた衝動が一閃した――
枕で、彼を窒息させてしまいたい。
*
湊斗が目を覚ますと、灯里はすでにキッチンで忙しそうにしていた。
彼が階下に降りると、彼女はエプロン姿で朝食を二人分テーブルに並べていた。
「朝ごはん、できてるよ」
「熱が下がったばかりなんだから、もう少し休めばいいのに」
湊斗が彼女の額に手を伸ばそうとすると、灯里はさりげなく顔をそらした。
「ちょっとした風邪だし、もう大丈夫」
灯里はエプロンを外して、席に着いた。
空振りした湊斗は少し気まずそうにしながらも、
彼女が落ち着いている様子に安心し、テーブルに座った。
「ちょっと相談がある」
灯里が口を開いた。
「何?」
湊斗はジュースを一口飲む。
「仕事を辞めようと思う」
湊斗は驚いて目を見開いた。
問い返そうとするより先に、灯里は続けた。
「ここ数年、仕事ばかりで疲れちゃって。たまには奥さんらしく、ゆっくり過ごすのも悪くないかなって思って」
湊斗は灯里をじっと見つめ、その言葉の真意を測る。
「本気?」
「もちろんよ」
灯里は微笑みながら返す。
「あら、私が働き者に似合いすぎて休むこともできないの?」
湊斗はしばらく考え、うなずく。
「それもいいかもな。家にいてくれる方が……子どものことも考えられるし」
灯里は笑って受け流した。
ふん、都合のいい話ね。
子どもを産むための道具にして、自分は好きに遊ぶつもり?
そんな夢、見ていればいいわ。
「じゃあ、今週中に手続きしてくるね。気分転換にヨーロッパでも行こうかと思って。清美と約束してて、旅行なんて久しぶりだから」
「清美?彼女、事務所で忙しいんじゃないの?付き合えるの?」
「忙しいけど、私のために時間を作ってくれるの」
灯里は穏やかに微笑んだ。
湊斗は一瞬言葉を失い、何かを思い至ったようだった。
しばらくして、
「たまには外に出るのもいいね。旅の手配は俺がしておくよ。君は楽しむだけでいい」
灯里はただ微笑み、肯定も否定もしなかった。
その時が来れば、もう一生会うことないだろう。
額の傷が目立つせいで、灯里は「捨てられた妻」のような姿で会社を辞めたくなかったこともあり、数日間自宅で静養することにした。
時間に余裕ができた彼女は、毎日少しずつ自分の服やバッグ、小物を整理して、新居に運んでいた。
今日はこれ、明日はあれ、と荷物はどんどん減り、クローゼットもすっかり空になっていく。
その気になれば、すぐ気づくはずだった。
だが、湊斗は全く気づかなかった。
灯里が目の前で二人の大きな結婚写真を庭の鉄製バケツに入れ、灯油をかけて燃やしている時でさえ、彼はスマホの画面に夢中で、時折楽しげに笑いながらメッセージを送っていた。
ほんの一瞬でもいい、彼が窓の向こうに目を向けてくれたなら――
灯里は夕暮れの光の中、笑顔のままの男をじっと見つめ続けた。
ライターの熱が指先を刺すまで、彼女はようやく手を離した。
炎が勢いよく立ち上がり、灯油を貪る。
バケツの中が一気に明るくなった。
写真の中、灯里は幸せそうに微笑み、湊斗の目には彼女だけが映っていた――
そんな二人の顔は、炎にねじ曲げられ、溶けていく。
最後には黒く焼け焦げた破片となり、やがて灰となって消えていった。
激しい息苦しさが胸を締め付ける。
灯里は燃え残る灰を見つめ、目の奥に濃い霧が立ち込めた。
「何を燃やしてるの?」
湊斗はようやく庭の異変に気づき、外へ出てきた。
灯里は少し顎を上げ、こみ上げる感情を力いっぱい押し殺す。
振り返ったその目は、赤みを帯びていたが、どこか優しく、しかし距離を感じさせる微笑みを浮かべていた。
「別に――ただの……いらないゴミよ」