湊斗は素早くスーツの上着を脱ぎ、戸崎夜亜の裸の身体を覆った。
彼女は泣き叫び、まるで世界の終わりのようだった。
「出て行けっ!」
湊斗は怒鳴りつけ、灯里の蒼白な顔色など全く目に入っていなかった。
田中は我に返り、ふらつく灯里を慌てて支えた。
「大丈夫ですか……?」
灯里は奥歯を噛みしめ、目にうっすら涙を浮かべて湊斗を睨みつけた。
「湊斗、あんたよりクズな人間はもうどこにもいないわ」
田中の手を振り払うと、激しい痛みを堪えながらよろよろと部屋を出ていった。
湊斗の胸に、言いようのない不安が走る。
あの目――
このドアが閉まれば、もう二度と戻らないという決意があった。
動揺が広がった。
田中が小声でささやく。
「社長……奥……長浜さん、腰を強く打ったみたいです。かなりひどい様子で……」
その言葉に、湊斗の瞳孔が縮む。
自分が取り乱して彼女を強く引っ張ったこと、苦しそうな表情を思い出した。
泣き叫ぶ夜亜には目もくれず、慌てて追いかける。
「清美、計画を前倒しにしよう……もう一日たりともあの顔を見たくない」
灯里はエレベーターの隅に身を寄せ、弱々しく電話をかけていた。
声はかすかに震えている。
このままの姿では企画部には戻れない。
何とか運転して新居へとたどり着いた。
電話越しに、宮部清美は灯里の極限状態を察し、バッグと鍵を掴んで家を飛び出した。
「今どこ? 住所を教えて」
灯里は住所を伝える。
「待ってて。すぐ行くから!」
宮部清美は灯里の弁護士であり、親友でもあった。
外見は穏やかだが芯の強い灯里が、湊斗の浮気を知ってからも冷静に離婚の準備を進め、決して涙を見せたことがなかった。
ここまで追い詰められるなんて――
湊斗のやつ、本当に許せない。
「うん……ありがとう」
電話を切ると、灯里は目を閉じ、冷たいエレベーターの壁にもたれかかった。
長い髪が顔を覆い、世界の光を遮る。
思考は暗い渦の中へ沈んでいく――
どれくらい時間が経っただろう。
「もういいか?」
沈黙のエレベーターに、低く冷たい男の声が響いた。
灯里はハッと目を見開き、慌てて顔を上げる。
視線の先には、黒いジャケットの広い肩と白い首筋、そして氷のような目があった。
「あなた……」
追突事故で出会ったあの男だと気づき、言葉を失ったまま、見つめ返すしかなかった。
……
白金雅貴は、目の前の抜け殻のような灯里を見て、ため息をついた。
ぼんやりと自分にくっついてエレベーターに入ってきたかと思えば、隅に固まったまま動かない。
彼は身をかがめて近づく。
190センチ近い長身は、無言の圧迫感を生む。
灯里は反射的に手を上げて防ごうとした。
「何を……」
言い終わる前に、彼の骨ばった手がそっと灯里の腕を押しのけ、指紋認証センサーに手を当てた。
灯里は固まり、この時になってようやく我に返る。
エレベーターが動かないのは、階数ボタンを押していなかったからだ――
しかも自分がセンサーを塞いでいたせいで、彼も操作できなかった。
気まずさで顔が熱くなる。
エレベーターはようやく動き出した。
彼が押した階は「46」、最上階だった。
灯里は体の向きをそっと変え、重苦しい沈黙が流れる。
その時、白金のスマホが鳴った。
彼が電話に出ると、冷たい低音がエレベーター内に響く。
「何の用……スリーサイズ? 長浜って人が俺のスリーサイズを?」
灯里は首をこわばらせ、顔が一気に真っ赤になる。
視界がぼやける。
思い切って息を吸い込み、震える声で問いかけた。
「……えっと…はい。教えていただけますか……?」
白金は無表情で灯里を見つめる。
「……」
チン――
エレベーターの扉が開いた。
灯里は救われた思いで、腰を押さえながら足早に立ち去った。
*
宮部清美が到着した時、灯里はベッドにうつ伏せになり、腰の激痛で身動きが取れなかった。
それでもなぜか、壊れたような静けさがあった。
「何があったの?」
清美はベッドの脇に座り、そっと声をかけた。
エレベーターでの一件で、逆に感情がどこか吹き飛んでしまった灯里は、会社での出来事を淡々と語った。
だが清美は激怒した。
「まだ橘川グループにいるのに、あの女を会社に引っ張り込んで、オフィスで不倫? しかも手をあげたって?!あのクズ、もう理性もプライドも捨てたの?!灯里、これは公然の挑発だよ。本当に静かに離婚するだけでいいの!?」
灯里は体勢を変えようとしたが、腰の痛みで断念する。
「分かってる。でも……私がこの方法を選んだのは、別に彼が怖いからじゃない」
冷静な声で言う。
「私は、私から彼を捨てたってことを思い知らせたい。汚れて腐った男になんて未練はない。ゴミみたいに、さっさと捨てるだけ」
清美は灯里の髪を優しく撫でて、苦笑した。
「カッコいいこと言って、なんでこんなボロボロになってんの?」
「ちょっとムキになっちゃっただけ」
灯里は自嘲気味に笑う。
「あと半月我慢するだけ。たとえ眼の前で二人が裸でイチャついてても、私はもうまばたき一つしないよ」
「ものもらいになるんじゃない?」
「まっ、動物の交尾を見るくらいって、ただ吐き気になるだけだと思うよ」
「それもそれで胃に悪いな――」
清美はしばらく一緒に過ごし、灯里の様子を見てから、薬局で湿布を買ってきて貼ってあげた。
*
夜が更ける。
湊斗は灯里が行きそうな場所をすべて探し、友人たちにも電話をかけ、両親の家にも行ったが、どこにもいなかった。
一番最初に清美に電話したが、「知らない」と言われた。
十回目の電話が鳴る。
灯里が「出てあげて。たぶん、午後に事務所を出たの気付かれてる」と言う。
「あのクズ男、今さら焦っても遅いわよ」
清美はベランダで受話器を取り、怒りをぶつける。
「橘川湊斗、灯里が消えてくれてあんたにとってちょうどいいじゃないの?これでもう誰にも邪魔されずに、あの女と好き勝手できるかわ、よかったね!」
この一言で、湊斗は二人が一緒にいると確信する。
「灯里に代われ!」
「無理。どこにいるか知らないし。そうだ、もしかしたらもう思い詰めて海にでも飛び込んだかもね? 海底に探しに行ったら?」
清美はそう言い放ち、電話を切った。
湊斗の顔は怒りで引きつっていた。
再び電話が鳴る。
灯里が部屋から出てきて、「代わるよ」と言う。
「清美にはもう迷惑かけない。ちゃんと帰るから」
電話の向こうで、男の荒い息づかいが漏れ聞こえる。
慎重に問いかけてきた。
「今どこにいる? 迎えに行くから。腰は? まだ痛い?」
「は……」
灯里は冷たく笑った。
「そんな見せかけの優しさ、本当に寒気がする」