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第15話 誤解の種

伊藤は小声で報告を続けていた。


白金雅貴は目を伏せ、タブレットの画面に映る女性の写真をじっと見つめている。

写真の中の彼女は黒のスーツを身にまとい、明るくきりりとした表情で、生まれ持った自信と誇りがそのまま表れていた。


何度か偶然出会った時の彼女とは、まるで別人だった。


あのときは、惨めで、落ち込み、今にも壊れそうな――

そして今日は……必死に媚びようとして、結局は耐えきれずに逃げ出した姿。


胸の奥に、得体の知れない苛立ちがさっと走る。

……今日の言葉、少しきつすぎたかもしれない。



灯里が目を覚ましたのは夜の九時過ぎ。

キッチンでラーメンを作っていると、スマホが何度か震えた。


伊藤からのメッセージだった。


前彼に白金の身長・体重・スリーサイズを聞いてから、そのまま既読スルーされ、それ以来返事もなかった。

だが今回は、画面に正確な数字が並び、さらにメッセージが添えられていた。


「雅貴様がスーツを弁償してもらうために、迷わないようにサイズをお伝えするようにと仰せでした」


灯里はスマホを見つめ、まるで幽霊でも見たかのように固まった。


……どういう意味?

もしかして、気が変わった? 

もう一度チャンスをくれるつもり?


一瞬そんな考えが頭をよぎったが、すぐに自分で打ち消した。


いやいや、そんな都合のいい話はない……。

むしろ、もうスーツを口実に近づかせないため、先に釘を刺してきたのかもしれない。

もし自分からスーツを持って近づこうものなら、もっと惨めな目に遭うだけだろう。


あの仕事は欲しい。

でも、プライドを捨ててまでしがみつく気はなかった。


慎重に返信する。


「サイズ、承知しました。できるだけ早く購入してお送りします」


伊藤はその返事を見て、白金雅貴の方へ向き直る。


「サイズは確認できたので、できるだけ早く郵送するそうです」


郵送?

白い縁のメガネをかけて本を読んでいた白金雅貴は、ページをめくる指がほんの一瞬止まった。


「……あぁ」


軽く返事をして、視線を再び本へ戻す。

無関心を装っている。


「雅貴様、もしや……」


伊藤は主の意図が「歩み寄り」だと察し、灯里のことも気の毒に思い、つい口を挟みかけた。


「本人が望まないなら、無理強いする必要はない。」

「……」


本当に彼女が望んでいないのだろうか? 

