六月一日、午前八時。
雨上がりの東京・新宿駅構内は、朝の通勤客でごった返していた。改札を抜けた真聖は、いつものようにスマートフォンでニュースを流し見しながらエスカレーターへと足を運ぶ。
彼の足取りは速くも遅くもない。焦燥も高揚もなく、ただ習慣に従うだけの動きだ。
「――危ない!」
甲高い声が背後から飛んできた。反射的に振り向くと、長い黒髪をひとまとめにした女性が、スーツケースを抱えて駆け込んでくる。つむぎだった。
彼女は空手道場に通う社会人で、勝ち気な視線を真聖に投げてきた。
「どいて!」
礼を失しない言い方ではあるが、強い闘争心を帯びている。真聖は肩をずらし、彼女が前に出られるよう道を開けた。
――その瞬間。
大きな揺れが床下から突き上げ、轟音が響き渡った。
周囲の通勤客が一斉に悲鳴を上げ、荷物を取り落としながらしゃがみ込む。
「地震か?」
真聖は冷静に周囲を確認し、エスカレーターの緊急停止ボタンを目で探す。しかし、次の瞬間、床が大きく裂けた。
エスカレーター中央部から下方へと暗い縦穴が広がり、真聖とつむぎを飲み込むように崩れ落ちた。
重力に引かれ、二人の身体は暗闇へと投げ出される。
風圧が頬を打ち、耳元で鉄骨が軋む音が響いた。
「真聖!」
つむぎの声が近くで聞こえる。彼は必死に手を伸ばし、彼女の手首を掴んだ。
その瞬間、視界全体が虹色の稲妻で覆われた。
雷鳴のような音が鼓膜を突き抜け、身体中の毛穴が総立ちになる。
次いで、あらゆる音が消え、白一色の世界が広がった。
上下も前後もわからない空間で、真聖は不思議と恐怖を感じていなかった。
――ただ、静かだった。
気がつくと、背中に固い石畳の感触を覚えた。
顔を上げると、そこには見たこともない街並みが広がっていた。
瓦礫が散乱し、建物はどれも異国風の尖塔を備えている。
そして頭上には、二つの太陽が並んでいた。
「……ここは、どこだ?」
真聖は無意識に声を漏らした。
その傍らでつむぎも目を覚まし、瓦礫に手を突いて立ち上がった。
「さっきの縦穴は? 東京は? ……いや、ここ、暑いな」
彼女の額には玉の汗が滲んでいた。
――異世界、という言葉が脳裏をよぎったが、真聖はその可能性を無理やり押し殺した。
周囲から甲冑の軋む音と、複数の足音が近づいてくる。
振り返った先には、銀色の鎧をまとった兵士たちがいた。槍を構え、異様な緊張感を放っている。
「待て、動くな!」
先頭の兵士が鋭く命じる。
真聖は両手をゆっくり挙げた。パニックを起こすより、状況を観察する方が得策だと判断したのだ。
つむぎは眉をひそめつつも、無駄に反抗はせず、その場で足を止める。
「ここは……どこなんですか?」
問いかけたが、兵士たちは互いに顔を見合わせるだけで答えない。
兵士の一人が、何やら見たことのない円形の装置を腰から取り出し、こちらにかざした。
淡い青色の光が真聖とつむぎを包み込み、すぐに消えた。
「……異邦の者か」
先頭の兵士が呟くと同時に、二人は背後から拘束された。
「ちょっと待て!」
つむぎは抗議の声を上げたが、兵士の一人が淡々と答えた。
「説明は王宮でだ。動くな」
こうして真聖とつむぎは、異世界と思しき場所で、いきなり王宮へと連行されることになった。
その道中、真聖は周囲の建築様式や人々の衣装、そして二つの太陽を何度も確認する。
頭のどこかで、これは夢だと断じたい気持ちがあった。
しかし、つむぎが隣で現実感を帯びた息遣いをしている限り、それは否定された。
王宮と呼ばれた建物は、広大な石造りの城であった。
天井の高い玄関ホールに入ると、鮮やかな赤い絨毯の先に、白銀の髪を持つ女性が立っていた。
王女リアスと呼ばれるその人物は、凛とした佇まいで二人を見下ろした。
「天より落ちた者たち、か」
リアスの声は落ち着いていて、しかし厳しさを孕んでいた。
「名を名乗れ」
「真聖。東京から……いや、地球から来た、としか言いようがない」
「つむぎです。同じく」
リアスは視線を鋭くした。
「地球? 聞いたことのない国だ。だが……おまえたちは偶然の旅人ではないな」
その一言に、真聖は軽く眉を動かした。
この世界で何が起きているのか、そしてなぜ自分たちが巻き込まれたのか――答えを探さねばならない。
だが、胸の奥底で不思議な高揚感が芽生えていることに、真聖自身も気づいていた。
リアスは玉座の前で片膝をつき、片手を胸に当てた儀礼の姿勢を崩さない。
「おまえたちが落ちてきた地点――地下遺跡の入り口は、今や危険地帯となっている。原因は“二重輪(ダブルリング)”と呼ばれる古代の魔導機械だ」
その言葉に、真聖は思わず問い返す。
「二重輪……それが、俺たちをここに?」
「可能性は高い。輪が完全に暴走すれば、王都ルテオラそのものが消えるだろう」
リアスは表情を変えず淡々と語った。
「帰還したいなら、輪の調査に協力せよ。おまえたちの知識が役立つやもしれぬ」
「つまり……王国の依頼を引き受けろと?」
真聖は一拍置いて頷く。「分かった。俺たちも帰り道を探す必要がある」
つむぎも小さく息を吐いた。「やるしかない、ってことね」
彼女の声音はどこか戦場に挑む覚悟を宿していた。
――こうして、真聖とつむぎの異世界での生活が始まる。
まだ、仲間との再会も、待ち受ける試練も、このときの二人は知らなかった。
ただ一つ、確かなのは――落下で始まった運命の歯車は、もう止まらないということだった。