湊斗は黒煙を上げるバケツを一瞥し、不思議そうな顔をした。
「ゴミはそのまま捨てればいいだろ」
「燃やした方が清潔よ」
湊斗は不満げに眉をひそめたが、
二人は言葉もなく、薄暗くなっていく庭に立ち尽くす。
最後の光が夜に飲まれていった。
金曜の朝、自動車ディーラーから電話があり、車の修理が終わったと告げられた。
灯里は車を受け取り、伊藤に連絡を取ろうとしたが、
その時ふとスーツのことを思い出した。
「きれいにして返す」と約束していたのに……。
しばらく考えたあと、電話をかけて修理が完了したことと、明細書を送信した。
その最後に一言添えた。
「えっと……恐れ入りますが、ご子息の身長・体重・スリーサイズを教えていただけますか?」
ここまで詳しく聞いたのは、スーツが通常セットで売られているからだ。
上着だけ失くしたなら、ズボンも含めて新調して返した方が、相手にも気を遣わせずに済む。
伊藤の返信はなかった。
灯里はしばらく待ったが、音沙汰なし。
もしかして彼も正確には分からなくて、本人に聞きに行ってるのかもしれない。
それ以上は気にせず、車を進めた。
次の交差点で、営業部長から電話が入り、データの確認を求められる。
額の傷もほぼ治り、灯里は車を橘川グループ本社へと向けた。
しばらく休んでいたため、企画部に顔を出すと、部下たちが次々と声をかけてきた。
まだ退職の話はしていなく、灯里の心には少しばかりの罪悪感があった。
自分が辞めれば、彼らはまた新しい上司に慣れなければならないからだ。
営業部での用事を済ませ、オフィスに戻ると山積みの仕事に追われる。
ようやく午後になって、退職届をプリントアウトし、定時前に湊斗に提出するつもりで準備した。
だが、定時を待たずに、給湯室で水をくもうとしたとき、耳を疑うような話が飛び込んできた。
「秘書から聞いたんだけど、戸崎ホールディングスのお嬢様、戸崎夜亜さんが今日からうちで働くらしいよ!社長が直接、隣の部屋に席を用意したって!」
「マジか!橘川家と戸崎家、ついに縁談ってこと!?」
「……でも、長浜さんはどうなるの?社長の彼女だよな」
数人は言葉を失い、互いに顔を見合わせつつ声を潜めて、
夜亜に対する悪口や、灯里を哀れむ言葉、そして社長の薄情さをささやいていた。
灯里はドアの外で静かに聞いていた。
やがて、空のカップを手にデスクに戻り、しばらく呆然と座り込む。
そして、プリントアウトした退職届を持ち、階上へ向かった。
早く辞めて、早く楽になろう。
社長室のフロアに着くと、田中翔が慌てた様子で立ちはだかった。
「奥さま、今、社長は会議中です。入室はご遠慮ください!」
灯里はうなずいて踵を返すふりをしたが、田中の警戒が緩んだ隙に、
素早くドアノブをつかみ、ドアを勢いよく押し開けた。
灯里は時々、自分自身にうんざりすることがある。
もう未練もない男に、なぜここまで意地になるのか。
……なぜ、自分で自分を傷つけるような真似をするのか。
けれど人間なんて、時に感情に振り回されるものだ。
「きゃあーーーっ!」
オフィスの中から悲鳴が上がった。
バスタオル一枚を巻いただけの夜亜が、湊斗の背中にしがみついていた。
突然の大きな音に、びくっと体を震わせた。
湊斗の顔から笑みが消える。
田中は青ざめて目を覆いながら言った。
「あ、あの、戸崎さんはさっき資料運びで汗をかいたので……その、シャワーを浴びて……誤解を招くといけないと思ったので……」
灯里は田中を冷ややかに一瞥し、半ば呆れたように言う。
「田中さん、せっかくのエリートコースも、女衒みたいになっちゃってるわね」
そう言い放つと、視線を戻し、ゆっくりと部屋に入った。
「何を言ってるのよ!たかが社員のくせに、社長室に勝手に入ってくるなんて!もうクビよ、明日から来なくていいわ!」
夜亜は怒りに震えながら叫んだ。
灯里はデスクの前まで進み、退職届を静かに置いて言った。
「辞める話は前から伝えているわ。旅行の準備もあるし、明日から会社には来ない。業務の引き継ぎだけはまた時間を作って来るつもり」
湊斗は目を逸らし、灯里を直視できない。
「好きにしろ」
「うん」
灯里はバスタオル姿の夜亜を一瞥し、再び湊斗に目をやる。
「じゃあ、”会議”の続きでもどうぞ」
冷めた視線を残し、踵を返して歩き出す。
その背中に、夜亜の甲高い声が響いた。
「続けるかどうか、あなたには関係ないでしょ!自分を何様だと思ってんの!?湊斗はもうあなたなんか愛してない!今は私のことが好きなの!何度も一緒に夜を――」
「やめろ!」
湊斗が鋭い声で遮った。
灯里は大きく息を吸い込む。
そして、踵を返し背筋を伸ばして言い放つ。
「言わせておきなさい。戸崎家のお嬢様がどこまで恥知らずか、ちょうど聞いてみたかったところ」
灯里は夜亜を鋭く睨みつける。
「どっちらにしろ、あなたはただの浮気相手よ。このドアを開けて入った以上、あなたたちはもう二度と、恥知らずとして後ろ指をさされ続けることになる。それくらい分かってないの?」
「私を侮辱する気!?」
夜亜は逆上し、灯里に飛びかかってきたが、
灯里は容赦なく平手打ちをくらわせる。
さらに夜亜が向かってこようとすると、灯里は素早くバスタオルを引き剥がし、夜亜の頭を押さえつけて床に叩きつけた。
けどその瞬間、強い力で後ろから引き離され――
不意を突かれた灯里は大きくよろけ、腰をデスクの角に強くぶつけた。
激痛が走り、全身に冷や汗が噴き出す。
呻くことさえできないほどの痛みだった。