伊藤は違和感を覚えたが、それ以上は黙っておくことにした。



翌日、灯里はスーツを買いに出かけた。

彼女が家を出ると、すぐに一台の車が静かに後をつけた。


横浜中の高級デパートをいくつも巡り、何度も比較しながら、あのスーツに近い生地や仕立てを探した。


二時間以上歩き回り、足が痛くなるほどだったが、なかなか納得できるものが見つからない。

あのスーツは明らかにオーダーメイドの最高級品で、普通のブランドじゃ太刀打ちできない。


ベンチに座り、彼がスーツを受け取った時の、あの上品でどこか無関心な表情が目に浮かぶ。


「……まあ、いいっか」


気に入ろうが気に入るまいが、もうどうでもいい。


少し休んでから、以前目をつけていた店に入り、なるべく近い色と質感のスーツを選んだ。スタッフがサイズを確認しながら感心したように言う。


「ご主人様、きっとスタイルが素晴らしいんですね!」


灯里は無表情で口元を引きつらせる。

袋を手に店を出ると、すぐ伊藤に送り先を尋ねるメッセージを送った。


その時、彼女の様子を遠くから撮影した人物が、その写真を湊斗へ送信した。



湊斗は、ちょうど会議を終えてオフィスに戻ったところだった。


昨日ゴルフ場で見かけたあのセクシーな後ろ姿が、ずっと頭から離れない。

どう見ても灯里に見えた。


しかも、彼女の前には男の影――。


自分は遊んででもいいが、彼女は違う。

灯里は自分だけのもの、彼女の目に映るのは自分だけでなければならない。

もしそうでなければ、死んでも一緒に墜ちてやる。


だから人をつけて監視していた。


席に着いた途端、写真が届く。

灯里は三時間もデパートを巡り、最後は男性用のスーツを買って帰宅した。


湊斗の機嫌は一気に良くなった。

やっぱり自分のために服を買いに行っていたのか。

もう拗ねたりしないってことか。


それでこそ、自分の奥さんだ。

素直でいてくれればそれでいい。



灯里は、本当はすぐに宅配便で送るつもりだったが、伊藤からの返信はまたしてもなかった。

仕方なく、スーツをそのまま家に持ち帰り、リビングのソファに放り投げて、さっさとシャワーを浴びに上がった。


午後は、引っ越しのために最後の荷物をまとめていた。


あと八日。

長年住み慣れた家を見渡すと、胸に重い哀しみがこみ上げる。


この家の隅々まで、自分のこだわりが詰まっている。

どの家具も、どの小物も、全部自分で選んだ。

赤ちゃんの部屋まで用意していた。


一生を共にするつもりだったのに、途中で降りることになるなんて。


書斎の奥にある、ずっと開けていなかった引き出しを整理していると、隅から古いUSBメモリが出てきた。

パソコンに挿してみると、中身は全部、自分と湊斗の昔の写真――高校時代の青さ、大学時代の輝き。


あの頃の彼は、瞳が澄んでいて、笑顔もまっすぐだった。

写真を一枚一枚めくりながら、泣いたり笑ったり……

まるで時間が巻き戻ったような気持ちになる。


ふと、思い出の中の彼に、ちゃんと別れを告げたくなった。



夕方、湊斗が珍しく家で夕飯を食べると言って帰ってきた。


灯里は彼の分など用意していないし、作る気もなかった。

家中を探し回り、いつ買ったかも分からない、賞味期限が一年以上切れていそうなカップ麺を投げてよこす。


「……」

「外で食べてきたら?」


外の物が好きなんでしょ。

女も、ベッドも、家のものより外の方がいいんじゃない。


「……っ!」


追い出そうとしているのか?

一日中ご機嫌だった湊斗の気持ちは、一気に冷え込んだ。


「他の家の奥さんはちゃんと飯を作って旦那の帰りを待っているのに……俺にはカップ麺か?」


……毒入りラーメンにしなかっただけありがたいと思いなさい。

面倒なので、キッチンを指さす。


「トマト鍋のスープが一人分だけあるけど、もともと自分のためのだから。嫌なら食べなくていいよ」


湊斗は、ついに怒りをあらわにする。


「……俺がトマト嫌いなの、忘れたのか?」


灯里は、まるで今気づいたように手を打つ。


「あっ、ほんとだ。忘れてた」


湊斗の表情はみるみる険しくなり、鋭い視線で彼女を刺すように一瞥し、黙ってリビングを後にして階段を上がっていった。


灯里は気にする様子もなく、トマト鍋を持ってダイニングテーブルに座り、お笑い番組を観ながら食事をする。



湊斗は書斎で一人、ひたすら不機嫌だった。


昼間、三時間もかけて自分のためにスーツを選んでくれたはずの女が、なぜ家に帰るとこんな態度なのか。

予告なしで帰宅したとはいえ、普通はすぐに料理を用意するだろう。


しかも、自分の好き嫌いさえ忘れているなんて……。


苛立ちが頂点に達し、クローゼットへ向かう。

彼女がどんなスーツを選んだのか見てやろうと、部屋中を探したが見当たらない。

問いただそうと階段に向かったとき、ふと足が止まった。


部屋全体をじっと見渡す。


……彼女の持ち物が、妙に減っている――。


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