「長浜さんを秘書……!?正気なの!?」
すぐさま誰かが反論した。
「長浜さんは文武両道で若くて美人、実績も申し分ない。どこの会社だって喉から手が出るほど欲しがるわよ。転職市場に出たらヘッドハンターが殺到するって!」
灯里はただ微笑むだけだった。
実際、みんなはヘッドハンターの嗅覚を甘く見ている。
十日前にはすでに次のキャリアについて打診する連絡があった――
その時点では、彼女が橘川グループを離れることはまだ誰にも知られていなかったのに。
皆の話題は尽きなかった。
「目先のことばかり見てちゃダメよ!だって、白金コンツェルンの御曹司の秘書だよ?横浜でも一流の人脈に触れられるし、うまくやれば将来は明るい!
海外の大手企業で、秘書から数年で副社長に昇進して、最終的に社長夫人になった人もいるんだって!」
「それ聞いたら、私も応募したくなったわ~」
「その御曹司って、どんな人?イケメン?」
「会ったことないな。白金家には子どもが四人いるけど、顔を出してるのは次女だけ。他の三人は謎に包まれてるって」
……
話はどんどん脱線していく。
灯里は呆れ笑いしながら聞いていた。
みんなが恋に夢を見る姿を見て、自分だけが世の中を悟った尼僧みたいに感じてしまう。
恋なんてもうごめんだ。
でも――
仕事のことは考えないといけない。
独立したくても、これまでの人脈はすべて橘川湊斗に繋がっている。
関係を断てば、周囲は誰も味方してくれないだろう。
やっぱり、もっと実績を積む必要がある。
*
夜、灯里は友人の向田麻衣に白金コンツェルンやその御曹司について情報を求めた。
電話越しに気だるげな笑い声が響く。
「他の男のことを探るなんて、湊斗に嫉妬されない?」
「勝手にすれば」
「ねえ、まさか別れたってことはないよね?」
麻衣が興味津々に聞く。
「今のところは、まだ」
その返事で全てを察した麻衣は、ため息をつく。
「やっぱり噂は本当だったんだ。八年も付き合って、あいつマジで最低!」
「だから自分の将来を考えないと。あっちが秘書を募集してるって聞いて、ちょっと挑戦してみようと思って」
「目的はなに?男?それともお金?」
「これからは金だけ信じる」
「ははは……了解!任せて!絶対にあの御曹司に会わせてあげる!」
「ありがとう」
「いい知らせを待ってて!」
電話を切った灯里はパソコンの前に座った。
「白金雅貴」について調べても、情報はほんのわずかしか出てこない。
どうやってこの財神様の性格を探ればいいかと考えていると、書斎のドアが開かれた。
湊斗だった。
灯里はノートパソコンを閉じる。
二人にはそれぞれの書斎があり、仲が良かった時期は一緒に過ごしていたが、
今では上下関係だけになり、家にいても互いを干渉しなくなっていた。
「何か用?」
灯里が顔を上げる。
「何でもない時に来たらダメか?」
「……別にいいけど。私が出て行った後なら好きにして」
湊斗は灯里がパソコンを閉じた様子をじっと見ていた――
あきらかに警戒されていると感じたのだろう。
彼はリクライニングチェアに腰かける。
「ひとつ、前もって話しておきたいことがある。」
「何?」
湊斗は数秒ほど視線を落とす。
「夜亜が、君の企画部に行きたいって言ってる」
灯里は嫌な予感がしていたが、やはりこの一言に心を刺された。
顔色が目に見えて冷たくなる。
「会社には他にも部門がいっぱいあるのに、どうして企画部じゃないとダメなの?」
「そんな言い方はないだろ。彼女はやる気があるんだ。応援してやるべきだろ?」
「……やる気があるなら、他の部署に行かせればいい。企画部だけはダメ。あそこは私のチーム。全部、私が育ててきたんだから!」
「もっと冷静になれよ。君はもう退職して、会社の人間じゃない。企画部も、お前のものじゃないだろ?」
「……」
灯里の喉が詰まる。
そうだ、橘川グループは湊斗のもの。
自分にはもう何の権利もない。
自分が一生懸命築き上げてきたものを、彼が新しい女のために差し出そうとしているのに、どうすることもできない。
湊斗は苛立ちを抑えた。
「そんなに悪く考えるなよ。彼女が問題を起こしたりしないように、俺がちゃんと見てるから」
「好きにすれば」
灯里の声はかすれていた。
もう疲れ切っていた。
湊斗の瞳はさらに苛立ちを帯びる。
「こうやって前もって話したのは、君に無駄に怒ってほしくなかったからだ。君が夜亜に敵意を持ってるのは知ってるけど、俺の立場も考えてくれ。今うちと戸崎家は取引中なんだ。君の感情のために、戸崎家と揉めろっていうのか?」
灯里はあまりの理不尽さに言葉を失った。
自分は何も悪くないのに。
男は奪われ、仕事も無くなり、今度は新しい女にまで頭を下げろと言われている。
「は……」
悔しさのあまり、思わず笑いがこみ上げ、口の中に鉄のような味が広がった。
*
三日後、灯里は会社に戻り、引き継ぎ作業に取り掛かった。
戸崎夜亜は高級ブランドのスーツに身を包み、
勝ち誇った顔で灯里のオフィスに乗り込んできた。
部屋の家具や飾りはすべて捨てられ、灯里が長年集めた表彰盾はごみ箱に無造作に放り込まれていた。
企画部は大騒ぎになった。
誰が灯里の後任になるかと噂していたものの、まさか何もできない人が来るとは思っていなかった。
秘書課によれば、夜亜はプリンターの使い方すらわからず、
毎日お菓子を食べてゲームばかりしているという。
パソコンがゲームでウイルス感染し、逆ギレして秘書のパソコンを奪い、重要なファイルを誤って削除。
そのあげく、社長は被害にあった秘書を解雇したという。
企画部で何をしでかすか、誰も想像がつかなかった。
オフィスで、灯里は無表情で引き継ぎを始める。
重要な書類に手を伸ばした瞬間、夜亜が得意げに話し始めた。
「長浜さん、今どんな気分?男も仕事も全部失って。あなたが何年もかけて手に入れたもの、私は一言で全部奪えるのよ。なぜかわかる?
教えてあげよう。私には後ろ盾がいるけど、あなたにはいないから。
私たちの世界じゃ、あなたみたいな“そこそこ綺麗な子”なんていくらでもいる。ただの男の遊び道具よ。橘川家に嫁ごうなんて、身の程を知りなさい」