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第7話 ゴミ


黙り込んでいた灯里に、

湊斗の穏やかな顔には、わずかな動揺が隠されている。


スマホはしつこく震え続け、着信からビデオ通話、挙げ句の果てには次々とメッセージが届き、騒がしく画面を埋め尽くしていく。


部屋の空気は、張り詰めた糸のように緊張していた。


「出ないの?」


灯里の声は、初冬の霜のように冷たかった。


湊斗はようやく手を伸ばし、スマホを手に取ると、

画面を見ることもなく電源を切り、ベッドサイドに戻した。


そして、灯里の額にそっと手を当てる。


「まだ熱あるな。もう寝よう。俺がそばにいるから」


灯里は黙って横になり、目を閉じた。

一時間ほど経ち、彼女の呼吸は穏やかで規則正しくなり、ようやく眠りについてたようだった。


湊斗はそっとスマホを手に取り、電源を入れながら足早にバルコニーへ向かった。

メッセージを確認した後、すぐに電話をかける。

声を抑え、ひそやかに囁く。


「もう大丈夫……すぐ行くから……」


部屋に戻ると、上着を手に取って足早に家を出た。

扉が閉まる音が響いた瞬間、灯里は目を開けた。


彼女は一度も眠ってなどいなかった。


自分でも嫌悪していた、わずかな期待の灯火が、完全に消え去ってしまった。

裏切る男なんて、腐った果実のように、日に日に醜くなっていくばかりだ――


午前四時半。

湊斗が帰宅した。


灯里が「眠っている」姿を見て、ほっと息をつき、そっと額に手を当てる。

熱はもう下がっていた。


身を翻し、風呂場へ向かう。

ほどなくして、バスローブ姿で戻ってきた湊斗は、灯里の背後からいつものように腰に手を回して横になった。


やがて彼の呼吸が静かになり、深い眠りに落ちる。


灯里は静かにその手を外し、起き上がる。

冷たい目で眠る男の顔を見つめた。

整った顔立ち、薄い唇、くっきりとした喉元のライン――


視線は、彼の鎖骨に残る細かく新しい噛み跡にとどまる。

胸の奥に鋭い痛みが走った。


今、彼女の脳裏には狂気じみた衝動が一閃した――

枕で、彼を窒息させてしまいたい。


*


湊斗が目を覚ますと、灯里はすでにキッチンで忙しそうにしていた。


彼が階下に降りると、彼女はエプロン姿で朝食を二人分テーブルに並べていた。


「朝ごはん、できてるよ」

「熱が下がったばかりなんだから、もう少し休めばいいのに」


湊斗が彼女の額に手を伸ばそうとすると、灯里はさりげなく顔をそらした。


「ちょっとした風邪だし、もう大丈夫」


灯里はエプロンを外して、席に着いた。

空振りした湊斗は少し気まずそうにしながらも、

彼女が落ち着いている様子に安心し、テーブルに座った。


「ちょっと相談がある」


灯里が口を開いた。


「何?」


湊斗はジュースを一口飲む。


「仕事を辞めようと思う」


湊斗は驚いて目を見開いた。

問い返そうとするより先に、灯里は続けた。


「ここ数年、仕事ばかりで疲れちゃって。たまには奥さんらしく、ゆっくり過ごすのも悪くないかなって思って」


湊斗は灯里をじっと見つめ、その言葉の真意を測る。


「本気?」

「もちろんよ」


灯里は微笑みながら返す。


「あら、私が働き者に似合いすぎて休むこともできないの?」


湊斗はしばらく考え、うなずく。


「それもいいかもな。家にいてくれる方が……子どものことも考えられるし」


灯里は笑って受け流した。


ふん、都合のいい話ね。

子どもを産むための道具にして、自分は好きに遊ぶつもり?

そんな夢、見ていればいいわ。


「じゃあ、今週中に手続きしてくるね。気分転換にヨーロッパでも行こうかと思って。清美と約束してて、旅行なんて久しぶりだから」

「清美?彼女、事務所で忙しいんじゃないの?付き合えるの?」

「忙しいけど、私のために時間を作ってくれるの」


灯里は穏やかに微笑んだ。

湊斗は一瞬言葉を失い、何かを思い至ったようだった。


しばらくして、

「たまには外に出るのもいいね。旅の手配は俺がしておくよ。君は楽しむだけでいい」


灯里はただ微笑み、肯定も否定もしなかった。


その時が来れば、もう一生会うことないだろう。



額の傷が目立つせいで、灯里は「捨てられた妻」のような姿で会社を辞めたくなかったこともあり、数日間自宅で静養することにした。


時間に余裕ができた彼女は、毎日少しずつ自分の服やバッグ、小物を整理して、新居に運んでいた。


今日はこれ、明日はあれ、と荷物はどんどん減り、クローゼットもすっかり空になっていく。

その気になれば、すぐ気づくはずだった。


だが、湊斗は全く気づかなかった。


灯里が目の前で二人の大きな結婚写真を庭の鉄製バケツに入れ、灯油をかけて燃やしている時でさえ、彼はスマホの画面に夢中で、時折楽しげに笑いながらメッセージを送っていた。


ほんの一瞬でもいい、彼が窓の向こうに目を向けてくれたなら――


灯里は夕暮れの光の中、笑顔のままの男をじっと見つめ続けた。

ライターの熱が指先を刺すまで、彼女はようやく手を離した。


炎が勢いよく立ち上がり、灯油を貪る。

バケツの中が一気に明るくなった。


写真の中、灯里は幸せそうに微笑み、湊斗の目には彼女だけが映っていた――

そんな二人の顔は、炎にねじ曲げられ、溶けていく。

最後には黒く焼け焦げた破片となり、やがて灰となって消えていった。


激しい息苦しさが胸を締め付ける。

灯里は燃え残る灰を見つめ、目の奥に濃い霧が立ち込めた。


「何を燃やしてるの?」


湊斗はようやく庭の異変に気づき、外へ出てきた。


灯里は少し顎を上げ、こみ上げる感情を力いっぱい押し殺す。

振り返ったその目は、赤みを帯びていたが、どこか優しく、しかし距離を感じさせる微笑みを浮かべていた。


「別に――ただの……いらないゴミよ」


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