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第9話 怪我

湊斗は素早くスーツの上着を脱ぎ、戸崎夜亜の裸の身体を覆った。

彼女は泣き叫び、まるで世界の終わりのようだった。


「出て行けっ!」


湊斗は怒鳴りつけ、灯里の蒼白な顔色など全く目に入っていなかった。

田中は我に返り、ふらつく灯里を慌てて支えた。


「大丈夫ですか……?」


灯里は奥歯を噛みしめ、目にうっすら涙を浮かべて湊斗を睨みつけた。


「湊斗、あんたよりクズな人間はもうどこにもいないわ」


田中の手を振り払うと、激しい痛みを堪えながらよろよろと部屋を出ていった。


湊斗の胸に、言いようのない不安が走る。


あの目――

このドアが閉まれば、もう二度と戻らないという決意があった。


動揺が広がった。


田中が小声でささやく。


「社長……奥……長浜さん、腰を強く打ったみたいです。かなりひどい様子で……」


その言葉に、湊斗の瞳孔が縮む。

自分が取り乱して彼女を強く引っ張ったこと、苦しそうな表情を思い出した。

泣き叫ぶ夜亜には目もくれず、慌てて追いかける。


「清美、計画を前倒しにしよう……もう一日たりともあの顔を見たくない」


灯里はエレベーターの隅に身を寄せ、弱々しく電話をかけていた。

声はかすかに震えている。


このままの姿では企画部には戻れない。

何とか運転して新居へとたどり着いた。


電話越しに、宮部清美は灯里の極限状態を察し、バッグと鍵を掴んで家を飛び出した。


「今どこ? 住所を教えて」


灯里は住所を伝える。


「待ってて。すぐ行くから!」


宮部清美は灯里の弁護士であり、親友でもあった。

外見は穏やかだが芯の強い灯里が、湊斗の浮気を知ってからも冷静に離婚の準備を進め、決して涙を見せたことがなかった。


ここまで追い詰められるなんて――

湊斗のやつ、本当に許せない。


「うん……ありがとう」


電話を切ると、灯里は目を閉じ、冷たいエレベーターの壁にもたれかかった。

長い髪が顔を覆い、世界の光を遮る。

思考は暗い渦の中へ沈んでいく――


どれくらい時間が経っただろう。


「もういいか?」


沈黙のエレベーターに、低く冷たい男の声が響いた。

灯里はハッと目を見開き、慌てて顔を上げる。


視線の先には、黒いジャケットの広い肩と白い首筋、そして氷のような目があった。


「あなた……」


追突事故で出会ったあの男だと気づき、言葉を失ったまま、見つめ返すしかなかった。


……


白金雅貴は、目の前の抜け殻のような灯里を見て、ため息をついた。

ぼんやりと自分にくっついてエレベーターに入ってきたかと思えば、隅に固まったまま動かない。


彼は身をかがめて近づく。

190センチ近い長身は、無言の圧迫感を生む。

灯里は反射的に手を上げて防ごうとした。


「何を……」


言い終わる前に、彼の骨ばった手がそっと灯里の腕を押しのけ、指紋認証センサーに手を当てた。


灯里は固まり、この時になってようやく我に返る。


エレベーターが動かないのは、階数ボタンを押していなかったからだ――

しかも自分がセンサーを塞いでいたせいで、彼も操作できなかった。

気まずさで顔が熱くなる。


エレベーターはようやく動き出した。

彼が押した階は「46」、最上階だった。


灯里は体の向きをそっと変え、重苦しい沈黙が流れる。

その時、白金のスマホが鳴った。

彼が電話に出ると、冷たい低音がエレベーター内に響く。


「何の用……スリーサイズ? 長浜って人が俺のスリーサイズを?」


灯里は首をこわばらせ、顔が一気に真っ赤になる。

視界がぼやける。

思い切って息を吸い込み、震える声で問いかけた。


「……えっと…はい。教えていただけますか……?」


白金は無表情で灯里を見つめる。


「……」


チン――


エレベーターの扉が開いた。

灯里は救われた思いで、腰を押さえながら足早に立ち去った。



宮部清美が到着した時、灯里はベッドにうつ伏せになり、腰の激痛で身動きが取れなかった。

それでもなぜか、壊れたような静けさがあった。


「何があったの?」


清美はベッドの脇に座り、そっと声をかけた。

エレベーターでの一件で、逆に感情がどこか吹き飛んでしまった灯里は、会社での出来事を淡々と語った。


だが清美は激怒した。


「まだ橘川グループにいるのに、あの女を会社に引っ張り込んで、オフィスで不倫? しかも手をあげたって?!あのクズ、もう理性もプライドも捨てたの?!灯里、これは公然の挑発だよ。本当に静かに離婚するだけでいいの!?」


灯里は体勢を変えようとしたが、腰の痛みで断念する。


「分かってる。でも……私がこの方法を選んだのは、別に彼が怖いからじゃない」


冷静な声で言う。


「私は、私から彼を捨てたってことを思い知らせたい。汚れて腐った男になんて未練はない。ゴミみたいに、さっさと捨てるだけ」


清美は灯里の髪を優しく撫でて、苦笑した。


「カッコいいこと言って、なんでこんなボロボロになってんの?」

「ちょっとムキになっちゃっただけ」


灯里は自嘲気味に笑う。


「あと半月我慢するだけ。たとえ眼の前で二人が裸でイチャついてても、私はもうまばたき一つしないよ」

「ものもらいになるんじゃない?」

「まっ、動物の交尾を見るくらいって、ただ吐き気になるだけだと思うよ」

「それもそれで胃に悪いな――」


清美はしばらく一緒に過ごし、灯里の様子を見てから、薬局で湿布を買ってきて貼ってあげた。



夜が更ける。


湊斗は灯里が行きそうな場所をすべて探し、友人たちにも電話をかけ、両親の家にも行ったが、どこにもいなかった。


一番最初に清美に電話したが、「知らない」と言われた。


十回目の電話が鳴る。

灯里が「出てあげて。たぶん、午後に事務所を出たの気付かれてる」と言う。


「あのクズ男、今さら焦っても遅いわよ」


清美はベランダで受話器を取り、怒りをぶつける。


「橘川湊斗、灯里が消えてくれてあんたにとってちょうどいいじゃないの?これでもう誰にも邪魔されずに、あの女と好き勝手できるかわ、よかったね!」


この一言で、湊斗は二人が一緒にいると確信する。


「灯里に代われ!」

「無理。どこにいるか知らないし。そうだ、もしかしたらもう思い詰めて海にでも飛び込んだかもね? 海底に探しに行ったら?」


清美はそう言い放ち、電話を切った。

湊斗の顔は怒りで引きつっていた。


再び電話が鳴る。

灯里が部屋から出てきて、「代わるよ」と言う。


「清美にはもう迷惑かけない。ちゃんと帰るから」


電話の向こうで、男の荒い息づかいが漏れ聞こえる。

慎重に問いかけてきた。


「今どこにいる? 迎えに行くから。腰は? まだ痛い?」

「は……」


灯里は冷たく笑った。


「そんな見せかけの優しさ、本当に寒気がする」


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