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第8話 屈辱

湊斗は黒煙を上げるバケツを一瞥し、不思議そうな顔をした。


「ゴミはそのまま捨てればいいだろ」

「燃やした方が清潔よ」


湊斗は不満げに眉をひそめたが、

二人は言葉もなく、薄暗くなっていく庭に立ち尽くす。


最後の光が夜に飲まれていった。


金曜の朝、自動車ディーラーから電話があり、車の修理が終わったと告げられた。


灯里は車を受け取り、伊藤に連絡を取ろうとしたが、

その時ふとスーツのことを思い出した。


「きれいにして返す」と約束していたのに……。


しばらく考えたあと、電話をかけて修理が完了したことと、明細書を送信した。

その最後に一言添えた。


「えっと……恐れ入りますが、ご子息の身長・体重・スリーサイズを教えていただけますか?」


ここまで詳しく聞いたのは、スーツが通常セットで売られているからだ。

上着だけ失くしたなら、ズボンも含めて新調して返した方が、相手にも気を遣わせずに済む。


伊藤の返信はなかった。

灯里はしばらく待ったが、音沙汰なし。


もしかして彼も正確には分からなくて、本人に聞きに行ってるのかもしれない。

それ以上は気にせず、車を進めた。


次の交差点で、営業部長から電話が入り、データの確認を求められる。

額の傷もほぼ治り、灯里は車を橘川グループ本社へと向けた。


しばらく休んでいたため、企画部に顔を出すと、部下たちが次々と声をかけてきた。


まだ退職の話はしていなく、灯里の心には少しばかりの罪悪感があった。

自分が辞めれば、彼らはまた新しい上司に慣れなければならないからだ。


営業部での用事を済ませ、オフィスに戻ると山積みの仕事に追われる。

ようやく午後になって、退職届をプリントアウトし、定時前に湊斗に提出するつもりで準備した。


だが、定時を待たずに、給湯室で水をくもうとしたとき、耳を疑うような話が飛び込んできた。


「秘書から聞いたんだけど、戸崎ホールディングスのお嬢様、戸崎夜亜さんが今日からうちで働くらしいよ!社長が直接、隣の部屋に席を用意したって!」

「マジか!橘川家と戸崎家、ついに縁談ってこと!?」

「……でも、長浜さんはどうなるの?社長の彼女だよな」



数人は言葉を失い、互いに顔を見合わせつつ声を潜めて、

夜亜に対する悪口や、灯里を哀れむ言葉、そして社長の薄情さをささやいていた。


灯里はドアの外で静かに聞いていた。


やがて、空のカップを手にデスクに戻り、しばらく呆然と座り込む。

そして、プリントアウトした退職届を持ち、階上へ向かった。


早く辞めて、早く楽になろう。


社長室のフロアに着くと、田中翔が慌てた様子で立ちはだかった。


「奥さま、今、社長は会議中です。入室はご遠慮ください!」


灯里はうなずいて踵を返すふりをしたが、田中の警戒が緩んだ隙に、

素早くドアノブをつかみ、ドアを勢いよく押し開けた。


灯里は時々、自分自身にうんざりすることがある。

もう未練もない男に、なぜここまで意地になるのか。

……なぜ、自分で自分を傷つけるような真似をするのか。


けれど人間なんて、時に感情に振り回されるものだ。


「きゃあーーーっ!」


オフィスの中から悲鳴が上がった。


バスタオル一枚を巻いただけの夜亜が、湊斗の背中にしがみついていた。

突然の大きな音に、びくっと体を震わせた。


湊斗の顔から笑みが消える。


田中は青ざめて目を覆いながら言った。


「あ、あの、戸崎さんはさっき資料運びで汗をかいたので……その、シャワーを浴びて……誤解を招くといけないと思ったので……」


灯里は田中を冷ややかに一瞥し、半ば呆れたように言う。


「田中さん、せっかくのエリートコースも、女衒みたいになっちゃってるわね」


そう言い放つと、視線を戻し、ゆっくりと部屋に入った。


「何を言ってるのよ!たかが社員のくせに、社長室に勝手に入ってくるなんて!もうクビよ、明日から来なくていいわ!」


夜亜は怒りに震えながら叫んだ。

灯里はデスクの前まで進み、退職届を静かに置いて言った。


「辞める話は前から伝えているわ。旅行の準備もあるし、明日から会社には来ない。業務の引き継ぎだけはまた時間を作って来るつもり」


湊斗は目を逸らし、灯里を直視できない。


「好きにしろ」

「うん」


灯里はバスタオル姿の夜亜を一瞥し、再び湊斗に目をやる。


「じゃあ、”会議”の続きでもどうぞ」


冷めた視線を残し、踵を返して歩き出す。

その背中に、夜亜の甲高い声が響いた。


「続けるかどうか、あなたには関係ないでしょ!自分を何様だと思ってんの!?湊斗はもうあなたなんか愛してない!今は私のことが好きなの!何度も一緒に夜を――」


「やめろ!」


湊斗が鋭い声で遮った。


灯里は大きく息を吸い込む。

そして、踵を返し背筋を伸ばして言い放つ。


「言わせておきなさい。戸崎家のお嬢様がどこまで恥知らずか、ちょうど聞いてみたかったところ」


灯里は夜亜を鋭く睨みつける。


「どっちらにしろ、あなたはただの浮気相手よ。このドアを開けて入った以上、あなたたちはもう二度と、恥知らずとして後ろ指をさされ続けることになる。それくらい分かってないの?」


「私を侮辱する気!?」


夜亜は逆上し、灯里に飛びかかってきたが、

灯里は容赦なく平手打ちをくらわせる。


さらに夜亜が向かってこようとすると、灯里は素早くバスタオルを引き剥がし、夜亜の頭を押さえつけて床に叩きつけた。


けどその瞬間、強い力で後ろから引き離され――

不意を突かれた灯里は大きくよろけ、腰をデスクの角に強くぶつけた。


激痛が走り、全身に冷や汗が噴き出す。

呻くことさえできないほどの痛みだった。


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