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第10話 青酸カリ

電話の向こうから、さらに長い沈黙が流れた。


「今日のことは、急だったんだ。わざとじゃない……」


湊斗が言いかけた。


「もういいわ」


灯里の声は冷たかった。


「わざとだろうがそうじゃなかろうが、手をあげた事実は変わらない」

「わかってる……全部俺が悪いんだ!本当に悪かった!……今どこにいる?教えてくれ!」


抑えていた怒りが、湊斗の声に滲み出る。


「……言ったでしょ、ちゃんと帰るから」

「今夜は絶対戻ってこい!さもないと、町中探してでも見つけ出すぞ!」


怒鳴り声には、もはや威圧が混じっていた。

灯里はしばらく黙り込み、やがて観念したように口を開く。


「一時間後には帰る」


新しい家のことは、どうしても明かせない。


車で送り届けてくれたのは宮部清美だった。

心配そうに言葉をかける。


「あのクズ、マジで最低だよ。あんなことしといて、まだ支配しようなんて……あの怒りっぽさと独占欲、あんたが騙して離婚届にサインさせたって知ったら……」


灯里は車窓の外に輝く夜景を見つめ、口元に皮肉な笑みを浮かべた。


「青酸カリでも用意しておこうかな。あいつに殺される前に、先にあいつをあの世に送ってやるためにね」



玄関に入ると、湊斗がすぐに駆け寄ってきた。

顔には心配と苛立ちが交錯している。


灯里は彼を一瞥し、無言で靴を履き替える。

その動作で腰の傷が痛み、眉をひそめた。


湊斗は支えようと手を伸ばす。


「触らないで!」


灯里はまるで汚いものでも触られたかのように、身を引いた。

――痛みも構わずに。


湊斗は気まずそうに手を引き、後ろからついてきた。

そしてスマホの画面を差し出した。


「オフィスに監視カメラを付けた。いつでも確認できる。今日みたいなことは二度とない」


灯里は少し驚いた。

どうせまたごまかすと思っていたからだ。

彼女はしばらく画面を見つめ、やがて意味深に問いかける。


「また“抜き打ちチェック”されて、あの子が恥をかくのが怖いの?」


湊斗は言葉に詰まる。


「本当に、何もないんだ!


……うん、認めるよ。確かに彼女は可愛くて面白い子だ。でも本当に妹としか思ってない。会社に来てるのも、彼女の父親から頼まれて俺が面倒見てるだけだ。


橘川グループと戸崎ホールディングス、来週契約なんだ。戸崎家からの細かい要望くらい、断れないんだろ!」


ほら、もっともらしい理由ばかり。


妹みたいな存在。

会社のためだから。

だから彼女を甘やかして、欲求を満たして、妻を傷つけても平気なんだ……。


灯里は胸の内で軽蔑し、じっと湊斗を見つめた。

少しして、あえて納得したような表情を作る。


「へえ~?本当に妹みたいなもの?でも彼女、あなたと“何度も一緒に夜を過ごしてる”って言ってたよ?兄と妹が一緒に寝るなんて……それ、近親相姦だよね」

「……あいつはただのワガママな子供だ。口から出まかせばかりさ」

「口から出まかせだけど、“可愛くて面白い”んでしょ?」

「……」


灯里の皮肉を、湊斗が気づかないはずもない。

ため息をついて言う。


「……とにかく、俺と彼女の間にやましいことはない。君はしばらく旅行でもしてきて。戻ったら子供を作ろう。これからは安心して橘川の妻でいてほしい。約束する、橘川家の奥さんの座は、ずっと君のものだから」


灯里はじっと彼を見つめ、やがて微笑みを浮かべる。


なるほど。

橘川家の奥さんの座が永遠に保証されてるから、夫の浮気や裏切りには目をつぶれってことね。


でもなぜ私が、あなたのためにそこまでしなきゃいけないの?


浮気して、女とバカンスして、ベッドまでを共にして――


何度も自分の心を切り刻んでおいて、最後には壊れた心を抱えたまま、

彼の子供を産んで、一生一緒にいろと?


なんて残酷で、なんて身勝手な男なんだろう。


「愛してるよ」


湊斗は、灯里が微笑んだのを見て、もう大丈夫だと勘違いし、強く抱きしめてきた。

まるで本当に失うのが怖いかのように。


灯里の心はもう何も感じなかった。

彼の本性が見えるたびに、離れる決意が強くなる。



湊斗は灯里を階上に連れていき、家庭医を呼んで腰の状態を診てもらった。

骨には異常なしと聞いて、ようやく安心した様子だ。


灯里が風呂場に入ろうとすると、湊斗もついてきた。


「手伝おうか?」

「……いらない」


本当に、彼のコーヒーに青酸カリを入れたくなりそうだった。

灯里の拒絶を感じ取った湊斗は、不満げだがそれ以上強引にはならなかった。


「外にいるから、何かあったら呼んで」

「うん」


灯里はにっこり微笑む。

安心して、死んでもあんたなんか呼ばないから。


パジャマ姿で出てくると、湊斗はまだドアの前にいた。

バス上りの香りがほんのり漂い、潤んだ肌に、肩が少し見えている。

細い腰が動きに合わせてちらりと現れる。


湊斗の目が、次第に暗くなった。

灯里はベッドへ向かう。


「腰が痛いから、何もできないよ」


湊斗は後ろから抱きしめ、肩に口づけを落とす。

強引に逃がさないように。


「優しくするから……」

「疲れてるし、痛いし、そんな気分じゃない」


灯里はきっぱり言い切った。


興味がない灯里の様子に、湊斗はしぶしぶ手を離す。

「……じゃあもう寝よう」


表情を消して、部屋を出ていった。


灯里は「もう会社には行かない」と宣言した通り、本当に出社しなくなった。


企画部の仲間たちとこっそり食事会を開き、退職を発表した。

皆、残念がって惜しんだ。

社内では社長の彼女として有名で、最初は「男の力で出世した」と陰口を叩く者もいた。


だが、数々のプロジェクトを成功させてからは、彼女のマネジメント力や技術力、そして会社への貢献は誰よりも大きかった。

プロジェクトが成功するたび、誰よりも喜んでいた。


プライベートでも「橘川家の奥さんになるために頑張ってるんだろう」と囁かれていた。

それなのに、あっさり辞めるなんて……


「ごめんね、個人的な事情で、橘川グループにはもう残れないの。みんなも頑張って。何かあったらいつでも連絡してほしいし、遊びにも誘ってね」


灯里はグラスを掲げて乾杯した。

チームリーダーの佐藤心は、涙をこぼした。


灯里と一番長く働き、一番信頼していたのだ。

灯里がいなくなれば、企画部の柱が消えてしまう。


みんな、理由は分かっている。

社長が戸崎家のお嬢さんを会社に押し込んで、しかも灯里がオフィスで二人の怪しい現場を見てしまった……こんな状況で、誰が心穏やかでいられるだろうか。


その夜の食事会は、しんみりとした空気に包まれた。


「これからどうするの?」と誰かが尋ねると、

灯里は「まだ何も決めてない」と答えた。


するとすぐに、

「白金コンツェルンはどう?ウォール街から戻ったばかりの御曹司が人材を探してるって。ずっと秘書のポジションが空いてるらしいよ」

と、勧めてくれる声が上がった。


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